(「人生の引き際が重要、とは僕も思います」としみじみ語るビーグル犬まろさんオス9歳)

 

 昨日、父が入所している介護施設から電話がかかってきました。

 内容は、父を緊急入院させて良いのかという、ものでした。施設には、その種の事態があったときには、私にご確認くださいと言っていたのでその確認の電話でした。

 父の様子が、呼吸が苦しそうになった、酸素飽和度が80くらい、熱も若干出ていて37.3度で結構苦しそうだというのです。

 その状態であれば、病院に搬送してくださいとお願いして、搬送病院が決まってから追って私もその病院にかけつけました。このような状態の時はかなり治療や検査や手続きに時間がかかるものだというのが経験則なので自家用車で行きました。終電を気にしたくなかったのです。

 

 救急搬送の入り口から入っていくと、介護施設の方が待合で待っていてくれました。有難かったです。状態を簡単に話してもらい、しばらくして病院の救急病室から呼ばれて一緒に父のところに行きました。

 

 ベッドの上にいたのは、うめき声を出し点滴のチューブや、鼻に入った酸素の管や、酸素飽和度を測定するために指につける機器を、苦しいから外したい、呼吸も苦しい、ともがき苦しむ父の姿でした。すでに人間の顔ではありません。1980年代にヒットしたホラー映画「バタリアン」の怪物みたいと思えてしまいました。ちなみに、バタリアンのヒットの後、それをもじってマナーの悪いオバちゃんたちのことを描いた「オバタリアン」という漫画が堀田たつひこさんによって描かれました。

 鼻から酸素の管を入れられたので既に酸素飽和度は改善されたのですが、苦しいのかしばしばそれを外すので測定不能になります。そのたびにPCの画面上に「?」のマークが出ます。そしてそのたびに病院の看護師が駆けつけてくるのでした。鼻の管は酸素マスクになったのですが、それも何度も外そうとするので看護師の方の「外さないでください」と言う言葉も少しトゲがあるように変わってきたかなと思います。おそらく父のような患者は極端な方だとは思うのですが、苦しんで色々と管やマスク等を外そうとする患者の応対を始終していないといけない病院の関係者の忍耐は、さらにはおむつのチェックや粗相の処理もしないといけない場合もあれば、それが毎日のことであるだけに頭が下がります。

 

 心電図をよく見ていると脈が綺麗にパルスになっているわけではなく、心臓の筋肉がうまく収縮しないのか山脈のような感じの波形になるときがあって、そのようなときはことさらに苦しそうになるのでした。

 色々な検査と処置をするのでしたが、そのときには私たちのような付き添いの者たちは病室の外に出されていました。痰を吸い取る処置で鼻から管を入れる...のが痛いのか、「痛い、痛い、あー...痛い」という父の声が待っている私たちの廊下にまで大きく聞こえてきました。他の患者さんたちは誰も騒いでいる人がいなかったので父の声がことさらに目立ったのでした。本当に痛い、というのもあるのですが認知症でもう精神は1歳になるやならずやの赤ん坊のようなものになっているので痛みを我慢できずに泣き叫ぶような声を出してしまうのです。認知症になるともはや精神は「赤ん坊」なのです。母も認知症なので、「父が入院したよ」と知らせても「へー」と言うだけでした。「見舞いに行く気は全くない」そうなのです。母ももう既に「自分だけ良ければ」の赤ん坊の心になってしまったようなのです。何かを訊いても平気でうそをつくようになります。

 

 全身皺だらけの精神年齢1歳未満の人間...かつて人間であった何か...が赤ん坊が泣くが如くに大きく悲鳴を上げ、苦しいと言って呻く。かつて人間であった何か...が苦しいと言って喚き皺だらけの手で必死に測定器具たちを外そうとする、ホラー映画、バタリアンそっくりな顔つきで苦しそうな表情を見せる。それを、「処置と検査のため廊下に出ていてください」と言われたとき以外、何時間も間近で見、聞き続けないといけないのです。トラウマになりそうでした。

 施設の方達は、救急搬送に家族の同意がない場合はそのまま施設に父を置きっぱなしなので、そうならなくて本当に良かったと言っていました。一日中、朝から晩まで父の悲鳴や呻き声を聞いているようだと、気に病む、心が病むそうなのです。なにも処置できない、そのまま放置するしかないとなると...

