先日、出張鑑定で車で地方へ出かけた時、車同士の衝突事故の現場を通り過ぎました。トラックと乗用車2台がぐちゃぐちゃにつぶれて止まっていました。付近にはガラスや車の部品が散乱していて警察官があわただしく処理していました。道路には血を洗い流したような水跡も残っていました。つぶれた車は道路の片側に寄せられて、警察官があわただしく歩き回っていました。救急車は見えませんでしたので、事故発生から少し時間が経過していたのでしょう。私は事故現場となった交差点を警察官の誘導にしたがってゆっくりと通過しました。車を止めることは出来ませんでしたが、心の中では事故に遭われた方の無事を祈らずにはいられませんでした。そのとき交差点にはすでに数多くの野次馬が集まっていました。彼らの多くは深刻そうな顔をして現場を凝視していましたが、そのほとんどはスマホを取り出して、動画や静止画を撮影していました。
以前、駅のホームで、通過する急行電車に中年男性が飛び込んで人身事故が発生しました。私はホームで電車を待っていたので、その様子をすぐ近くから目撃してしまいました。ホームを通過中の先頭車両をめがけて飛び込んだ中年の男性の身体は、10メートル以上も弾き飛ばされたあと、縦回転するコマのように頭と足を線路わきの敷石に何度も叩きつけて動かなくなりました。その男性は電車に当たった瞬間も跳ね飛ばされたときも一言も発することなく死んだのです。そのときのあり得ない体の動きは今でも脳裏に焼き付いています。そしてこのときもホームの上や線路わきの道路から動かなくなった男性の遺体を撮影している人が何人もいたのです。
最近は”国民皆カメラマン”状態で、携帯でもスマホでもカメラ機能がついていますので、何か起こればこぞってその様子を撮影する人がいます。私は事故現場や災害現場を撮影する人に対して、道義的な意味でそれをやめるように言いたいわけではありません。亡くなった方を撮影することが”不遜な行為”であるというつもりもありません。ただ、そういった行為は、霊的な意味で非常にリスクを伴うことをお伝えしたいのです。
逆の目線でその状況をのぞいてみてください。自分が不幸にして無念の思いで命を落とした時、或いは生きていることの苦しみに耐えかねて自ら死を選んだ時、自分の姿を興味本位に撮影されて、それがインスタやSNSに載せられて拡散したとしたら、どのように思うでしょうか。ひとかけらでも亡くなった方の死を悼む気持ちがあれば、とてもレンズを向けることは出来ません。
そしてもし、そんな撮影者へ対して死んだ魂が怒りを感じた時、亡くなった霊と撮影者の霊的な波長が近ければ、必ず霊障が起こります。これは可能性の問題ではなく”必ず”起こるのです。いつもお伝えしていますが、霊は生きている人間と違って肉体がありません。ただ、それ以外は生きている人間と何一つ変わらないのです。感情もあります。怒りや悲しみに震えることも、感謝や喜びを感じることもあります。ですから生きている人間と同じように正しく接していかなければなりません。
私は事故現場を撮影している人を見ると、怒りや不快感を覚えるのではなく、純粋に心配になるのです。あなたのやっていることは、あなたの人生の流れを悪くするものを自ら拾い上げていることに他なりません。自分がいつも持ち歩いているものの中に、災害で苦しんでいる人のやりきれない思いや事故で死んだ方の無念が保存されていることを冷静に考えてみてください。それが人生を良くすることにならないことは誰でも想像がつくと思います。皆さん、どうか気を付けてください。