12月8日といえば、どうしても毎年「開戦の日」として意識してしまいます。

戦争を知らない私ですが、昭和一桁世代の家族から常に戦争の話を聞いていました。


昭和16年、1941年12月8日、日本海軍がアメリカ、ハワイ沖の真珠湾(パールハーバー)を攻撃したことで、日米が開戦します。


当時の日本は中国の領有を巡って列強諸国と対立を深め、険悪化する中で、1941年4月発足の近衛文麿内閣では日米関係の改善を目指してアメリカと交渉を開始するが、

7月に仏印インドシナに侵出したことで、アメリカは日本への資源輸出を全面禁止する。


しかし当時を知る私の伯父(当時12歳)から、こんな話を聞いたことがあります。

ABCD包囲網により次第に物資が乏しくなるのを子供ながらに感じる生活の中で、仏印インドシナを領有したことでゴムを手に入れることができ、日本全国の学校にボールが支給され、子供ながらに領有権を増す恩恵を嬉しく感じたそうです。


昭和天皇は、「近衛は話ができる」とおっしゃり、近衛文麿は昭和さまの御意をよく汲み取ったようですが、10月には近衛内閣に代わって東条英機内閣が発足し、日米交渉は最終局面へと進みました。


日本側特命全権大使であった来栖三郎は、妻がドイツ人であったことから、アメリカでは事前に「来栖は信用するな」という意識を持たれ、アメリカは最初から交渉のテーブルに真剣には就いていなかった。

アメリカ、ルーズベルト大統領は日本の交渉最終案を拒絶し、日本には国務長官ハルより提示された最後通牒(通称:ハルノート)を受け取った日本は、12月1日、昭和天皇ご臨席の御前会議において、12月8日の開戦を決定する。


御前会議においては、訓練の為世界を巡り、列強諸国の軍事力を熟知する山本五十六は、日本軍との威力の差を認識して開戦に反対するが、開戦を阻止することはできなかった。



戦争責任・・・ ということが昭和の終わりを迎えた後、大変論議されたが、この時代を生きた人で、真に戦争に反対した人はほんの僅かでしょう。

天然資源を持たない日本が、近代化した生活を資源なしに過ごすことは皆無に等しい厳しさがあり、列強諸国からの圧力の中で、戦争以外にその状況を打開できることはないと、心底思ったでしょう。

国を率いた一部の人々のみならず、国民みんなが仏印インドシナを領有して歓喜したでしょうし、戦争によって明るい未来を想像して、意思を強く持ったことでしょう。

誰に責任があったのではなく、 そういう時運だったと思えます。



日本海軍は極秘裏に作戦を進め、日本時間の12月8日にアメリカ真珠湾を奇襲攻撃します。



しかしこのときの開戦に関する外交処理に不手際があり、これが今日でも大きな問題になっています。




真珠湾攻撃が宣戦布告を伴わない奇襲攻撃という認識が、事実です。



1907年、ハーグ平和会議で締結された「開戦に関する条約」に、日本は1911年批准しています。

その中では・・・


第一条、締約国は、理由を附したる開戦宣言の形式または条件附き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭且つ事前の通告なくして、其の相互間に、戦争を開始すへからさることを承認す。

とされています。
日本は真珠湾を攻撃する前にアメリカ合衆国に対して、「宣戦布告」をしなければいけなかったのです。

それなくして攻撃を開始したものだから、アメリカ国民の感情を過剰に煽ってしまったのです。


日本の同盟国であったドイツは、イギリスからの宣戦布告を受けて、時間きっちりに戦闘を開始した事実があり、ロンドン攻撃を受けたウィンストン・チャーチルの妻、クレメンタイン夫人は、ドイツ人の時間の正確さを称えたと聞いています。

日本が宣戦布告を行わなかったことは、外交上の大きな落ち度でした。



かくして日本は第二次世界大戦に突入し、歴史上経験しなかったような大きな世界戦争の中に飛び込んでいくのですが、

今年はそれから65年の歳月が過ぎています。

ハワイ真珠湾には、今年も日米双方の兵士が集って手を取り合ったそうですが、年々その数は減り、いよいよ真珠湾訪問は、今年が最後の予定だそうです。

日米双方の元兵士の平均年齢も85歳。既に第二次大戦は遠い歴史の彼方のこととして、やがては伝承されるのみとなろうとしています。