(嗅覚を利かせるビーグル犬まろさん。研究心旺盛です。)

 

 明星大(東京都日野市)の元学生の男性(20)の方が明星大学に対して、新型コロナの影響で1年間対面授業を受けられなかったことを理由に授業料の一部や精神的被害の賠償、合わせて145万円を支払うように求めていた訴えを、東京地裁立川支部が今日の午前に退けたそうです。

 判決理由は、国の緊急事態宣言もあり対面授業の実施を控える大学が多かったことで「明星大が突出した選択をした不合理なものとはいえない」ということだそうです。この訴えを起こした方、既に退学されているので「元」学生です。

 

 なんだか残念だなあと思います。コロナ禍でオンライン授業ばかりになったのだろうということがまず残念。勉強に対しての考え方を大学で転換できなかったこの方の発想が残念。私だったら対面授業がなかったらむしろ喜んでいたくらいのものかもしれません。

 

 私が京都大学に入った頃に大学の先生の教えで強烈に感じたことが幾つかありました。今はもう四十数年も経って代替わりもしているし先生によっても個性があるので必ずしも「これが当時の大学全体の考え方」ではないのかもしれないけれど、私には十分に納得がいく教えでした。以下がそれです。

 

1.授業に出ることと勉強することは同義ではない。出席したって理解していないなら何の意味も無い。

 

2.自学自習で授業内容を理解するならばそれで良し、授業に出る必要はない。下宿にこもったままで幾つかの専門書を読んで、試験受けて合格したらそれで結構。

 

3.履修届は授業の最終試験を受けて合格してから出すので良い。そんなに簡単に合格できないから。

 

 各々について少し説明します。

 

1.授業に出ることと勉強することは同義ではない。出席したって理解していないなら何の意味も無い。

 

 今の大学では結構、「出席をとって出席点を加算して単位を出す。出席しないと合格にしない」みたいな先生も結構いるとは思いますが、私が通っていたころでは出席をとるのは語学と体育だけでした。出席とるときもふざけて「代返」もあったり。で、それが当たり前だと思っていました。

 「努力することが大切、過程が大切」と言い出す人は思いもよらない意見かもしれないけれど、「自分が理解できない/していない授業に我慢して座り続ける」ことに何の意味があるのでしょう。結局、時間が無駄になるだけで退屈な時間を過ごすのは努力でも何でもなく、「理解した」という結果がでてこその努力でしょう。

 この場合、たとえば社会に出てからのお客さん相手の営業活動みたいなのだと「自分以外の他人との関係で努力が生きるか死ぬかが決まってくるのだけれど、成功にしろ失敗にしろ、自分でする正しい方向の努力なしには成功はおぼつかないのだから、正しい方向の努力は認めましょう」という意味で「努力は認める」になるものだと思います。

 でも大学での純粋な勉強みたいに「他人」「他者」という要素は介入してこない場合は、あくまでも理解するための自分の努力次第なのだから、「座ってたからその分の努力だけは認めて」なんてことは認められない、ということです。

 

2.自学自習で授業内容を理解するならばそれで良し、授業に出る必要はない。下宿にこもったままで幾つかの専門書を読んで、試験受けて合格したらそれで結構。

 

 これも「努力のふり」を他人にし続ける必要は全くないから、自分で納得いくまで思いっきり考えて理解することが大切、ということです。さらに、自分が理解して納得するとしたら授業に出る時みたいに「その先生の考え方」で、満足してしまうのではなくて、さらに他の専門書も読んで別の見方を理解するとかした方が、より全体としての理解が深まる、ということです。

 授業を受ける先生の学説のコピーを理解するのが大学教育ではないのではと思います。その先生のいうことそのままコピーみたいにオウム返しすれば単位が取れるみたいな授業があるかもしれませんが、それは本来の姿ではなく、学生が自主的に勉強すべきものなのです。

 

3.履修届は授業の最終試験を受けて合格してから出すので良い。そんなに簡単に合格できないから。

 

 これは私が在学当時にもの凄く優秀だとされていたN先生の講義に出ようとしたときに「履修届はどうするのか」と聞いた時に言われた言葉でした。それで、「そりゃそうだよなあ」とそのときに妙に納得したのを強烈に覚えているのです。よく「大学の成績」とか言いますが、先生によって成績のつけ方が甘いとか辛いとかあるのだから、当てにならんなあと思います。この先生の場合決して甘くはなく、そもそも大学の勉強と言うものはそういうもので、「先生の講義ノートを復習して吐き出せば単位が貰える」みたいなものではいと思うのです。よく「判で押したような人だけ育成するような教育はまっぴら、そんなのは教育でも何でもない。日本の大学教育はまさにそれ。」なんて言う人がいますが、そう言う人は「先生の講義のノートを復習して吐き出して単位を貰う」みたいな講義ばかり受けてきたのだろうかな、むしろそれが好きでその段階で止まってきたのではないかな、と思います。

 

 あとは、「正解を他人に直ぐに訊こうとするな」というのも重要だと思います。あくまでも自分の頭の中で苦しんだ末に整理して考えて身に着けることが重要だと思うのです。

 ただ、、、それも程度ものの場合があって、たとえば簡単な微分 df/dx を「d」で、偏微分 ∂f/∂x を「∂」で分母分子を約分してしまって各々を f/x と理解してしまうような人だと、むしろ他人に訊きまくる方が良いのかもしれません。

 

 さて、

 ここまでのところは大学の「学問の基礎」段階でのもので、専門書がその分野で何冊も出ていて自学自習できるとかの場合です。

 そこまでが済んで、段々と研究みたいな前人未踏ということになってくると専門書も何もないですから、関連論文を読み漁ってから周囲の同じような研究をしている人と相互作用するということが重要になってきます。つまり、「対面が大切」なのです。

 だから、この明星大学を退学され最終的に訴えを退けられた方、まずは「大学で勉強するのはどうやればよいのか、どうやるべきなのか」を深く考えてみられたら良かったのではないかなあと思います。対面授業でないから精神的被害を受けたと感じられたのだとしたら、そもそも大学教育には向いていなかったという考え方もあるかもしれません。是非、お気を強く持たれて今後の世の中を渡って行かれることをお祈りします。