(「第一回新版画集団展覧会 ポスター」 1932年 )

 

 町田市立国際版画美術館で開催されている「版画の青春 小野忠重と版画運動 

ー激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たちー」展を見に行ってきました。

 (版画の青春 小野忠重と版画運動 ―激動の1930-40年代を版画に刻んだ若者たち― | 展覧会 | 町田市立国際版画美術館 (hanga-museum.jp)

 

 この展覧会、版画家の小野忠重(1909-1990)や武藤六郎(1907-1995)らが1932年に「新版画集団」を結成し「版画の大衆化」を掲げて版画運動を開始、1936年にいったん解散の後に翌年に小野忠重やメンバーの一部が新たに「造型版画協会」を結成して版画運動を継続・発展させた、その版画運動の諸相を探るもの、だそうです(上記リンクより)。

 

 それがどういう時代だったのかというと、

 

 1931年:満州事変

 1932年:五・一五事件、第一次上海事変

 1933年:日本が国際連盟脱退

 1935年:八紘一宇、教育勅語の神聖化など

 1936年:二・二六事件

 1937年:盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、日独伊防共協定

 1938年:国家総動員法

 1939年:ノモンハン事件

 1940年:日独伊三国軍事同盟

 1941年:日米開戦

...

 そして、この期間ずっとソ連ではスターリンが共産党の中央委員会書記長、中国は日本と戦い... ここでやめておきますが、つまりは、きな臭い戦争の時代、きな臭い時代であった、と。

 

 「版画の大衆化」を主張していた小野忠重は新版画集団立ち上げの頃は20代前半、なにかとそうした「労働者」だの「農民」だの「工場」だの「農村」だのといった、左翼的なものが心にあったのか、現代の私から見て「いかにも」な作品を創作していたようにも見えます。題材しかり、技法しかり、太い黒いいびつな線の躍動しかり。

 

 そういえば、上に掲げた「第一回新版画集団展覧会 ポスター」を見たときに私が最初に思い浮かべたのは、ほぼ半世紀前の京都大学に入学したときに毎日のように目にした「タテカン(立て看板)」でした。タテカンに書かれていた字の字体が最初の写真に似ていたのです。もちろん、細かいことを言えば違うのですが最初の印象として似ている、と。両者に共通しているのは「戦う気分」のような気がします。

 いや、それは私が勝手にそう思うだけですが、「戦う気分」「大衆とともに」「みんなで」なんて言葉が出てくるような、そんな気分ということです。正直言って、当時も私はあのタテカンは非常に邪魔、赤だの白だの緑だののヘルメットかぶって手拭いでマスクをして顔を隠して拡声器でがなり立てる学生運動家も邪魔、何かというと「クラス討議をしよう」と言い出す「民青」も邪魔、でした。「こんなことばかりして研究や勉強の邪魔してたら大学がダメになるぞ」と。

 

 そんな昔の思い出、の他にもう一つ思い出したのが小学校の図画工作の教科書の中にあった「版画」。私の記憶では、「版画」というと教科書の中ではどっちかというと川瀬巴水とか小林清親のようなプロ中のプロの作品よりは、子どもの作品も含むなにやら黒い太い線の、ちょうど今回の展覧会に出てくるような作品がたくさん掲示されていた記憶です。だから、今回の展覧会の、特に最初の方の展示を見る限り、「ああ、学校で習った版画ってこういうものだったよなあ」と思ったのでした。合板を小さく切ったような木の板とか、小さな木の板に彫刻刀で形を切り出してローラーでインクをつけてバレンで刷る、題材は家族とか働く人とか。今思うと、小学校の図画工作だって今回のような「版画の大衆化」というものに影響を受けていたのではないかな、と思います。

 

 ただ、作品としてみた場合にそんな時代、きな臭いの同時代に一方では年齢的には川瀬巴水の方が一世代前の人ではありますが、同時代に巴水らしい美しい風景の作品を生み続けていたのでもあるのです。私の目には巴水は「美しいと思うから作品にする」ということがずっと根底にあったように見えます。

 「芸術」として、色んな描き方があるのは当たり前で、ピカソもいればモネもいるダヴィンチもいればルーベンスもいる、そこで共通しているのは「美」というものへの追求だと思うのだけれども、私はこの展覧会をみて、この小野忠重をはじめとした人たちが果たしてどこまで「美」にこだわりを持ち作品が歴史の風雪に耐えるのだろうかと思ってしまいました。「美」よりイデオロギーのように思える。

 版画という分野では、葛飾北斎、歌川広重、小林清親、小原古邨、川瀬巴水、そういう人たちの作品には明らかに「美」がある、けれども、小野忠重はじめとする人たちについてはどうだろうか。この展覧会、歌川広重や小林清親の版画も一部に展示されているのだけれども、それがいかにも一服の清涼剤的みたいに見えてしまいました。そもそもが芸術と言うのは、「大衆化」みたいな「イデオロギー」が先走るとうまくいかないのではないのだろうか、広重や清親や巴水のように純粋に単純にそれぞれの感じた「美しいもの」を追い求める方が良いのではないか。

 また、一方では時代の雰囲気を吸収した忠重のような人たちは、当時の戦争の気分、闘いの気分から離れた場合にどういうものを制作するんだろうとも思いました。

 

(「ターザンがやってくる(青)」 by 横尾忠則 1974年)

 

 そんな気分で、隣の部屋で開催されていた「日本のグラフィック・デザイナーと版画」展を見てみたら、「版画の大衆化」の時代から30-40年経った横尾忠則の作品が。そこには「戦い」も何もなく、ポップな雰囲気があるだけ。この場合の芸術はまさに「時代をうつす鏡」でもあったのだな、だから1930-40年代の小野たちの作品が「戦い」を感じさせるものだったのかもしれないし、それから30-40年後の横尾の作品はポップだったりサイケだったりしたのだ、と思いました。今後の日本の美術はどうなっていくのだろう?