よく”人を上辺で判断してはいけない”といいます。見た目ではなくその人の内面で判断するべきだということです。このことに異論のある人はいないでしょう。私は霊的な間口が大変広いため、自分の波長と離れた不浄霊や念(生霊)とも同調できます。ただ、霊的な間口を通って入ってくるものは霊や念だけではありません。人が心の中で思っている”本音”もこの間口を通して入ってきます。したがって私は間口の狭い人よりもはるかに多くの本音を嫌でも感じ取ってしまいます。

 

このことは子供のころの私をとても苦しめました。親や先生や大人たちの言っていることが、その人が心で思っていることと大きく異なると感じることがたくさんあったのです。言葉でどれだけ私をほめても、心の中で私に嫌悪感を持っていれば、その方を強く感じてしまうのです。これは大人に対する大きな不信感を抱かせました。この状況は今も変わりません。レストランで上品に食事をしている紳士淑女が、心の中で実はとても強欲でずる賢いことを考えていれば、その方が如実に私に伝わってくるのです。

 

ですから霊的な間口が広くなった人から良く言われるのは、「間口が広がるにつれて友達が減った」とか「恋人と別れることになった」ということです。人間社会で、大人は本音と建前を使い分けます。それは”二枚舌”とか”腹黒い”と悪い意味で捉えられがちです。でも、人間社会が表面上であれ上手く回っているのは、本音と建前を上手く使い分けているからです。もし皆が本音をぶつけ合うようになれば、あちこちでトラブルが持ち上がり、人間関係は崩壊します。ですから私は円滑にコミュニティの中で生活していく上で、本音と建前の使い分けはあってよいものだと思っています。

 

ただ、それが友人関係や恋愛関係になると、相手の知らないでよいこともまで伝わってきてしまいます。知らないでいれば表面化しなかった問題も知ってしまえば、そのことが自分の言動に表れてしまいます。その結果、人間関係が壊れてしまうことがあるのです。

 

また、私のように霊的のものに敏感な人間は、霊の世界との関わりがおのずと深くなります。人間はこの世を生きるために肉体を借ります。肉体はいずれ消滅しますが、魂は輪廻転生してまた新たな肉体に宿り、来世に生まれ変わります。そうやって魂は何千年もの間、消滅することなく生き続けてきたのです。神様は何千年もの間、生き続けることのできる強靭な肉体を作るよりも、輪廻転生することによって魂が何千年間生き続けることの方がはるかに合理的であるからそうされたのでしょう。

 

つまり私のように”肉体は借り物である”という認識が当たり前に出来上がってしまうと、人を見るときにおのずとその人の本質にフォーカスを合わせます。私の目線はいつも、その人の容姿を通り越してその人の本質が美しいのか醜悪であるのか、そこを感じ取ってしまいます。肉体や容姿は健康で美しいに越したことはありません。ただそれはたまたま今世を生きているために寄生している器だと思うとそこは全く重要ではなくなります。そしてそれ以外にも人の外見ではなく本質を見る癖ができるとメリットがあるのです。(2)へ続く