塚とは周囲よりも高く築いた場所を指します。具体的には墓所や祭祀が行われた場所を”塚”と呼びます。それに首が付いた”首塚”は昔の合戦などで討ち取られたものの首や捕虜になって処刑されたものたちの首を弔う場所です。昔の戦では戦功を首を確認する首実検によって確かめたために、全国に数多くの首塚が建てられました。有名なものでは京都市にある明智光秀の首塚、愛知県岡崎市にある近藤勇の首塚、京都市にある新田義貞の首塚などがあります。ただ、首塚と聞いて多くの人が頭に浮かぶのは東京都千代田区にある平将門の首塚ではないでしょうか。

 

皇居を取り囲む内堀通りは、まさに皇居のお堀に沿って走っています。皇居はいつもお伝えしている通り、最高のパワースポットですから、内堀通りも大好きな道です。ただ、東京のまさに中心にある東京消防庁から大手門にかけての一角は何度通っても気持ちが晴れません。それは内堀通りからわずか100mほど奥に入ったところに将門の首塚があるからです。

 

平将門は平安時代中期の関東の豪族です。平家の血筋で桓武天皇の子孫にあたります。平氏一族の抗争から一時は関東一円に勢力を広げ、「新皇」を自称して東国を独立国家であると宣言しました。そのため朝敵となり、即位後、2か月で朝廷の軍勢によって討伐されました。その首は京都の都大路にさらされて3日目の夜に夜空へ舞い上がり、東国を目指して飛んで行ったと言われています。そして数か所に落下して、そのいずれもが”平将門の首塚”と言われいます。

 

平将門の怨念と言われているエピソードはいくつか残されています。一つは関東大震災の後の都市再開発で、首塚をつぶして当時の大蔵省の庁舎を建て替えようとしたときに、工事関係者や大蔵省職員、さらには当時の大蔵大臣:早速整爾までが不審な死に方をしたため、首塚の祟りではないかと言われました。

 

あとは太平洋戦争の終戦後に、GHQが丸の内周辺の区画整理のために、邪魔になる首塚を撤去して土地を造成しようとしたところ、不審な事故がいくつも重なったために、工事の計画を中止しました。大蔵省やGHQという、時の権力者たちでさえ、この首塚を撤去することを諦めたのです。それは目には見えなくても何かの力が働いていることを当事者たちが誰よりも実感していたからではないでしょうか。

 

今はこの首塚は地元のボランティア団体がきれいに整備して掃除をしています。私からみると怨念や祟りは封じ込められている状態ですが、決してそれが昇華されたわけではないのです。ですからこの近くを通ると、何か気持ちが落ち着かず、胸騒ぎがしてしまいます。