(ビーグル犬まろさんには、まろさん自身の世界がある)

 

 誰もが自分を中心に世の中を認識しています。誰もが、自分の人生で主役を演じています。これは当たり前の話です。

 ところが世の中で生きていると雑音が入ってきます。自分で雑音を作り出してしまいます。「あの人よりも自分の方が」と知らず知らずに自分と他人を比較して嫉妬したりして自分の人生をハッピーな感情から遠ざけたりします。本来、自分と他人を比較するなんて愚かな話です。一人一人、生まれ育った環境も違う、素質も違う、見た目も寿命も何もかも違う。それなのに「自分が何かの面で他人より優れているものを探さないといけない」なんて、処世術、他人へのアピールには必要かもしれないけれども、本当は自分の人生には必要ではないのです。まして、キャリア教育と言うのか知らないですが、「生き甲斐を持て、自分の強みを持て、将来像を描け」とかこの頃では子供のころから言われたりします。大人のみならず子供にとっても生きにくい時代になってしまいました。面白いことなら熱中する、その先に成功があるかもしれないないかもしれないというふうに、もっとゆったり構えても良いのではないかと思います。

 「好きこそものの上手なれ」と昔から言い、私はそれは真実であると思うのだけれど、「自分の強み」とか言い出すと、「他人より優れていないといけない」となって途端に窮屈になってしまいます。

 

 でも、たとえば、天才的に頭の良い人、絶世の美男美女、手先が優れ芸術的センスに優れている人、体力や運動神経が世界のトップレベルに優れている人、世の中にどれほどいることでしょう。みんな、ぼちぼち、そこそこ、それで生きているのが世の中だと思います。天才的に頭の良い人だってアスリートだって偏った方面でしか能力を発揮しないものだったり、芸術的なものでも全ての人に感心されるなんて無理ですし(ピカソよりラッセンが好きなんて人は当たり前に多いでしょう)、絶世の美男美女だって、「好みの容姿ではない」でバッサリと興味ない人と思う人たちだって大勢います。それに、そもそもが「上には上がいる」ものだったり、絶対的なものではなかったりします。

 たとえば現代の美術・芸術だって私は結構見たり聞いたりしますが、私から見て「なんだこれ?何が認められ評価されているの?」と思うようなものが沢山あったりします。でも、その作者からすれば「これが一番、これが自分を表現するもの」だったりするわけで、その作者の世界の中では「自分が中心に世界が回っている」で結構なのです。

 世の中で生きている人、「自分が中心に世界が回っている」、それが当たり前で良い、と私は思います。

 「自分が一番」それでいい。

 だって、自分が自分の目で判断して感じたものは自分の中にしか存在しないからです。各々の人も、動物だって、自分なりの世界はあり自分が中心ですから。

 

 「誰かが亡くなった」ということに対して、関係がない人は関係がないに決まっています。自分の身内、自分のペットが亡くなったら悲しい、でも全く関係のない赤の他人が亡くなろうが、正直言って悲しくない。生まれる死ぬは生き物の当たり前、自分に関係なければいちいち悲しむこともない。人生で世話になった人、人生でかかわりがあって思い入れのある人、そんな人たちが亡くなったら悲しい。もう一つ、儀礼的に「死を悼む」というのもあります。でもそれもあくまでも「自分の人生に影響があった人、知っている人」の範囲です。

 

 この頃、余りにも「人の死を悼む」ではなくて「政治の駆け引き」だけの点から「安倍元首相の国葬」とか言われていて、辟易としています。もう決定されてしまったのでしょうが。

 朝日新聞の川柳が「国葬」に関して揶揄しているような批判してるような川柳ばかり掲載したから「朝日は怪しからん」だそうですが、拙速に根拠薄弱に「国葬」と決定するようなことをするから「岸田政権を批判」している人がいてその人たちが作った川柳なのに、それを最初からその決定が無かったかのように「亡くなった故人をけなしている、日本人じゃない」と論点ずらししている人。

 批判していることに対して「批判することが無駄な議論で粛々と国葬してえしまえば良い」とかいって、論点ずらしをしている人。

 

