私は人間の魂は肉体に宿っていて、死んだ後はしばらくは現世にとどまって自分の人生を総括した後、やがてあの世へ上がり、生きていた時の記憶を消されて来世へ生まれ変わるものだと感じています。いわゆる”輪廻転生”です。そして来世でも肉体に宿り、人生を生きたあと、死んで肉体が無くなれば、また魂はその人生を総括した後、あの世へ上がり、また生きていた時の記憶を消されて次の来世へ生まれてきます。このように考えることで私が見たり感じたりしている世界のさまざまな出来事について整合性がとれてスッキリできるのです。
初期の仏教や”上座部仏教”と言われる古い仏教観の理想は、この輪廻転生のループから離れ、もう2度と生まれ変わりをしない状態を”解脱”と呼んで求めました。生命として完全に消滅した状態を理想としたのです。それは根本的に”生きることは苦しみである”という考え方があるからです。
ですから解脱を果たしたお釈迦様は世界からは完全消滅していてどこにも存在していません。したがってお釈迦様の存在ではなく、その教えが尊ばれたのです。
一方で”大乗仏教”と呼ばれる比較的新しい仏教観の中では、お釈迦様は解脱によって完全消滅したのではなく、肉体から離れたあとは、”法身仏”という宇宙そのものの存在になっています。
いずれにしても私たちはお釈迦様のように解脱できるような人間ではありませんから、輪廻転生のループの中に存在していると考えています。
もし人が、何百年、何千年という時間をかけて、修行して成長していかなければならないのなら、この輪廻転生という方法は実に効率が良いのです。これだけの時間をかけて修行するためには、まずはこれだけの期間、生命体として生き続けていける肉体を作らなければなりません。私が世界を創造した神様なら、千年間、生きながらえる肉体を作るよりも、百年間生きていける肉体を借りて魂を宿し、肉体が無くなったときには”転生する”方法を選ぶと思います。
世界中で過去世の記憶を残したまま生まれてきた子供たちの話が数多く報告され、それは子供たちが生まれる前の史実と完全に一致しています。そういったことを考えてみても私は魂は輪廻転生をしていると考えています。
また、上座部仏教の仏教観のように、私は「生きることは苦しみである」とも考えていません。ですから輪廻転生すること自体が、人間にとって苦しみであるとも不幸であるとも思いません。むしろ輪廻転生によって、肉体が滅んでも、来世でまた家族や大切な人と出会えることは大きな喜びであると考えています。(2)へ続く