先日、出張鑑定で品川まで出かけてきました。国道15号線にかかる踏切の近くで最寄り駅は京浜急行の北品川駅になります。付近には高級ホテルや高級マンションが林立している人気のエリアです。国道15号線は東京都から神奈川県へ続く幹線道路ですので、車では何回も通っています。ただ、この町で降りたことは一度もありません。私は目的地の近くのタイムスに車を停めて初めての街並みを見ながら5分程歩きました。すると辺りには、この町が古い宿場町であったことを示す石碑や看板があちこちに立てられていました。

 

ただ、私にとってこの町が気持ちの良い場所であるかと言えば、むしろその逆でした。商店街を歩きましたが人は閑散として、寂しさが漂っています。しかも町の空気は重く、景色も暗く沈んでいます。そしてこの土地にゆかりのある人の思いがひしひしと私に伝わってきます。それは深い悲しみや絶望感に満ち溢れた女の思いでした。中には成仏できずにこの地にとどまっている死霊も混じっています。気が付けば、私は口の中でマントラを唱えて、両手はポケットの中のパワーストーンを握りしめていました。

 

それでも私は特に霊障を受けることもなく無事に出張鑑定を終えて帰宅しました。そしてすぐにパソコンを開いて、この町がどんな場所なのかを調べました。答えはすぐに見つかりました。私が訪れた場所は、東海道の最初の宿場町である”品川宿”の跡地でした。ただ、品川宿は大きな岡場所が置かれていた江戸四宿(=千住・板橋・内藤新宿・品川)に数えられていました。岡とは、傍目とか脇という意味です。江戸時代、江戸の町には幕府公認の吉原遊郭がありました。そして、幕府非公認の遊郭の総称が岡場所なのです。

 

ただ、非公認と言っても、幕府はこれらの宿場に”飯盛女”(=給仕もして夜の相手もする遊女)を置くことを認めていました。しかもその人数は制限されていて、千住と板橋が150人まで、内藤新宿が250人まで、品川宿は500人まで置くことが許されていたのです。当時の吉原遊郭は格式が高く、玉代も高かったのですが、岡場所は面倒なしがらみもなく玉代も安いので、庶民はむしろ岡場所を利用していたようでした。

 

男性にとって安いお金で女を抱いて遊べることは楽しかったかもしれません。しかし女性はたまったものではありません。好きで遊女になる女性はいません。親に売られたり、幼い兄弟や家を助けるために泣く泣く遊女になったのです。その悲しみや寂しさ、絶望感は察するに余りあります。その苦渋の思いは200年、300年が経過した今もこの土地にしっかりとしみ込んでいるのです。

 

以前、荒川区南千住へ出かけた時も、品川宿以上に、辛い思いにさいなまれて気を失いかけたことがあります。この辺りには浄閑寺というお寺があります。このお寺は”投げ込み寺”と言われています。浄閑寺の近くには吉原遊郭があります。ここで働いていた遊女たちは病気になっても治療や養生などさせてもらえません。死んでもきちんと弔われることなく、このお寺に投げ込まれるだけです。この土地で感じた悲しみや胸が張り裂けるような暗澹たる思いが、北品川へ行ったときによみがえってきたのです。南千住には小塚原の刑場跡もありますので、私にとってはとても近づくことのできない危険なエリアになっています。(2)へ続く。