 これらは、「拙速に法的根拠薄弱に右寄りの人に気を使って自分も国際舞台でスポットライトを浴びたい岸田首相が独断的に閣議で決定した」ということが問題だとされているのに、「国葬反対の人は安倍元首相の死を悼んでいない人」みたいにウソをついてまで論点ずらしをして非難をする人がいます。ご本人たちは正論のようなつもりなのか人を騙せているつもりなのか知りませんが、NHKの世論調査でも国葬反対38%、他の調査では反対の方が多い、決して小さい数字でもない国葬反対の人々が少数派とも言えないのを意図的に無視しているのですから、何なんだろうと思います。

 

 大多数の国民の立場からすれば、正直言って安倍元首相は「会ったこともない知らない人」であるし、正直言って、自分の家族やペットが死んだのと比べて悲しさは雲泥の差で「はあ、亡くなったの。犯人酷いな」程度の事件ではありましたが、それに国民の税金を多額に使うというのが、腹立たしいのです。そんなに特定の政治家の葬式を盛大にやりたければ、本当に悼む心のある有志が金を出し合って、或いはそれこそ「安倍晋三氏を送る会クラウドファンディング」でもやって、国民の税金に手を付けないで葬式をして欲しいものです。

 「ほとんどの人の生活に関係ない」なんて言ってよく考えていない人もいるようなのですが、国民の税金を使うってことは「全ての人に関係ある」ものです。それを「関係ない」とウソまでついてなんだろうと思います。これは既に国民みんなが関係する「政治」の問題になってしまっているのですから。

 

 最初に「誰もが自分中心に世界が回っているで良い」し、実際に人は「自分中心に世界を把握している」ものだと思うと書きました。私が非常に違和感を感じるのは、こと国に関係することになると、特定の政治家の考えで国民が戦争を起こされたり戦争に巻き込まれたりして、その結果、戦場で殺される人、住んでいるところが戦場になって殺される人、いるわけです、それも1人なんて言わず何万、何十万人、何百万人、何千万人と言う単位で死んでしまう。死んだ方たちの家族の悲しみは無視。で、政治家は「戦争に勝てば」称えられる。人がどれくらい大量に死んでいても。

 国民各々の人には各々の人生があったし、その各々の人には自分が把握する世界の中心であったし、自分の家族に死なれたら悲しいとか自分の世界があるわけです。その人たちが死んでも「国葬」なんてならない。当たり前だ、と思うかもしれないけれども、その生きている人にとっては自分の把握している自分の周囲こそが「世界」ですから、自分が死ねば世界が消滅するのです。

 で、一方、自分に全く関係ない、極論すると庶民が税金を「恵んでやってる」立場の人がどこかの誰かに殺されれば「国民みんなで悲しみ悼みましょう」、そのために巨額な金が税金からまた支出されますが、それは首相から「『こんな人たち』に負けてはいけない」と言われないために必要な会費です。おかしな会費です。なにしろ政党は国民の支持を得て、その政党の一番偉い人が取り急ぎ決めたことなのですから、賛成するのは当たり前です、と言われているようなものですから。

 

 兵士一人の死、国民一人の死は各々にとっては世界が消滅したのと同じだけれども

元首相と言うだけで国民は強制的に金を徴収されて、、、というか勝手にポケットに手を突っ込まれて金を盗まれて「死を悼みましょう」は嫌いです。

 

 しかも今のところあのウクライナ戦争を起こしたロシアのプーチン氏が国葬に来たいという意思を表していても、政府は拒否だそうで。対立関係をこれ以上煽って日本はロシアと戦争でも起こしたいのかと心配になります。むしろ直接の会談のチャンスなのに現首相が外交に自信がないから拒否なのかどうなのか知りませんが、まあ危ない。

 しかも日本の警備がザルってバレちゃってるわけで、「急いで体制建て直します、そのためにお時間頂戴、予算も大幅に頂戴、全国から警察官を集めるから」ってさらに巨額の金を使い、何もなければ「岸田首相の評価が上がる」と目論んでいて、何かあれば外交問題、悪くすると新たな戦争に発展、みたいな危機になるのだから、まあ危ない。

 

 だから国葬なんてやめとけ、とも思うのです。