(「僕は実はフルーツも、もしもくれれば喜んで食べますよ」とビーグル犬まろさんオス10歳)

 

 子供の頃、夏になるとスイカ割りというのをしたかったものでした。スイカ割りをしたいと思うきっかけは当時の漫画には当たり前のように夏の風物詩としてスイカ割りが描かれていたので、スイカというものはそうやって食べるのが当たり前だという感覚でいたからでした。

 しかし、親はスイカを買ってくれることはあっても、なかなかスイカ割りをやらせようとしません。

 スイカ割りをしたのは子供の頃のごく限られた時期のものだけで、おぼろな記憶にあるのは、子ども会で夏休みに集まった時のもの、もしかして捏造された記憶だったかもしれないけれど海岸の砂浜でなにかの催しで集まった時のもの、まだ建て直す前の古い家にテラスがあってそこにスイカを置いて割った時のもの、あとはうちの子供が保育園の頃に夏のお祭りで、それくらいしかありません。

 そもそもスイカ割りをするにはスイカを叩いて割ることができるような棒が必要なのですが、そういうものが身近にはなかなかないのでした。家でやったときは、どんな棒を使ったかも忘れましたが、非力な小学生の男の子にとっては硬い皮のスイカを棒で割るのも難しく、少しだけ傷がついた、少しだけ割れたかくらいのものでした。子ども会でスイカ割りをしたときなどは、誰かが「これをスイカ割りの棒に使いましょう」と持ってきた木刀を使ったのですが、スイカに当たった瞬間にボキッと折れた、というか木の目に沿って割れてしまったのでした。そのときは誰かがまた別の棒を持ってきて結局スイカは割れたのでしたが、木刀というものが意外に弱いもの、折れてしまいやすいもの(もちろん、ものによってはでしょうが)というのは今に至るまでの強烈な記憶になっています。

 それで、何とかして割ったスイカですがそこまで苦労して割れたものを食べるのだから美味しいかというと、実はそうでもなかったのでした。割れたところはぐちゃっとしていてあまりおいしく食べるものでもないし、スイカはスイカ割りの前に切って冷やしておくわけではないから、丸のまま水にひたしておくだけで、夏場の水だからそんなに冷たい訳でもなくぬるいスイカを割って食べる、と。もちろん、「割れた、良かった」のあとは普通に包丁で切って取り分けるのですが、だったら最初から切って冷蔵庫でキンキンに冷やした方が美味しいと思ったのでした。

 

 子供の頃はそれでも「スイカを割る」というのが「食べる」以上にエンターテインメントのように感じたので親にはねだったこともあるのですが、大人になってからはやはりスイカ割りはよっぽのことでもなければやるもんじゃないな、というのに納得していきました。私の子ども達は二人とも女の子だからか、親に満足していたものだからか「スイカをぶっ叩いてかち割りたい」というストレス解消の強い衝動を持つことはなく、「スイカ割りしたい」とねだられることもなかったので、スイカ割りは自分の中では子どもの頃の思い出だけになっているのです。

 

 スイカも大きくて良さげな奴は結構高いし、そんな風にして汁を飛び散らかせてしまうのももったいないような気もするし、そもそもスーパーマーケットなんかでは既に切ったスイカを売るのが主流だしで、「スイカ割り」という文化は今はどうなっているんだろうとちょっと調べてみたら、スイカの産地等でスイカ割りのルールを作ったりして存続しているようですね。ただ、「スイカ割りした」という記事をネットにあげるのは保育園幼稚園のような子どものいるところ、若しくは老人ホームのようなところが多いようです。...ということはもしかして、自分も心身が弱くなり老人ホームで暮らすようになったらその施設の行事の一つとしてまた子供の頃の思い出のスイカ割りと出会うのかもしれませんね。