 この施設は老人・認知症の介護施設ではあるので障害者の介護施設とはまた違うのかもしれませんが(たとえば精神の障害で体が元気だといきなり暴力をふるってくるとかあるそうです)、介護される方の意識レベルが必ずしも高くないという点では同じものだろうと思います。介護施設「津久井やまゆり園」の職員であった植松聖が入所者19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた相模原障害者施設殺傷事件、なぜそんなことが起きたのか、父の様子を見て想像がつきました人間の意識が認知症や障害で低くなると、もはや人間の形を辛うじてしているけれども根本が違う何か、のように見えてきてしまうのです。こういう感じ方が人権を大切にしたい人々から見るととんでもないことのように見えるのは重々承知しています。でも、人が長生きし過ぎて、ほぼ赤ん坊の意識、それより下に下がってしまうと「人の尊厳」とは言うものの、「本当に尊厳とはなんだろう」と考ええこんでしまうのです。自分も長生きし過ぎると父と同じような状態になるかもしれないとなると怖いのです。

 よくドラマや小説では老人が今際の際(いまわのきわ)に、妻子や孫に言葉をかけるみたいな場面が出てきたりしますが、あれは理想かもしれないけど必ずしも「生きている=意識がしっかりしている」ではないのです。

 少なくともうちの場合は私が行っても「息子が来た」ともなんとも意識することなく、誰が周りにいようがひたすら自分の世界の中に閉じこもってほぼ譫妄状態ではないかと思われるような様子でした。私と施設の人以外は誰も見守らず。今後、長生き老人が増えれば認知症の状態で亡くなる方も増え、このような形での「別れ」が増えるのではないかなと思います。精神が退化して既に誰のことも認識しなくなっている状態では、既に別れているのだと思います。自分の糞尿も他人まかせになっているような時点で、肉体は辛うじて生きていても、精神はとうの昔にどこかに去ってしまっています。

 

 父が直近の介護施設に2ヵ月いる間、母も姉も孫たちも誰一人としてその介護施設に行きもせず、介護施設関係の契約など事務処理は私がするだけ、認知症で本人は何も理解していないのだから行っても仕方ないというのはあるけれど、介護施設は「現代の姥捨て山」になっているのを実感します。父の糞尿処理なんて、配偶者の母でも「糞なんてしてない」とウソを言い張って絶対に手を出しませんでした。それでもその施設から連絡が来たときに私はほぼ「父が危篤」のように感じたので姉夫婦に「父が緊急入院した。夜中でも良いから駆けつけるべき」というのを伝えたのですが、姉たちは私が病院に行った後に私の自宅に電話をかけてきて、電話に出た妻が言うには姉は「行かなくていいよね」と同意を求めるような物言いを何度もしたそうです。妻は「私に意見を聞くのではなく自分で後悔しないようにしたらどうでしょう」と言ったそうなので、結局は姉夫婦も父のところに見舞いに行ったのですが、勝手に父と昔に妙な密約をした姉夫婦は報せを聞いてとりあえずは駆けつけるものではないかなと思ったのですが。

 

 こうした「ドライ」な別れになるのも認知症で既に訳が分からなくなってしまったせい、「長生きは幸せ」「お達者な生き生きの年寄り」なんて、もはやある程度以上歳を取って認知症が進めば空しいなと思ってしまいます。おそらく、父が苦しいようでもだえる姿、シワシワの怪物になって苦しみ痛がる姿、その怪物が父だけに、今後はトラウマになりそうです。ホント、人間、昔みたいに70代くらいが平均寿命だった頃のが幸せだったのではないだろうか。長生きのために「金を貯めておかないと」という意識になって経済にストップがかかるわけだし、年寄りばっかり増えるし、国家予算で年金の占める割合も増えるし、労働力無くして世話される人ばかり増える。長生きは幸せではないのでは。