昨日「終末期患者の緩和ケア」に携わっている医師の記事がありました。その中で私が目を引いたのは、形はそれぞれのケースで異なっても、死に際して「お迎えが来た」と話す患者が何人もいるというものです。
その医師によると「(すでに亡くなっている)お母さんが私に会いに来てくれました。でもずっと私に背中を向けてこちらを見てくれないのよ。私はこっちを向いてって、言っているのにお母さんには声が聞こえていないみたい。私はお母さんに嫌われているのかしら」そういって悲しそうにうつむいたお婆ちゃんがいたそうです。その翌日も病室を訪ねると「今日もお母さんは来てくれたけど、こっちを向いてくれないの。私はお母さんに何か悪いことをしたのかしら」そういってこのお婆ちゃんは下を向いたと言います。そしてさらに翌日、この医師が病室を訪ねるとお婆ちゃんは明るい表情で「今日もお母さんは来てくれました。お母さんは私の方を向いて、私の近くまで来てしっかりと私の手を握って微笑んでくれました」そう話したそうです。そしてお婆ちゃんはこの日の午後に容態が急変して、深夜に亡くなったそうです。
また、ガンで終末期を迎えていた女性がいて、そのお母さんも別の病気で終末期を迎え、同じ病院の別の病棟に入院していました。二人はともに寝たきりで会うことも話をすることもできません。この患者さんは温泉が大好きで、いつも温泉へ行きたいと言っていたそうです。ただ、残念ながら病状は悪化して温泉へ行くことなく亡くなってしまいました。お母さんも温泉が大好きで同じように温泉へ行きたがっていたそうです。ただ、お母さんも娘さんの後を追うように、娘さんの死後、1週間で亡くなりました。ご家族は仲の良い親子でしたから、二人で一緒に温泉へ行こうとしたのではないかと話していたそうです。仲の良い夫婦や家族が、誰かが亡くなったときに、後を追うように亡くなることもよくあります。
私は以前、このブログで人間が事故や自殺などではなく病気で普通に亡くなる場合、死ぬ準備期間があると書きました。逆に言えば、事故で亡くなった方はこの準備期間が無く突然、命を断たれてしまうため、魂はスムーズに成仏することができずに、普通よりも長い時間、現世にとどまってしまいます。
たとえば同じ腹痛であっても、それが回復する病気の腹痛と、死へ向かう過程での腹痛では痛みの性質が異なります。言葉にすればどちらも「痛い」とか「激痛」ということになりますが、死に向かう際の激痛は今まで経験したことのないものです。そういった痛みや倦怠感、疲労感などを感じた時に、多くの人は自分の寿命が近いことを感じ始めるようです。
私に自分の病気や寿命について質問される方は多くいます。その人と対面するとか、写メの画像を見れば一目瞭然ですが、もしガンになったとしてもまだ寿命が先まである方には生命の力(=勢い)を感じます。寿命の道のりに入ってしまった方は、生命の力が弱まり、枯れています。医師が「余命半年」と言っても2年生きる方もいます。逆に半年で亡くなる方もいます。命の問題は肉体だけでなくメンタルも関わってきます。気持ちの強い方は概ね生命の力も強いものですが、そういう人は気持ちで肉体を持たせています。
私もいずれは命が尽きることになりますが、その時に誰がどのような形で私の迎えに来てくれるのか、楽しみにしながらその時まで自分のできることを誠実に実行しながら生きていきたいと思っています。