(「私はまろ、まだまだ元気ですよ!」と元気なビーグル犬まろさんオス8歳。一生、幸せに暮らさせてあげたい。)

 

 愛知県犬山市の火葬場、「尾張北部聖苑」で、ペットの亡骸を火葬するときに他のゴミと燃やされていたそうです。委託先の火葬業者の従業員らがコンビニ弁当の空き箱やペットボトルと一緒に燃やしていたとのことで10年以上以前から常態化していたと。酷い話です。

 飼い主がペットの火葬をお願いするときは、ペットとの楽しかった思い出を胸に、一歩間違えば剥製にでもして残しておきたいという気持ちを抑えて、断腸の思いで火葬業者に火葬を託すのですから、そんな扱いは決してしてほしくないものです。

 

 2022年10月18日のブログで書いたのですが、私には30数年前から26年前まで(正確には最後の1年は私の結婚で実家に置いてきたので27年前まで)一緒に暮らしたビーグル犬イヴ公がいました。そのイヴ公とのお別れについて書きます。

 私の結婚を機に実家にイヴ公を残してきたのですが、ひと月に一度くらいは会いに行っていました。イヴ公は身体に腫瘍ができやすい体質だったのか、もう少し若い時期に腫瘍を取り除く手術をしたことがあったのですが、歳をとるに従ってまた腫瘍が膨らんできてしまったのでした。ただ既に推定で(迷い犬だったので)14歳くらい(人間だと72歳くらい)の高齢だいうことで手術はしないでおこうとしていました。結婚して1年くらいたってからイヴ公に再会したときは腫瘍のみならず、その腫瘍のせいでどこかが圧迫されているのか身体が大層むくんでしまって、見ていられない状態になりました。このままにしておくと死んでしまうのではと。そこでもうどうしようもなくなって「手術しないで様子を見る」という方針の医者ではない他の医者に連絡をして、「手術をして助かりますか」と訊いたら「大丈夫でしょう」ということでしたので、その医者に託しました。

 「手術は成功しました。水も飲んでいます」という連絡がその日の夜にきたのですが、翌朝になって「死んだ」という連絡がきました。ただ、あの状態で手術せずあのまま放っておいても亡くなってしまったことではあったと思います。

 

 むくみがとれ、腫瘍もとれはしたけれえども亡骸となってしまったイヴ公と再会して、冷えて固くなってしまったイヴ公と再会して、とても悲しくなりました。ノミとりシャンプーで洗ってやっていたにもかかわらず、冷えた身体からノミや虱が逃げ出していくのを見て、「ああ、ノミや虱も寄生している動物の体温が低くなると逃げ出すのだな」と、悲しみの中でも妙に冷静に見ていたのを覚えています。

 イヴ公は元々、「拾われた迷子犬」ということで、拾ったけれど自分では飼えないという近所のAさんが、うちに「飼えませんか?庭もあるし」ということで声がけしていただいたものなので、最初のそのきっかけになったAさんに、「あの時の犬は昨日亡くなりました。最後にお別れで顔を拝んでやってください」と連絡し、お別れしてもらいました。「十何年も前に『飼ってやれないか』と声がけをしただけなのに、死んだ犬の顔を見てやれとは面倒くさい人たちだ」、と思われたかもしれないのですが、その時は悲しみでそんなことも思いつきませんでした。ただ、Aさんもイヴ公とはそんな薄いご縁でもイヴ公の亡骸を見て悲しい様子で母と私の気持ちに寄り添っていただきましたことは覚えています。

 その昔、Aさんは我が家でイヴ公を飼って一か月くらいに、我が家を訪問して様子を見に来たのですが、すっかりうちの犬になったので、イヴ公は「Aさんちには戻りたくないよ」ということなのか、わざわざ私の後ろに姿を隠したのはいまだによく覚えています。イヴ公はちゃんと自分が1-2日滞在しただけのそのAさんをよく覚えていたのです。

 

 名残惜しいのですが、亡骸になってしまってはずっと保存しておくこともどうすることもできず、ペットの火葬をしてくれる火葬場をネットで見つけて、自動車で亡骸を運んで荼毘に付しました。実のところ「剥製にしたい」とまで思わないこともなかったのですが、それもかえって悲しみをいつまでも引きずるようで立ち直れなくなりそうで、また剥製になる過程もものすごくおぞましそうで、想像するのもかわいそうで諦めました。

 見つけた火葬場は良心的だったのか、というかそれが当たり前であるのですが他のものと一緒に燃やすということもなく、ちゃんとイヴ公だけ燃やされたので、担当の方はここは「○○の骨」とか教えてくれました。「これが頭の骨で、これが脳みそ」と燃えた脳まで示されたときは、「脳がこんなに大きいから、あんなに感情豊かで色々と考えていのたんだな」と、イヴ公との想い出と悲しみが押し寄せてきました。犬は高等動物、思ったよりも脳が大きかったのをよく覚えています。

 

 焼けて骨になってしまうと、「ああ、これで本当の本当にお別れなんだ...」という実感が強く感じられます。荼毘に付されないうちは、冷えた肉体にもはや生命は宿っていないのは理論上は分かっていても、気持ちの上では「また生き返って起き上がってじゃれてくるんじゃないか」とかいう想像をしてしまうものです。それがどんなにバカバカしいと分かっていても。スティーブン・キングの「ペット・セマタリー」という小説は、そんな「愛する者にまた生き返って欲しい」という気持ちを扱ったものだったと記憶しています。国は違っても人間の気持ちは同じですね。でも火葬の後に骨を見、カサカサと音を立てる脳みそを見、気持ちの上で深い悲しみと諦めがいって、納得、ではないのだけれど、「ああ、もうだめだ、絶対の絶対に生き返ることはない」という気になるのです。

 骨はお寺で供養してもらわず、我が家の庭に埋めました。お寺にいってしまうより、まだ実家で身近に感じていたかったからです。

 

 当たり前だけど、火葬業者の方は愛するペットたちをゆめゆめ他のものと一緒に火葬しないでくださいね。化けて出ますよ。