(「免許取ったら、僕もどこかに連れて行ってくれるのかな」と勝手に期待するビーグル犬まろさんオス10歳)

 

 一昨年の夏には、長女が18歳成人、今年の夏には長女が20歳で飲酒喫煙が許される年齢に、次女が18歳成人になります。

 そういうのは年が経てば自然になるわけで、「なかなか子供が生まれなかったけど、子どもが生まれてからもうそんなになるのか...」という感慨があります。親も(自分達のこと)年をとるわけだ。

 自然に年が経てばどうなる、というものではないものに自動車の運転免許があります。これは自分で能動的に行動をおこさないといけないものの一つです。この夏、長女は「自動車の運転免許をとる」と言ってきました。自動車の運転免許は「持っているべき」、とは言わないけれどももしかしたら仕事で必要になることもあるかもしれないし、まあ「もってて普通」とも言えるものではないかなとは思います。

 であっても、なんだか心配な気がすることも確かです。いや、運転免許を持つということは自動車を運転するということと同一ではないものの、運転したときの色々な危険とか面倒とかそういったものが、大丈夫かなあ...と心配になってくるのです。

 事故に遭うことは無いか、或いは事故を起こしてしまうことはないか、煽り運転に絡まれることはないか、事故に遭って怪我したり死んでしまうことは無いか、運転が下手で自動車をどこか壁にこすったり、他の自動車と接触したりすることはないか、変な男たちに絡まれることはないか等々、色々な心配が湧き出てきます。

 とはいえ、まあ本人はやる気を出してやってみようというのだから、そんなあやふやな心配で気持ちをくじくのもいけないし、ここは心配を心の中に押し込んで、とりあえず応援しよう、と思うのです。

 翻って自分がとった時は、オーバードクター時代に相模原の宇宙科学研究所に通うようになってから、片道二十何㎞かの道を往復するのはちょうど良い練習と鍛錬にもなるしというので29歳にして初めて免許をとったものでした。私の場合はMTの免許を取った最初の頃からかなり周囲の状況がちゃんと見えていたので車線変更などするときも他車とトラブルになるようなこともなかったのですが、とかくに周囲が見えない人は車線変更時に急な割込みになってしまって煽り運転など誘発してしまう危険性が高くなると思うのです。長女は免許取ったらちゃんと周囲が見える人になるか心配ではありますがとりあえず信じるしかない。

 いわゆる「アクセルとブレーキの踏み間違い」も、心配なことではあります。私は免許取って以来ずっとAT車に乗ってきているのですが、免許を取ってから数か月で左足ブレーキにしようと決めました。特に駐車時のバックで右足だけでアクセルとブレーキを踏み替えると混乱しやすく、いつか踏み間違いが起きると強く危機感を感じたからでした。教習所は、シートを抱いて後ろを向いて右足で踏み替えろというのだけれど、切り返しをしているうちに混乱してきたのです。とはいえ教習所では左足ブレーキを教えないから、左足ブレーキへの移行は自分で一般道でやるしかなかったのですが、ブレーキは左、アクセルは右と身体で覚えれば踏み替え間違いがないのだからその方が絶対に安全です。それで、長女にも「やってみない?」と誘ってみることは、さてどう受け止められるのか心配でもあるし、真面目な長女からすると間違ったことを教えようとする悪い親、のように見えかねなくて反発を買いかねないし、とはいえAT車で右足で全て行うのも自分の経験からして踏み間違えそうでもあるし、なかなか悩むところです。

 運転免許を取ったら自分の自動車をもって自分で運転し続けたいというのも、賛成だけど心配でもあります。女性が好むような妙に「カワイイ」形と大きさと色の自動車だと何かと舐められるのではないか、絡まれる危険性が増すのではないか、であればもう少し大きめの、舐められなさそうなものが良いのではないかとか考えてしまいます。いや、思い切ってオープンカーとかどうよ、とか言っても長女の性格からすると「違う」と言うだろうし、家に今ある自動車はもし何かあった時の心配で絶対に拒否するだろうし、そもそも任意保険料がバカ高くなるだろうし、しかし自動車選びで私と趣味が合えば良いけどなあと思ったり、心が乱れます。

 さらにはそもそも駐車場をどうするのか、家は既に今ある自動車でいっぱいだし、であればどこか近くに駐車場を借りるなどしないといけない、だけど確保できるのか、というのも心配の種です。確保できなければ家の駐車場を広くするとかの方法はありますが私がそのうち年で乗らなくなるのに2台分の駐車場もなんだかなと思えてきます。ちょうど、庭が雑草だらけでこの際どうにかしないといけないなという時期なので、考えどころだったりします。ここも悩むところです。

 

 自動車一つでリスクだのその後の生活の広がりだのその後の維持だの色々なものが頭の中に出てきて、でもそういう負うべきリスクも負担も「自分ではなく、子どもの人生の一部になっていく」とどこかで考えないといけないなと思うのです。