(春の音を聞き春の匂いを嗅ぐビーグル犬まろさんオス8歳)

 

 春の音、というと真っ先に思うのがウグイスの声です。家に咲く梅はとうの昔に散ったのに、昨日今日と朝に夕にウグイスの声がビーグル犬のまろさんとの散歩のときに聞こえてきました。人間がことさらにウグイスの声を「風流」と思うのは何故だろうと、と思うほどに不思議ですが、あの「ホー......ホケキョ」という声が聞こえると、住んでいるところも、まろさんの散歩も、住宅街の道路かせいぜい少し下がったところにある田畑のあたりなのが、一瞬で「気分は梅の咲く梅林」、みたいになってしまいます。それでウグイスはどこにいるのだろうと、声のする方を向いて探してみるのだけれど、なかなか見つけられないのです。ウグイスというと、黄色や緑の色が強いメジロ、目の周りが白いメジロ、と見た目がよく間違われて、私も梅にメジロがいると間違ってウグイスがいるなと思ったこともあったのだけど、実はウグイスはもっと地味な茶色っぽい色、というので改めてウグイスを探してみてもなかなか見つからないのです。

 「声はすれども姿は見えず」というのが私にとってのウグイス、春の音なのです。

 

 春の匂い、と言ったら、まず思い浮かぶのが梅の匂いです。菅原道真の有名な歌「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花...」というまでもなく、梅の花が咲くと、あたりに梅の香りがほのかに漂うのがとても「春が来たなあ」と思わせるものがあります。

 私は子供の頃から春になると庭に梅の花が咲くのを見てきて、その時期になると梅の香が庭に漂うな、というのを家と学校、家と会社の行き帰りに感じてきたのでしたが、あまり鼻を花に近づけてわざわざ嗅ぐということはしませんでした。

 結婚してから、妻と行った梅見で、妻がわざわざ鼻を花に近づけて嗅いでみる、というのを見て、動物みたいでなんか面白いなと思ったのを覚えています。確かに梅の香りをはっきり嗅ぐには鼻を花に近づける方がよく分かりますね。で、梅見に行ったときにそうしてみるとあらためて梅の花と言っても、品種によって匂いが違うし、結構匂うもの、それほどでもないものなど、色々とあるのだというのが分かりました。人というもの、夫婦というもの、違う環境で違う生き方育ち方で知り合った同士が「あ、こういうのもありなんだ」と発見するのも面白いな、と思うのですが、これもその一つです。色々あって面白い。

 同じ時期の水仙もなかなか良い匂いで、咲いていると思わず嗅いでみたくなります。

 さて、とすると、人間がそんな行動をするのってビーグル犬まろさんがお散歩のときにいつもクンクン何かの匂いを嗅ぐのとさほど変わらないものなのかもしれませんね。

 

 春の色、というと梅の花の白、桜の花の桜色、それはもちろんなのですが、まろさんとお散歩していると田んぼの辺りに咲いているピンク色の小さな花とか、畦道に咲くまっ黄色なタンポポの花が、私にとっては代表的です。あと、菜の花の黄色もですね。でも日常的には黄色と言ったらやっぱりまろさんとの散歩で出会うタンポポの黄色です。

 黄色と言うと...長女がそう言えば小さい頃、保育園の頃に盛んに「黄色!」と鋭い声で言っていたな、黄色が好きだったな、と思い出します。花でも絵でも本の中の絵でもテレビでも、子供が「黄色!」って叫ぶのが何故か物凄く印象に残っているのです。子供の頃は「シールブック」と言って、一冊の絵本みたいなものでシールを貼ることによって絵が完成するような本があるのですが、長女はそのシールブックをやるのが好きな子だったなとか思い出したりして。その長女もこの4月からは大学生に。自分でも「もう私も大学生か」とかつぶやいていましたが、時の経つのは早いものだと実感します。

 公園の桜の花びらが、満開になったあとにひらひらと散っていき、公園の地面に積もっていくのを見るのも風流です。あれも確実に春の色です。思わぬ雨にぬれそぼって段々と枯れて汚くなっていくのだけれど、それも含めて風流。いわば春の風物詩だと思うのです。今年は公園の桜もなんだかかなり伐られてしまって寂しい姿の公園になっているのではあるけれども、それでも桜が咲くのを楽しみにしています。

 

 「人生100年時代」なんて政治家達はなにやらええ加減なことを言うのだけれど、親達を見ているとそうは言っても、色々な音や匂いや色の刺激をちゃんと楽しめるのは今のうち、楽しめるうちに楽しみたいなと思います。そう言えば、昔から「結局は人間はせいぜい数十回しか四季を楽しめないのだ」とずっと思ってきています。人生は短い。樹齢何百年なんて木の年輪の限られた時期にしか、一人の人間って生きていないのって、実にはかないものですね。