”泣く木”と刻まれた石碑があること自体、この地で悲しい出来事が起きたことを容易にうかがわせます。泣く木の名前は、この木を伐採しようとして鋸を入れると、木がキューキューと音をたてて、それが人の泣き声のように聞こえたことから付けられました。
未開の地であった北海道は、明治時代になって急速に開拓が進められました。具体的には明治政府によって道路と鉄道の建設が進められたのです。ただ、その労働力は今のように労働者を募集して行ったのではなく、屯田兵や東北地方の入植者、また、囚人やタコ部屋と呼ばれた強制労働によって行われました。
タコ部屋は早朝から深夜までひたすら肉体労働を強制されます。食事は立ったままとらされて、枕は木の切り株が与えられました。宿舎は施錠されて、脱走しないように常に監視役に見張られています。少しでも仕事の手を抜けば、馬車馬のように鞭や木材で殴打されます。逃げ出そうとしたものは見せしめのために、極寒の北海道で裸のまま縛られて宿舎の外に吊るされます。重労働や不衛生な環境、そして粗末な食事しか与えられないために、多くの人が病気になって亡くなりました。あまりにひどい状況に、警察が見回りに来た時にわざと警官の前で暴行や殺人未遂を犯して、刑務所へ逃れようとする者まで現れました。国道234号線の工事でも寒さと飢えの中で、数多くの労働者が命を落としました。そしてそのご遺体は当時、立っていたニレの巨木の根本に埋められていったのです。
このニレの木については、労働者の暮らす飯場で飯炊き女に雇われた女性が、作業員から何度も暴行されて慰み者となりました。そして精神を病んでこの木で首をくくったという話も残されています。他にもアイヌの娘が若者と恋に落ちたもののかなわずに二人してこの木で首を吊ったという話もあります。そうやってこのニレの巨木は強い怨念の残った木として地元の人たちから恐れられていたのです。
しかし、昭和45年8月22日の夜に、国道234号線の舗装工事と国道の隣を流れる夕張川の護岸工事のためにこの場所で寝泊まりしていた若者が酒に酔って仲間と賭けをした勢いで、このニレの巨木をチェーンソーで一気に切り倒してしまいました。この若者はおそらく霊的な間口が狭かったのでしょう。そのため、大きな悪影響はなくその後も生きています。しかし倒れた木の木片を記念に持っていた複数の人が、夜になると悪夢を見るようになり、体調不良で急死したものまで出たと言われています。そして今では”泣く木”と刻まれた石碑の隣に、切り倒されたニレの木の種子から育った若木が育っています。そして今でも、広大な北海道の大地を貫く一直線の国道のこの地点だけ、カーブになって迂回されたままになっているのです。(3)へ続く。