(「僕は頭が良くておとなしくて家族思いのビーグル犬だから、家庭犬として適切にもほどがあるのです」と、ビーグル犬まろさんオス9歳)

 

 「不適切にもほどがある」というドラマが結構話題を呼んでいるようです。実は私もこのドラマ、結構面白がって面白がって見ています。

 ただ、このドラマに限らずバラエティーなど他の番組でも、何かというと「昭和の昔はああだった」「今の現代ではこうだから昭和の常識は許されない」とか勝手に空想して比較対象して決めつけるような言い方も、色々なところでなされてきてなんだか鼻につく気がしてきました(上述のドラマでは逆に今の風潮に対する苛立ちもうかがえますが)。いや、そのすべてが根拠レスの空想だなんて主張する気は全くありません。でも今の世の中でもそうですが、「世の中、色々いるんじゃないの?人一人一人で、経験してきたことが全く違うんじゃないの?」って思うのです。「不適切にもほどがある」の脚本家は宮藤官九郎さん、「池袋ウエストゲートパーク」「木更津キャッツアイ」「あまちゃん」「ゆとりですがなにか」とかの数々の有名なドラマを手掛けた優名な脚本家の方ですが、だからといってその脚本に書かれたことが「その時代全てをうつす鏡であった」というものでもなく。

 

 あのドラマにも出てきますが、昭和の1986年当時はテレビ局なんかの「ギョーカイ」では今よりハチャメチャな、「コンプライアンス」なんて言葉の存在なんて全くなかった、アホらしい、エロい、ノリがいい番組作りが為されていた印象であったことは単なる視聴者の目から見ても、確かだと思います。でも、それ以外の「不良の文化」みたいなものは、確かにそういうのも世の中に存在していたのではあるけれども、なにも昭和の学生たちがみんな不良だったわけでもなし、「そういう類の人たちが存在した」程度のことなのに、なんだかその「存在したことは確かではあるが...」程度の人たちがいかにも「その時代を象徴する学生の代表」みたいな感じで扱われるのもなんだか違うなあと思うのです。勿論、そんなつもりではないだろうとは思うのですが、受け取る側の問題として。「当時のファッション」とか言われて短ラン・ボンタンなんてものが出てきたけれども、確かに取り上げるのは面白いかもしれないけれども、学校の近くを歩いていてもそんなもの着ている人にリアルで出会ったことはほとんど或いは全くなかったと言っても間違いではありません。その種の人たちが多い学校はもしかしてあったかもしれないけれども、それだけのことです。どちらかというと、当時でもそうしたファッションについてはマスコミで取り上げられていたのでその存在を知ってはいましたが、マンガやドラマに出てくるかなり特殊な人達の好んだファッションという印象です。

 

 当時だって今だって、まあまあ普通に「勉強に励む子供達・学生達」なんて真面目に、制服になんのアレンジもしないで着ているだけだし、勉強が面白くなくてやりたくないなあ、と思っているどちらかというと成績の低い子ども達の中のごく一部が、奇抜なファッションに走ったりして、それは昔も今も変わりないということだと思うのです。昔は妙な色に髪を染めるなんて人はいませんでそのかわりに整髪料を使って妙な髪型にする人がいて、今は妙な色に髪を染めるのが「個性」だと勘違いする一部の子達がいたりする。今から何十年後のテレビドラマで「令和の若者は髪の毛を金髪やメッシュに染めるのが普通でした。それが令和と言う時代でした」なんて言われたら、違和感があるに違いありません。

 

 つまり、昔から「真面目な人々」と「普通の人々」と「不良の人々」(「欽ドン」の「良い子悪い子普通の子」ではないけど)ってずっと世の中にあったわけで、「コンプライアンス」なんて言葉が世に出てくるずっと前から真面目な人々はコンプライアンス無視のことがあっても「いや、それはちょっとまずいですよ、後で問題になるから、そういうことはやめておきましょう」と言い続けてきたわけです。それを「真面目だなw」とか揶揄されることがあったとしても。今は、多くの企業の中では「破ってはいけない決まりだから」というのが浸透してきたから「コンプライアンス遵守」なんてやってるだけ、に過ぎない。流れに逆らうのはエネルギーが要りますから、流れがそうならとりあえず従っておこうと。これが行き過ぎるとなんでもかんでも「○○ハラスメント」になって、それに疲れた人たちが増えたというのは正しいと思います。で、そもそもが現代の基準で「○○ハラスメント」なんて言われるような人が本当に昔はそんなに沢山いたのか、というと別にそうでも無くて一部のお調子者のオッサンたちがやりたい放題していた或いはコミュニケーションについて何かと「気を遣って」女性社員に馴れ馴れしくしてきたオジサンたちが「それ、セクハラですから」って今は糾弾されるようになっただけのことです。昔から、普通の目立たないオジサンたちは妙な無駄なコミュニケーションもとらずに、普通に過ごしていた記憶です。

 

 だから、「昭和の人は」「令和の人は」なんて一応「世代による違い」みたいなことを強調するドラマやバラエティーの番組もこの頃よく目にするのではあるけれども、むしろ「時代」とか「世代」とかいうよりも、「個人個人による差」の方がよっぽど大きかった」というのが昔も今も実態だと思うのです。

 今は受験の季節ですが、それこそ切磋琢磨してトップ校を狙うような学生達と、Fランに入るとか高卒で就職するとかいう学生達と、或いは超一流大企業で働いている人たちと、ブラック中小企業で働いている人たち、その中でも色々な種類の人たちがいるし、そういう人たちの間には良い悪いではなく、相当な「文化」の違いがあるのではないか、それは昔も今も変わらないよなと思うのです。時代による差ではなく、各々が属する集団の「文化」の差。

 

 何十年後かの歴史家たちが「昭和の時代は」「令和の時代は」とか大雑把に一括りでアホなことを言うようにならないことを祈るばかりです。