【演説館】 エマ・大辻・ピックルス:アカペラを生きる──オストメイトとしての私 | ねぇ、マロン!

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おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【演説館】エマ・大辻・ピックルス:アカペラを生きる──オストメイトとしての私

三田評論ONLINEより

  • エマ・大辻(おおつじ)・ピックルス

    オストメイトモデル、医師・塾員

オストメイトとは何か

皆さんは“オストメイト”という言葉をご存じだろうか? オストメイト(Ostomate)とは、「病気や事故などにより消化管や尿管が損なわれたため、腹部などに排泄のための開口部(ストーマ=人工肛門・人工膀胱)を造設した人」を言う。オストメイトの数は約22万人とされ、「一時ストーマ」と呼ばれる人も含めると、現在約45万人と言われる。しかし、この数に比してオストメイトの現状はほとんど知られていない。

度重なる謎の症状との闘い

私は1997年に法医学が学べる慶應の法学部に入学したが、大学受験に没頭していた時期からある症状に苦しんでいた。朝は60センチだったウエストが昼食後には80センチを超えた。お腹に充満するガスのせいだった。大学在学中は、将来医療と法律にまたがる仕事に就きたいと考えていた私は、慶應を卒業後、医師免許を取得するために鹿児島大学医学部に編入学した。法医学者を目指し勉学に励む日々の中で、「その日」は突然訪れた。

医学部4年生の時、徹夜明けに大学で大変な腹痛に襲われた。危機感を感じ、大学病院で検査を受けると主治医はレントゲンを見て「緊急入院!」と叫んだ。急性胃拡張+大腸の麻痺性イレウスだった。検査入院でも異常は見つからず、対症療法に留まった。

国家試験を経て、30歳で念願の医師となり東京に戻ったが、この間も病状は進んだ。毎朝二日酔いのように身体がだるい。研修医2年目に入ったある日、水も飲めなくなり、都内で再び検査入院をしたが、病名は明らかにならなかった。33歳で子どもを授かったものの、帝王切開後もイレウスを起こし、医師からは「先天性疾患が基礎にあるはず。専門医を探すべき」と言われたが、ワンオペ育児で健康管理はおざなりになった。その後も麻痺性のイレウスで入退院を繰り返した。しかし確定診断には至らなかった。

転機となったのは2015年。当時は固形物が食べられず、ペットボトル1本でお腹が苦しかった。訪問診療を行っているクリニックを見つけ、自宅で毎日点滴で高カロリー輸液を落として命をつないでいた。

ある朝、点滴の入っている部分が腫れ、強い痛みがあった。息子を幼稚園に送り帰宅した直後に倒れ、全身の震えで動けなくなった。偶然にもヘルパーが自宅にいたことで、私は救急車で搬送された。この時の体温は39.8℃。嘔吐が止まらず極度の脱水、血圧は測定不能だった。心拍数、呼吸数、白血球とも、敗血症(SIRS)の診断基準を満たしていた。入院2日目で意識レベルはみるみる下がっていった。この時の血圧は“ショック”状態だったと言ってよい。死と隣り合わせの状態を見て母は親の勘が働いたのか、入院3日目で転院させてくれた。

確定診断と人工肛門造設

その数年後、38歳の時に初期臨床研修先だったがん研有明病院にかかった。体重は45キロまで落ちていた。精密検査の結果、塾員の大先輩で当時同院の胃外科部長として胃癌の執刀数日本一の比企直樹先生(現北里大学病院上部消化管外科主任教授)から「カヘキシア(悪液質)に準ずる状態。絶対におかしい」と診断された。巨大な胃が骨盤腔内に落ち込み、まったく動いていないという。これまであらゆる検査で「異常なし」とされ続けた症状が、最も簡便な透視(バリウム検査に準ずる検査)で判明した。そして、比企先生の英断で私は胃の8割を切除することになった。

緻密な問診等の結果、日本では約1000人の成人患者がいる「慢性特発性偽性腸閉塞症」(CIPO)と診断された。私はCIPOの「胃型」とされ、海外ではgastroparesisという診断名でガイドラインも存在する。ヒスパニック系に多く、私にもヒスパニック系の血が入っていたことが診断に寄与した。胃の切除後にも詳細な病理検査を受け、カハール細胞(胃を動かす神経細胞)の8割以上が消失していると判明した。

こうして確定診断に至り、胃切除で症状の半分は軽減されたが、下腹部の膨満感の苦しさは続いた。大腸も機能していなかった。比企先生はそれでも“口から食べられるようにしてあげたい”と、北里病院の先生方とともに様々な方法を考案してくださり、2019年に最初の人工肛門(ストーマ)を造設した。ストーマはラテン語の「口」が語源である。機械的な印象を受けるが、原理は単純だ。

①癌などの病変がある場合、その病変部から肛門までの腸を切除する
②切除したら残った元気な腸の、口側の断端をお腹から出して、お腹に排泄口“肛門”を造る

ストーマには肛門括約筋がないため、「パウチ」と呼ばれる袋状の装具をストーマに貼り付け、排泄物を受けとめる。この下腹の“ウンチ袋”と付き合う私の新たな人生が始まった。

