(「平和な顔してるでしょ?」とビーグル犬まろさんオス9歳)

 

 名古屋市では5月14日を「なごや平和の日」に制定する、と3月21日に市議会で制定されました。これは、名古屋市内の東邦高校の生徒が10年前から活動してきてようやく制定されたものです。東邦高校と言うと、私の記憶では甲子園の名門高校で伝統的にプロ野球選手も多く輩出して、有名な読売巨人軍の江川卓投手の相棒という印象が強い山倉和博捕手がここの出身、さらに俳優では奥田瑛二さん、伊武雅刀さん、天知茂さん、先日結婚された山田裕貴さんも出身だそうです。

 なぜ5月14日なのかというと1945年5月14日が米軍のB29が最も名古屋に多く飛来して爆弾を落としていった日だったからだそうです。

 

 ところが河村市長は22日におこなわれた会見で「なごや平和の日」について触れる中で

 

「軍人として命を失っていくというのは、祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為であるということは間違いないのね、実は。右翼ではないですよ。世界の常識ですよ、そんなこと」

 

 ということを言ったわけですが、これが市民から反発を受け、「侵略戦争を美化し、国家のために死ぬことを推奨するもの」として「問題発言を撤回し名古屋市民全体に対して強く要求します」として署名を集められる状態になってしまいました。

オンライン署名 · 河村たかし名古屋市長の発言撤回と謝罪を求めます - Nagoya, 日本 · Change.org

 

 私は河村市長の発言から「侵略戦争を美化し」とまで思うのはどうかなと思うのですが、少なくともこの種の発言をするときの政治家達のスタンスと言うのがどうにも不快に思えます。

 

 自分たちはどうせ戦わないし、若者たちが命懸けで戦えばいい

 

 こういうスタンス。

 つまり、「戦うことについては他人事」なのです。第二次世界大戦では「戦犯」として死刑になった人たちも沢山いてその中には政治家も含まれていたのですけれども、「自分は危険ではない。自分は責任を取らされない」という信念があるようで。でも、たとえばロシアがウクライナの侵略に完全に成功してウクライナがロシアに負けたらゼレンスキーは生きているのかなあ、ロシアによって死刑にされるんじゃないかなあと思うのです。本来は政治家も戦争になれば責任を取らされるのでは。

 

 しかもさらにおかしいと思うのが、河村発言では「国を守る=国のために命をささげる=死ぬ」というふうなことがなんの疑問も持っていないように感じられることなのです。

 

 国を守ると死ぬのが確定するのでしょうか?

 

 それは、前の戦争で敗色濃厚になったなかでひねり出された「特攻」の考え方そのものです。だから飛行機でも魚雷でも「敵に体当たりして死んでこい」になるわけで命を軽視している...というか軽視どころか「自分たち上級国民を守るためなら若者の命を犠牲にしてもいい」とでも思ってそうだと感じてしまうのです。

 

 アメリカの映画でもテレビでも戦争ものは、「チームで助け合いながら困難で危険なミッションに挑む」というのはあっても、日本の特攻みたいに「必ず死ぬミッションだから死んで来い」はまずありません。少数の例外はあるにしてもほぼ100%が「たとえ危険だとしても、必ず生きて帰ってこい」なのです。「軍人は祖国のために命を捨てる」が大前提になっているわけではないのです。命に執着するのが人間本来の姿です。危険だとしてもミッション成功させるのが本来の軍人の姿で死ぬのが目的みたいになってはそもそも勝てないし国を守れません。

 

 「自分は戦わなくて、後ろで見てるだけだし、どうせ死刑にもならないだろうけど、若い人たちは是非とも自分たちのようなずうずうしい上級国民を守るために犠牲になって死んでください。そうしたら君たちのことを自分たちは道徳的だと思ってあげるよ」と、表立って言わないにしたところで傲慢にもそう思っていそうというのが透けて見えるような発言に誰が感心し感化されるものでしょうかね。