臨死体験とは、死を目の前にした生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際のことです。人間は言うまでもなく”生命体”です。生きている生物には、命をつなぐために免疫力をはじめとしたさまざまな機能が備わっています。そして、生物である以上、死の瀬戸際に直面すれば、自分が持っている能力をフル活用して命をつなごうとします。これは自分の意志に関わりなく生存本能のなせるわざです。

 

人間が元々霊的な能力を持っているとすれば、このときに閉じていた蓋が外れて霊的な力が発揮されることがあるのです。ですから臨死体験から生還した人の中には、臨死体験によって今まで見えなかったものが見えるようになったり、感じられなかったものが感じられるようになります。

 

そう考えると、修験者や僧侶が行う”苦行”もその意味が違ってきます。もし、霊的に開いていない人が霊的な能力=霊感や直感を獲得しようとするなら、苦行によって能力が開花する可能性があるのです。

 

たとえば断食や不眠不休でお経を唱えるといった修行、或いは真冬に滝に打たれたりすることは、一歩間違えば命を落とします。そこまで自分を追い込むことは、言ってみれば臨死体験に近い状態を自ら作り出していることになります。したがって生命の危険を感じさせるような苦行は、それによって霊的な能力が開いたとしても不思議ではありません。

 

別の言い方をすると、霊的な力を獲得しようとする訓練(修行)は、そこまで自分を追い込まなければ意味がないのです。

 

私も若い時に、自分の方向性を探してさまざまな修行を試みました。特に師匠や知識を持たなかった頃ですから、自分で試行錯誤を繰り返すしかありませんでした。中には苦行もいろいろ行いましたが、生まれた時から開いている私にとっては、苦行はただ苦しいだけで、何ら自分を変えるものではありませんでした。