なぜこの神社はこんな悪の巣窟のようになってしまったのか。これもおそらくは千年以上前に遡ります。もう、最近の何百年もこの神社は神社のしきたりにのっとって、さまざまな祭祀をつかさどり、祈願や行事を行ってきました。今、この神社のやっていることもこの神社の神職たちも何ら悪いことはしていません。ただ、私が境内に入ると本殿や境内の末社、楼門や手水舎の陰から恨めしそうにこちらを睨みつけている目を何十人も感じてしまうのです。
ある者は体の形が崩れて顔のような形の中に鋭い眼光だけが光っています。人のような形をしている霊体もいますが、私がよく見かける霊体とは明らかに違います。私はよく町を歩いている時などに、フラフラと私の方に向かって歩いてくる人と遭遇することがあります。ただ、その人とぶつかると思った瞬間に、その人が私をすり抜けていきます。それは霊体なのですが、本当に生きている人と何ら変わらないように見えることがほとんどなのです。ただ、この神社で人間のように見える霊体は、どれも色が薄くて、その霊の後ろの景色が透けて見えているのです。概して言えば、新しい霊は人間と同じように見えますが、時代が古くなればなるほど、形が崩れていくとともに存在自体が軽くなって体が透けてくるのです。他にも生霊やもやのように霞がかった煙のようなものも境内のあちこちに漂っています。これらはすべて千年以上も前の古いものです。
これら霊的なものたちが、恨めしく私に訴えかけてくる理由は明確です。これらはすべて、強力な呪詛によって命を奪われたものたちです。その悔しさや無念の思いがこの神社には今でもまだとどまっているのです。そして呪詛を実行したものたちの悪念も同じようにこの境内のあちこちに残っています。
この神社は本当に古い時代、おそらくは奈良時代とか平安時代のことだと思いますが、何十人という神職や修験者を使って、毎晩のように呪詛のための護摩炊きを行っていました。当時は位のある朝廷の役人が、自分の政敵を倒すための呪詛や祈祷を行うことは決して珍しいことではありませんでした。中には50人とか100人以上を動員して、1週間とか2週間とか昼夜を問わずに大々的に行った呪詛や祈祷もありました。この神社はまさにその舞台となっていたのです。
「人を呪わば穴二つ」という言葉があります。人を呪うという行為は、相手を穴に落とすことはできますが、自分自身も同じ穴に落ちることになるのです。そして落とされたものの無念の思いと落としたものの悪念は千年経ってもなお消えることなく、境内のあちこちに沁み込んでいるのです。そして自分と波長が合う場所や人を見つければ、やり場のない彼らの思いへそこへ向けて流れていくのです。
こういったケースは本当に珍しいことで、ここまでひどいものは全国の神社仏閣で3カ所しか知りません。そして100人がかりで何年もかけて作った悪念は、如何に私が頑張ってもこの思いを昇華させることはできません。したがって私はここに棲む不浄霊や悪念を上げることも鎮めることもせずに、この女性に向かって流れる道筋に、強力な壁を作って流れの方向だけを変化させました。私としては、この問題を根本的に解決することは不可能ですから何とか彼女を守ることだけを考えました。私としてもそれが精一杯の対応だったのです。