先日、家族を自殺によって亡くされた方から、「どうして死んだのか、その状況を教えてほしい」と頼まれました。この方は都心にあるビルの屋上から飛び降りて命を絶っていました。この方の部屋には、本人が書いた遺書も残っていました。警察は当然のごとく”自殺”と断定しました。
自殺という行為は、与えてもらった命を自ら断ってしまう大変不届きなものです。それは死んだ後も何百回も自殺を繰り返すというてつもない苦しみを味わいます。自殺によって現実の苦しみから逃避できると思ったら大間違いで、むしろ生きていた時以上の苦痛を味わうのです。そして自殺は自分の家族や友人など、親しい人たちを傷つけます。自殺によって家族や友人を失った場合、「どうして助けてあげることができなかったのか」親しい人たちはその苦しみと何年間も戦わなければならないのです。
ただ、自殺と判断されたケースの中で、本当に覚悟を決めて死んでいったのは、私の印象では半分くらいだと感じています。人間が死のうと思うことと、本当に覚悟を決めて死ぬこととは大きな隔たりがあります。この方も遺書を書いて、死に場所を探して街に出て、ビルの屋上に上がり、死ぬことを考えました。ただ、そこから下を覗いた時に恐怖を感じ、一瞬我に返りました。「ここから飛び降りたら本当に何もかも終わりなのだ」と。「それでも死んだ方が楽になるのか」一瞬迷ったところで、この方は覚悟を決めて飛び降りたのではなく、背中を思いっきり”ドン”と突き飛ばされていました。
生きていることが苦しくて苦しくて、何もかもがむなしくなって、天井の梁にロープをかけて、椅子の上に立って首にロープを巻き付けました。このまま椅子からジャンプすれば、すべてが終わります。でも、それは苦しみから本当に解放されるのかどうか、多くの人はここで一瞬ためらいます。その瞬間に椅子が倒れて首からぶら下がりました。これも警察が調べれば結論は間違いなく”自殺”になります。
ただ、私から見てこれら2つのケースは自殺ではありません。なぜなら本人が覚悟を決めて死ぬつもりで飛び降りたり、首を吊っているわけではないからです。本人が死ぬことを躊躇した瞬間に何かに背中を押されて死んでいるのです。この背中を押したものは、”不浄霊”です。多くの場合、同じように死んでしまい、死後、強く後悔して現世にとどまっている不浄霊が、本人と波長が合ったことであの世へ道ずれにしたのです。
手首を切って自殺した方の多くは、”ためらい傷”という浅い傷が何本もついています。自殺をしようと思っても、その瞬間に多くの人はためらい逡巡します。ただ、気持ちが弱くなっている時、そこに自分と波長の合う不浄霊がいれば、魅入られるように死の世界へ引っ張り込まれることになるのです。ですから気持ちが弱っている時、自殺者がたくさんいるような場所やいわゆる心霊スポットに近づいてはいけません。電車に乗るときもホームの端を歩くことは非常に危険なことなのです。(2)へ続く