【福澤諭吉をめぐる人々】 フランシス・ウェーランド | ねぇ、マロン!

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【福澤諭吉をめぐる人々】フランシス・ウェーランド

三田評論ONLINEより

慶應義塾図書館蔵(ブラウン大学寄贈)

  • 佐々木 貴久(ささき たかひさ)

    慶應義塾高等学校教諭

ウェーランドから浮かび上がる塾生たち

フランシス・ウェーランド(Francis Wayland)は、日本においてあまり語られてこなかったかもしれないが、慶應義塾においては福澤諭吉の時代から今日に至るまで大きな影響を与えてきた。面白いことに、ウェーランドを媒介として、福澤の思想や周囲の人物が次々と浮かび上がってくる。ウェーランドの二大著作と言えば、The Elements of Moral Science(『道徳科学綱要』、初版1835年、以下Moral Science)とThe Elements of Political Economy(『経済学綱要』、初版1837年、以下Political Economy)である。福澤はこの二つの著作には大いに関心を示し、「眠食を忘れ候程面白きもの」と述べている。のちに、Moral Scienceは門下の塾生であった阿部泰蔵(「福澤諭吉をめぐる人々」2023年6月号)により『修身論』(1874年)として翻訳されたし、Political Economyは後の塾長となる小幡篤次郎により『英氏経済論』(1871〜77年)として翻訳された。とりわけ、阿部の『修身論』は、日本各地の小学校へ教科書として普及していった。こうしてウェーランドの思想は本塾関係者らの手によって、全国へ伝わる素地ができていたのである。

現代の慶應義塾生たちにとって、もっともなじみが深いのはPolitical Economyかもしれない。Political Economyは、福澤の2回目の渡米(1867年)で手に入れ、日本に持ち帰った経済書である。『福翁自伝』で福澤自身が語っているように、1868年5月15日土曜日、上野の戦争中、立ちのぼる煙には目もくれず、福澤は塾生とともにアメリカから持ち帰ったばかりのPolitical Economyの講義を続けたという話がある。当時の慶應義塾の日課では火・木・土曜日の朝10時から「エーランド氏 経済書講義」となっており、担当は福澤自身だった。この話は安田靫彦による掛け軸に巧みに描写されているとともに、危機の時代にあっても学びを止めなかったというエピソードとして、塾内では21世紀においても、東日本大震災、コロナ禍などで脈々と語り継がれてきた。本塾では、この5月15日を「ウェーランド経済書講述記念日」として定め、1956年以降、毎年5月には「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」が開催されている。会場となる三田演説館にはウェーランドの肖像が掲げられる。

医師、聖職者、教育者

ウェーランドは1796年に敬虔なバプティストの夫妻の間に生まれた。ウェーランド誕生以前の20年間は、独立宣言、合衆国憲法の起草、ジョージ・ワシントン初代大統領の就任というように、まさにアメリカの輪郭が徐々に描かれようとする時代にあった。

ウェーランドが何者であったかを一言でいうのは難しい。医師、聖職者、思想家、教育者、学者、学長など様々な言い方ができるだろう。彼はユニオン・カレッジを卒業後、医師免許を取得した。医師という選択は家庭内の経済的困窮も一因であり、本来は聖職者を目指したかったのであった。1816年にアンドーヴァー神学校へ進むことになり、聖職者への道を歩み始めた。しかし、経済状況が厳しくなり学業の継続が危ぶまれたところに、母校ユニオン・カレッジより1817年からの講師のポストが提供され、古典語・化学・数学・修辞学など様々な科目を担当した。1821年には念願であった牧師にも就任することができた。

1826年9月よりユニオン・カレッジの教授に就任した矢先、ウェーランドは、ロードアイランド州プロビデンスにあるブラウン大学(今日のアイヴィーリーグの1つ)の第4代学長に30歳ほどの若さで選出された。その後1827年から1855年に至るまで、四半世紀以上にわたり学長職を務めることになる。当時の学長担当科目である道徳哲学のほかに、精神哲学、修辞学、文芸批判、生理学、経済学までも担当した。なかでも道徳哲学のための教科書として、自作の教科書をわずか半年で執筆したとされる。それがちょうど福澤の生年にあたる1835年に出版されたMoral Scienceなのである。福澤は当初Political Economyの講義を担当していたのだが、その講義を1年ほどで小幡篤次郎に譲り、自身はMoral Science の講義を担当するようになった。『福澤全集緒言』によれば、Moral Scienceは米国から持ち帰ったものではなく、1868年、小幡篤次郎が散歩中に書物屋で見つけてきた古本で、これに関心を示した福澤は横浜の洋書店丸屋(後の丸善)に60部注文し、塾生たちが読めるようにしたという。

伊藤正雄による研究で分析されているように、福澤の『学問のすゝめ』(『すゝめ』)は、Moral Science から強い影響を受けている。1874年に出版された『すゝめ』第八編の冒頭と、Moral Science第2巻Practical Ethics(実践倫理)のOf the Nature of Personal Liberty(個人の自由について)というセクションの冒頭を並べてみてみよう。

亜米利加の「エイランド」なる人の著したる「モラルサイヤンス」と云う書に、人の身心の自由を論じたることあり。その論の大意に云く、人の一身は他人と相離れて一人前の全体を成し、自からその身を取扱い、自からその心を用い、自から一人を支配して、務むべき仕事を務る筈のものなり。(『すゝめ』第八編)