医師の病状説明が引き起こすもの

パウチには24時間、意図しないタイミングで便が流れ込む。そのたびにお腹に生温い感覚が走る。そして慌ててトイレに駆け込むのだ。まるで“新しい生き物”がお腹にくっついているような不快感がある。病室にはストーマの管理やオストメイトの心持ちに関するパンフレットが大量に並んでいたが、その擬似的な説明に違和感があった。それをWOCナース(皮膚・排泄ケア認定看護師)に伝えると意外な答えが返ってきた。彼女によると、ストーマを受け入れられずに自死を選ぶ患者がいるというのだ。生きるためにストーマを造ってもらったのに、自ら命を断つことが理解できなかった。

そして、それは医師の病状説明によるところが大きいという。ストーマを造る前段階で、多くが「最悪の場合、ストーマになる」と表現される。それが決定的なダメージを患者に与えるのだ。ストーマを造設する患者の8割以上が60歳以上で、ほとんどが大腸がんに起因する。ストーマは一時的なものになるよう善処されるが、永久ストーマになる可能性がある。こうした事態を患者が受けとめられないのも当然である。

このことに思い至り、私は心に決めた。ストーマを造るのは最悪なことではない。ストーマは生きた勲章だ。そのことを一患者の立場から発信することで、オストメイトの認識の根底を変えていく活動をしていこうと。

海外のオストメイトのマインド

WOCナースに教えてもらったもう1つの貴重な情報は、海外の“オストメイトモデル”の存在である。SNSではオストメイト用の下着や水着、デニムを着こなす若いオストメイトたちが見られる。一般の人もパウチを出した水着姿やジムで体を鍛える様子をSNSに上げている。私はこの“前向きなマインド”を輸入したいと考えた。

そこでまず自分自身もパウチを出した姿で写真を撮影してもらうことにしたが、一番のハードルとなったのは、日本のパウチは透明が主流であることだった。これでは腸や内容物が見えてしまう。グレーや白、黒といった様々な色の完全不透明なパウチが主流となっている海外とは対照的だ。

日本に流通するパウチはメーカー6社、1800品種に及ぶが、ほとんどが透明だ。ここにはオストメイトの8割が60代以上で、高齢者や介助者にとって透明の方が貼付しやすいという医学的な背景がある。他方で、多くのオストメイトがパウチの存在を隠すのは、透明だからではないかとも考えた。私がオストメイトの啓蒙活動を始めるのに不透明なパウチは不可欠だった。撮影に際し、WOCナースの全面的な協力の下、日本で唯一不透明なパウチを展開するデンマークのコロプラスト社のグレーのパウチとめぐり合えた。

左が透明、右が完全不透明なパウチ

テレビ出演へのチャレンジ

こうした中、NHKからオストメイトの存在を伝える番組の企画に恵まれた。実現してくれたのは慶應での田村次朗先生のゼミの後輩で、ディレクターの宮崎玲奈氏だ。

オストメイトが最初に悩む問題は、体形やストーマの位置等によって微妙に異なる装具を見つけることである。パウチと皮膚との間に隙間があると、“便漏れ”が生じる。私も術後半年ほどは外出が怖く家にこもり、万が一の事態に備え、下着はパウチが覆える男性用の黒いものに換えた。パウチ内の便の臭いも外出先で不安になり、トイレに駆け込むこととなる。ストーマに筋肉がないことで予期せずガスが排出され音が出るのも大きな悩みの1つだ。お芝居を鑑賞中に音が止まらなくなり、劇場から駆け出るはめになったこともあった。生活は羞恥心との闘いである。最も辛いのが、自分の便と対峙する時間だ。透明なパウチでは、常に排泄物が目に見える状態となる。食べたものがそのまま出てくるストレスは、自尊心が少しずつ紙やすりで削られるような感覚だった。番組ではこうした実状を明らかにした。

取材を受けていた2020年、東京パラリンピックを前にスポーツメーカーとともに啓蒙活動ができないかと考えた。オストメイトは障害者4級以上に認定される(私は原疾患との併合で3級)。そこで、ストーマ造設前から無償で協力してくれていた小林正嗣カメラマンに頼み、私は生まれて初めてビキニ姿でカメラの前に立った。宮崎氏は取材の間、「これは大きな風穴を開けられるかもしれない」と言い続けてくれた。取材は半年に及び、複数の番組で枠を拡大しながら放送された。

最大のサプライズは、コロプラスト社から「アンバサダーになって欲しい」と打診されたことだった。「海外のオストメイトのマインドを輸入したい」と始めたチャレンジは、41歳の私自身が日本初のオストメイトモデルになるという思わぬかたちで成就した。

筆者自身が日本初のオストメイトモデルに

ありのまま=アカペラで生きる

私は昨年8月に大腸を全摘し、小腸ストーマを再造設した。昨今、多様性=ダイバーシティが声高に叫ばれる。私自身がハーフであることや、医療者であることが基礎にあるせいか、多様性の概念は幼い頃から構築されていたように思う。それが、ストーマを造設する治療・・を受けた日から、私は障害者・・・と呼ばれる集団にカテゴライズされることになった。中でも目に見えない障害者・・・・・・・・・という難しい部類に入る。

しかし、健常者と呼ばれる人も皆、何かしら障害に近い生きづらさを抱えているのではないだろうか。区別と区別の間の架け橋になることを今日までの活動の理念にしてきた。そのためにはこれからも、飾ることのない自分の存在を生の声(アカペラ)で世に届けたい。

私にとってオストメイトモデルとは、アカペラで生きるロールモデル・・・・・・・・・・・・・・という、多様性における新しい生き方の1つである。これを提唱し、振り返った時、たくさんのオストメイトモデルたちがいる日が来ることを願っている。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。