丹那トンネルのことは、そこを通過するわずか7分の間にあまりにも不思議な体験をするので、子供の頃に親に尋ねたことが何度もあります。そのたびに親からは「ここは地盤がとても悪いために、工事中に何度も事故が起きた場所だ」と聞かされました。ただ、このトンネルができるまで、東海道本線は、国府津から今の御殿場線を経由して沼津に抜けていました。この区間は急な勾配が続くために、補助の機関車を連結しなければなりません。丹那トンネルの開通によって国府津から沼津までの距離は、11・8キロも短縮されましたが、それ以上に急勾配での速度低下や補助機関車の連結時間など、経済的・時間的な大きなメリットがこのトンネルによって生まれたのです。

 

丹那トンネルは1918年から1933年まで、16年の歳月をかけて開通しました。長さは7804メートルです。当初は7年の工期を予定していたものが、9年も延長したのですから、いかに難工事であったのか想像できます。この場所は丹那断層が通っていて、地盤がとても柔らかいためトンネルを掘り進める中で崩落が起こりやすいのです。さらに丹那盆地は元々、ワサビの栽培が盛んなほど、水が豊かな土地です。その地下を掘り進むわけすから、トンネル内の崩壊や出水が度々発生したのです。そしてそのたびに作業員が犠牲になっていったのです。

 

さらに当時は掘削技術が低く、手掘りで掘り進んだ場所もあったと言います。そのためわずか20m弱の断層を突破するのに4年以上の時間が費やされた場所もありました。今、丹那盆地では酪農が盛んに行われています。それは丹那トンネルの工事でたびたび大量の出水事故が発生したために、盆地全体の地下水が枯渇してしまい大量の水を必要とするワサビの栽培や稲作ができなくなったからです。この難工事では67名もの作業員が犠牲になったのです。

 

そしてこの丹那トンネルのわずか50メートル北側に並行して造られたのが、新幹線専用の”新丹那トンネル”です。新丹那トンネルは、1964年に7959メートルを約4年で貫通させました。これほど早く完成できたのは、掘削技術の進歩とともに、丹那トンネルの大量出水で、この辺りの地下水がほとんど枯れていたことも大きな要因でした。このため新丹那トンネルの工事では、大きな崩落事故は発生しませんでした。ただし、この工事でも調べてみると21人の作業員が亡くなっているのです。

 

今、丹那トンネルの南側入り口には慰霊碑が建てられて神社も整備されています。ここで命を落とされた方の無念さは痛いほど伝わってきます。仕事が終われば、家に帰り、妻や子供たちと家族団欒の時間を過ごしたかったはずです。今、彼らの犠牲のもとに東海道新幹線は日本の大動脈として機能して私たちもその恩恵にあずかっています。皆さんも知らず知らずのうちに、このトンネルを通っているのです。

 

無念の思いを抱えて多くの人が命を落とした場所では、霊現象がしばしば起こります。ただ、そのことによって亡くなった人たちを思い出し、供養のきっかけになっていければと思います。