Every human being is, by his constitution, a separate and distinct and complete system, …[一人一人の人間は生まれつき、独立した別個の完全な存在であって…](Moral Science

福澤は第八編の内容がMoral Science を典拠としていることを冒頭で明示している。福澤はMoral Scienceを入手してからわずか5~6年ほどで、自身の著書にウェーランドの考えを取り入れているのである。

ウェーランドの大学改革

福澤が慶應義塾の創設者であったように、ウェーランドはブラウン大学を長年にわたり試行錯誤を繰り返しながら運営してきた学長であった。ウェーランドは第4代学長であるが、その貢献度からしばしばブラウン大学の「創設者」と呼ばれることさえある。福澤の時代の慶應義塾も、ウェーランド時代のブラウン大学も学生数は現代と比べれば格段に少なかった。ブラウン大学もまた大学というよりは私塾のような雰囲気に近かったようだ。19世紀の時代において、福澤とウェーランドの両者に共通の課題だったのは、学生数の減少や財政逼迫をはじめとする経営危機に対応しなければならなかったということであった。

ウェーランドは学生数の減少を受けて大学改革に乗り出した。教育水準を上げ、図書館を設立したほか、カリキュラム改革も行った。具体的には、従来の必修制のカリキュラムを改め、これまで大学教育の恩恵を受けることがなかった幅広い階層の人々のニーズを見極めた新科目を追加するとともに、学生はそれらの科目から自らが将来的に成功するために必要と思われる科目を「選択」し、それらを徹底的に学んでもらうという方針に切り替えた。選択制を目玉とする「新制度」は1850年秋から始まることとなった。残念ながら、この制度はわずか数年で終わってしまい、1855年には学長辞職へと追い込まれていくことになる。ウェーランドの試みは失敗に終わったとみられるかもしれないが、南北戦争以後のアメリカ国内の大学においてウェーランドの改革案にヒントを得ながらカリキュラム改革が実行されていくことを見ると、大学教育の先駆的な存在ともいえる。

福澤もまた、入塾生数減少に伴う経営危機に直面し、教員数を減らすか、給与を減らすかなど、議論を重ね、一時は廃塾を決意するまで悪化した。しかし、塾関係者の協力もあり、1880年、慶應義塾維持法案に基づく募金を開始した。状況は違ったとしても、経営危機を乗り越えるために教育機関の改革に奔走したリーダーという側面において、ウェーランドと福澤が見事にシンクロして見えてくる。

晩年──ウェーランドとリンカーン

ウェーランドの学長時代後半は、南北戦争に向かう時代でもあった。ウェーランドは早期から奴隷制度反対論者だった。特に、奴隷制が拡大しかねない1845年のテキサス併合や1854年のカンザス・ネブラスカ法を真っ向から批判していた。実際、ウェーランドは1844年の大統領選では、テキサス併合に反対するヘンリー・クレイ候補(落選)に投票しているし、1860年の大統領選ではエイブラハム・リンカーンの当選を大いに喜んだ。

ウェーランドの晩年は、南北戦争およびリンカーン大統領の時代と重なる。彼はアメリカ内戦のさなか、Moral Scienceの改訂を続け、奴隷制廃止の主張を強めた四訂版を自身の没年の1865年に出版する。この四訂版こそが日本で最も普及することになる版である。偶然にも、ウェーランドが南北戦争中に黙々と執筆していた姿は、福澤が戊辰戦争という日本最大ともいえる内戦のさなか、ウェーランドのPolitical Economyの講述を続けた姿に重なって見える。

1865年4月15日、リンカーン大統領が首都ワシントンのフォード劇場内で観劇中に暗殺された。ウェーランドの支持していたリンカーンが暗殺されたという報が流れた後、市民はウェーランドに追悼演説をお願いしたのであった。ウェーランドの自宅の庭で行われた演説には雨天にもかかわらず1500人もの聴衆が押し寄せたという。かねてより体調がすぐれなかったウェーランドはリンカーンの後を追うように同年9月30日に69年の生涯を閉じた。

Political Economyを上野戦争中に講じた逸話は今日まで語り継がれ、Moral Scienceは、塾内で福澤により講じられるのみならず、『すゝめ』をはじめとした福澤の思想に大きな影響を与えている。福澤がアメリカに渡った時は、既にウェーランドは晩年もしくは死後であったことから、ウェーランドに福澤が直接会った可能性は限りなく低い。しかし、ウェーランドの著作なくして、福澤の思想も慶應義塾の基盤も形作られることはあり得なかったと言っても過言ではないだろう。

 

〈参考文献〉
*伊藤正雄「福沢のモラルとウェーランドの『修身論』」『福澤諭吉論考』吉川弘文館、1969
*藤原昭夫『フランシス・ウェーランドの社会経済思想』日本経済評論社、1993
*ミヤンマルティン、アルベルト『『修身論』の「天」:阿部泰蔵の翻訳に隠された真相』慶應義塾大学教養研究センター、2019
* Francis Wayland and H.L. Wayland. A Memoir of the Life and Labors of Francis Wayland, D.D., LL.D. Volume II. 1867. Arno Press, 1972.

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。