(「いろいろと掘り返して見直してってのは確かに楽しいです」とビーグル犬まろさんオス9歳)

 

 今年の1月期のドラマのラインアップを見ていて、「ドラマってこんなもんだっけ?」と思ったことがありました。

 主人公が「五感を失っていく」とか、3ヵ月先に父が死ぬとか、神の力でウソがつけないとか、心の声が聞こえるとか、タイムトラベルするとか、タイムスリップするとか、自閉スペクトラム症だとか、なにやらかなり特殊な状況設定をやっているものが結構多いような気がします。

 でも、思うのですがそんなに特殊な状況だと主人公に或いは登場人物に共感するものだろうか?少なくとも私はなんとなく共感はできなくなってしまって、どこか別世界の出来事、としか思えなくなってしまうのです。まあ、それでいいと言えばそれで良いのかもしれないのですが。

 なんでこんなことを思ったかと言うと、いわゆる「月9」の「君が心をくれたから」というドラマをみて、ものすごく残念な気がしたからなのです。このドラマは永野芽郁、山田裕貴さんが中心になって話が展開するのですが、途中まではなんとなくせつない恋愛ものという感じで見入っていたのでした。永野さんは大好きな女優さんですし、人気もある、山田さんとの組み合わせもぴったりでした。ところが、途中から妙な「相手の命を救う代わりに自分が五感を失う」というおよそ自然界ではありえない世界にいきなり連れていかれたので、その時に一気に冷めてしまいました。翌週以降も見てはいるのですが、なんだかその妙な設定が気になってしまう。これはファンタジーなのだ、ということだというのは分かるのだけれど、この二人の組み合わせなら、そんなスーパーナチュラルな設定など使わずに、みる者の心を奪うようなストーリーが展開できるのではないだろうかと思ってしまったのです。

 視聴率も最初は7.2%で始まって、次の週が5.8%に急落。「暗い、重い」という声が聞かれますが、「暗いから、重いから」視聴率が下がった、視聴率が上がらないというよりは、「その設定に入り込めない、あっけにとられた」というものがあると思うのです。

 なんだか、本当にもったいないなという気がします。この二人以外にも脇を固める人たちはちゃんとしているし。せっかくいい役者さんたちを揃えているのに。

 妙な設定がなければ、ドラマとして成り立たないということはないと思うのです。

 

 妙な設定と言えば、その後の「春になったら」は「三か月後に死ぬ父」という設定で、最初から「お涙ちょうだい」を仕掛けているのが、なんだかなあと思うのです。ドラマにおいて、「死」というのは非常に大きな要素で誰かが死ぬから悲しい、というのは「そりゃそうでしょ、死ぬんだから」ってものでもう当たり前すぎてかえって妙な設定に思えてしまう。こっちは「現実としてありうる」のだけれど、だからと言ってそれをドラマに取り入れていこうというのは、料理を作るのに人口調味料を嫌というほど使う、みたいな感じがするのです。言葉を変えれば「ドーピング」。ズルいな、と。話も、これは掛け値なしに「暗い」。なんだよ、単純すぎって思えてしまう。

 

 フジテレビのドラマ、特に月曜日の枠がピンチ、低視聴率、とかこの頃そういう生地を見たりしますが、なんだかそれは当然でしょ、と思えてしまうのです。

 昔の高視聴率のドラマ...確かに今と昔では視聴習慣も違うし、ネットで見るとか録画して見るとかスマホで見るとかで単純に視聴率同士で比較できないのかもしれないけれど、少なくとも現代でもまあまあ同じようにみられているものもあることを考えれば、たとえばTVerでのお気に入り登録が多いとかいうのもなんだかなあと思えてしまうのです。「積木くずし」、「半沢直樹」、「熱中時代」、「太陽にほえろ」、「家政婦のミタ」、「3年B組金八先生」、「ひとつ屋根の下」...少なくとも、昔の、話題になったドラマって妙にファンタジーやおかしな設定に逃げずにまっ正面から人間同士の絡み合いや事件を描いたものが多かったと思います。職業や場面に色々あっても、少なくとも現実にありうる、もしくはあっても不思議ではない設定で、なんらかの共感を得たからヒットしたんだろうと思うのです。

 

 だから、この頃みたいに「奇妙な設定頼み」のドラマが目立ってくると、「脚本家が人間を正面切って描けない時代なのかなあ」と寂しくなるのです。