私は霊体(=死霊)や念(=生霊)、また神に付き従う従者(=眷属:蛇や狐、龍など)を総称して”霊的なもの”と呼んでいます。その中には長く現世にとどまり続けた結果、霊体の形が壊れてしまったかけらや埃、餓鬼(がき)や魅鬼(みき)跋鬼(ばっき)などの”鬼”、さらには魑魅魍魎の類も霊的なものに含まれると考えています。眷属や鬼、魑魅魍魎は、それ自体が強い力を持っているわけではありません。人間の魂である”霊体”や生きている人間が出す”念”に比べれば、これらはそれ自体の力は弱いのですが、これも数が増えて何百、何千と集まれば、人の生死にかかわるぐらいにやっかいな存在になってきます。

 

今もまだ浄霊が継続中ですが、最近は除霊や浄霊の依頼が増えて、それに伴って不浄霊と対峙する機会が増えてきました。元凶になっている不浄霊と対峙するとき、その不浄霊は自分の周りの、自分と波長の近い他の不浄霊や眷属、或いは霊的なものを呼び込んでいます。ですからまずはこの取り巻きの霊的なものを祓うことで一苦労します。霊的なものの中でも”鬼”の類を目にすることがここのところ増えてきたように思います。

 

鬼は代表的なものは、今述べた3体の鬼を含めて十五鬼と言われるものがあります。鬼はさまざまな形で人を惑わして、人の足を引っ張ります。人が望む幸せな人生へ向かわせずに、タイミングをずらしたり、無意識の選択を悪い方へ導いて、不幸や孤立化へ導きます。それは不浄霊や念がもたらす霊障とまったく同じです。ですから鬼や魑魅魍魎も霊体と同じように霊的なものとして考えています。そして鬼はそもそも人間が何かの理由によって、人間へ生まれかわることができずに、死んだのちに鬼になったと考えられています。

 

仏教の世界観では、人間は死後に六つの道筋に分かれて生まれかわります。その六つの道とは”天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道”の六つです。これは六道輪廻と呼ばれています。私の感覚からすると、ほとんどの人間は死んで輪廻転生しても人間に生まれ変わります。この道筋を決めるものはその人が生きていた時の”業”になります。分かりやすく言えば、人として正しく生きている人は普通に人間道へ入って生まれかわります。人としてよくよくひどい生き方をしてきた場合は、死後にその報いを受けて、人間道ではなくて他の道筋へ生まれかわります。

 

ですから人間として生きていた時間に人を騙したり、嘘をついたり、欲に駆られたり、自分勝手の度があまりにも過ぎた人は、人間ではなく鬼に生まれ変わってしまうということです。鬼は今お伝えした十五鬼以外にもさまざまにあります。ある鬼は人間に肉体的苦痛を与え、ある鬼は女性が妊娠することを妨げ、ある鬼は人に怨念を植え付け、ある鬼は人を伝染病に感染させます。その人が残した生前の業によって、明確に役割分担されたどの鬼に生まれ変わるのかが決定いされるていくのです。(2)へ続く。