目を閉じるとよく頭に浮かんでくる景色があります。眠っていてもしばしば夢の中に現れます。公害が社会問題化していた高度成長期のように、煙突が何本も立ち並ぶ下町の空気は、赤く染まった夕日の中に薄汚れて煙っています。その下町の中央にコンクリートでできた大きな橋が架かって町を横切っています。この大きな橋の上をダンプカーがもくもくと黒い排気ガスを放ちながら通り過ぎていきます。この橋の上から周囲をぐるりと見回すと、巨大な露座の仏像が埃だらけの夕日に赤く染まっているのが見えます。滑り台のようなベルトコンベアの筒が薄汚れた生コン工場の大きな建屋につながっています。真っ赤な夕日に映し出された街並みは、暖かみも躍動感も感じさせず、ただ、一日中働いた疲労感が漂っています。この景色は巨大な構造物からは圧迫感を感じ、労働者の疲労感や淀んだ空気の息苦しさにあふれています。見ていても不快感を感じるだけで、この夢を見て起きた朝は気持ちも沈んでいます。

 

この夢は下町の工業地帯に巨大な仏像が鎮座している時点で現実ではなくまさに”夢”の世界なのですが、その意味を考えた時に、前世で私の意識に刻まれた景色でもなく、幼少期に目に焼き付いた光景でもなく、自分でも意味が良く分かりません。時代背景を見れば、昭和35年から昭和45年ぐらいの高度成長期の映像によく似ています。その時代に私はすでに生まれていますから、前世で見た景色ではありません。私が生まれ育った場所もこういった環境ではありませんでした。ただ、決して見たい景色でもないのですが、たびたび夢の中に出てくるのです。

 

この夢の中の光景は明確に脳裏に刻まれているため、実際に露座の仏像を見たり、生コン業者の滑り台のようなベルトコンベアーを見るたびによみがえってきます。そして、この夢を見た後の不快な感じもまたよみがえるのです。

 

一方でたびたび頭に浮かぶ景色の中でも、”前世で必ず見た”と感じさせるものもあります。 それは僧侶の格好をしている私が、ボロボロの着物を着てその上に蓑を羽織り、頭には笠をかぶって、畑の中のあぜ道を歩いている景色です。この景色も何度も見ていて、白い息を吐きながら小雪の舞う中を歩く姿もあれば、緋色に染まった夕日のあぜ道を時間を気にしながら歩いている情景もあります。この景色は非常にリアルで、草履が地面を踏みしてる音や感覚まではっきりと伝わってきます。雪の中を歩いている時は、足の指先が冷たさでしびれている感覚がよみがえります。

 

そして以前、群馬県の山間部へ出張鑑定で出かけた時に、はっきりとこの景色に出くわしたことがあるのです。出張鑑定が終わり、その帰り道に、国道を外れ、山越えの抜け道を走ると、畑の中の一本道は時折、舗装もされていないデコボコ道に変わりました。私は両脇の畑に転落しないように慎重に注意を払いながら車を前進させていました。そのとき、ふと目線を付近の山々へ向けると、緋色の夕日に染まった山の形が、何度も頭に浮かんでいた山の稜線と完全に一致したのです。私は思わず、この景色に心を奪われ、言いようのない懐かしさがこみ上げてきました。私は車を止めて、景色の中に自分を埋没させて、何百年か前にここにいた自分のことを思いました。

 

こんなリアルな夢が時々頭に思い浮かんでくるのです。