(「僕が『時』を感じるのは、季節による草花の移り変わりです」とビーグル犬まろさんオス9歳)

 

 今日6月10日は「時の記念日」で、これは1920年、今から104年前に制定されたそうです。当時は欧米の先進国から日本人の時間に対するルーズさを指摘されて、規律正しい生活を目指させる意味があったと言われているのですが、私の子供時代、今からもはや50年以上昔ですが、その頃には既に「日本人は時間に正確。日本の鉄道は時間通りに正確に動く」とか言われていた記憶がありますから、なにやら「時の記念日」制定から半世紀も経たないうちに事態は欧米と大逆転したのだろうということになります。記念日制定の効果あった、というところです。

 

 今年はなんでそんな時の記念日なんてことを意識したかと言うと、前にこのブログでもちょろっと書きましたが、結婚記念で妻からの結納返しのオメガの腕時計を電池交換とオーバーホールにだしているのです。それが大体、5月の末ころのこと。時計が戻ってくるのはだいたい7月末のことと言われています。その間、2か月間は腕時計なしの生活というわけで、なんとなく具合が悪いのです。いや具合が悪いというより、なんとなく居心地が悪いというか...

 

 今の人たちは腕時計なんていらない、スマホをいじっていれば時間なんて分かるのだから、っていう人も多いのだとは思います。でも、私は高校の頃だったか中学の頃だったか忘れたけれども、初めて自分の腕時計をはめて以来、少なくとも外出しているときは常に腕時計をはめているという生活だったので、外出時に腕時計がないともの凄く違和感があるのです。確かにスマホがあるから時間を知ろうとするのに不便はないのだけれど、それでもスマホで時間を知るには少なくともスマホを手に持っている必要があるし、左腕の腕時計にちらっと目をやる、という以上にスマホを見るにはなんらかの別のアクションが必要なので面倒な気がするし、さらにそれ以上に左の手首を何も拘束するものがない、スカスカの状態と言うのがなにやら凄く不安な気がしてしまうのです。そう、不安なのです。漠然とした不安。

 

 以前に腕時計をオーバーホールに出したときは、戻ってくるまでの間、1000円台程度の安い電池式の腕時計を買ってはめていたのですが、スマホで時間を見るのにも慣れてしまって、外出機会も減った今となってはオーバーホールに出した時計に加えてわざわざその類の安い時計を今さら購入するというのもなんだかもったいない気もしてしまうのです。

 そうはいうものの、やはり左腕がスカスカな感じが外出時には不安で、通信販売のサイトなど見てはソーラー電波時計は便利そうだとか、やはり防水は必須だなとか、バンドは皮革だとかぶれそうだしプラスチックだと不安だし結局メタルだなとか、液晶は見にくそうだとか、やはりアナログの針がいいなとか、いや1万円程度出すとするとずっと使うにはいいけど、「本妻」のオメガが戻ったら使わなくなるのは目に見えているのだから勿体ないとか、つい色々と考えながら物色して、購入者の評価など見ては「ふむふむ、そういう欠点があるのか」とか知ってはがっかり、というのを繰り返しています。

 しかし時計を預けてから既にほぼ2週間。なんだかんだ迷っているうちに預けた時計が戻ってくるんだろうなとも思います。

 

 ただ、常に腕時計がない、気軽に左の手首に目をやって時間が分かる状態ではないという場合、確かに「糸の切れた凧」のような時間感覚になるような気がします。「何時までに何をしないといけないから、今はこれをすぐ切り上げよう」、みたいな発想は弱まって、なにかと時間を気にせずにぐだぐだになってしまうというか...いや、気にしないというのは本当は正確ではなくて、(本当は)意味なくとても時間を気にしていながらもいちいち時間を確認するのもだんだんしにくくなるというのか...ショッピングモールを買い物で歩いている場合に、腕時計があればすぐに時間が分かるのに、スマホだとわざわざカバンから取り出さないといけないので、それが億劫なので...それが良いことなのか悪いことなのか、今の気持ち的にはずっと時間に縛られて生きてきていながら、そういう状態、時間が直ぐに分からない状態に陥っているのはだから却って「窮屈」な気もするのです。実際のところ何時何分までに帰らないといけないとかいう状況がないにもかかわらず、時間を気にしない自由があるのにもかかわらず窮屈と言うのも変なのですが、よりどころがないというのか。

 「何をするには、先にこれをいつまでにしないといけない、そのためにはこれをいつまでにしないといけない...そのためにこれをいつまでにしないといけない」という、遥か昔の受験時代以来の、目標からさかのぼって自分が為すべきことを組み立てるという発想の癖がしつこく背骨にあって抜けていないからこその居心地の悪さなのかもしれません、それが良いことなのか悪いことなのかは別にして。