私は前に「霊は、多くの人にはその体は見えませんが、生きている人間とまったく同じで、感情もあれば意志もある」と書きました。実際に私が町を歩いている時に、目の前からよろよろと歩いてきた老人が私の体にぶつかりました。

~危ない、酔っぱらっているのか~

そう思った瞬間に、その老人の体は私をすり抜けました。

すでに亡くなっている方、つまり霊だったのです。

 

見えるときは生きている人とまったく同じように見える霊ですが、それはどの霊もそこまでハッキリ見えるわけではありません。霊も古いものになるとだんだんその形が崩れていきます。

 

たとえば京都を中心に戦った”応仁の乱”は今から約550年前の戦です。輪廻転生のサイクルは30年~80年と言われています。その中で550年間あの世へ上がることができず、不浄霊として現世にとどまっていると、霊体としての形はかなり崩れてきます。

 

私が通った高校は神奈川県鎌倉市内にある男子校で禅寺が経営していました。鎌倉は1333年の新田義貞による鎌倉攻めの戦いで、10万の幕府軍が討ち死にしたと言われています。私が登下校の際に何度も目撃した落ち武者の霊は、鎧甲冑の姿は見えても、中にいるはずの人の姿が、ほとんどの場合見えませんでした。700年近くも前の霊ですから、もう人の形が崩れて無くなっているのです。

 

したがって、よく言う”平家の落ち武者”はそれよりもさらに古い霊ですから、私は霊体としての形で見たことはありません。霊体が崩れた”霊的なもの”として感じられるのみです。生きている人間の体は、”霊的なもの”にも反応します。そういった意味では人に影響を与えることはできますが、霊体としての形が崩れていますので、もう輪廻転生することはできません。

 

人は死んで肉体が無くなったあと、魂はあの世へ上がり、輪廻転生して来世へ生まれ変わります。それが魂の定めでり、死が終焉ではなく始まりと言われる所以です。ただし、人から強い憎しみや恨みの念を受けたり、自分自身が強い憎しみや恨みの念を持つとそれが重荷となってなかなかあの世へ上がることができません。それはひどくすると輪廻転生のサイクルからも外れることさえあるのです。

 

人を憎んだり恨んだりすることなく、人から憎まれたり恨まれたりすることもなく生きていきたいものです。