【福澤諭吉をめぐる人々】 白石照山 | ねぇ、マロン!

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【福澤諭吉をめぐる人々】白石照山

三田評論ONLINEより

『照山白石先生遺稿』より

  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    中津市歴史博物館学芸員・塾員

福澤諭吉に影響を与えた人物の1人に、中津藩の儒学者・白石照山(しょうざん)がいる。『福翁自伝』には晩学であった福澤が14、15歳で漢学を学び始めるエピソードが登場するが、福澤が本格的に学問を学び始める第一歩を踏んだのは照山の私塾・晩香堂であった。晩香堂では亀井学派に傾倒した照山の教えを学び、こうした経験が福澤の思想形成に影響を与えたことが指摘されている。また、下士の生まれながらにして江戸遊学が叶い儒者として成功した照山が、身分の低さによって不当な扱いを受けて藩から追放されたことは、青年期の福澤にとって父・百助と同様に封建社会の不合理さを痛感する出来事であっただろう。

下士の生まれながら学才を見込まれる

文化12(1815)年8月、照山は中津藩士・久保田武右衛門のもとに生まれた。初名は牧太郎、通称は五郎右衛門といい、後に常人(つねと)と名乗るようになった。最も知られる照山は雅号である。実父は号を勇閑とし、下士ではあったが祐筆を務めた学識高い人物だった。照山は長子であったが、後に中津藩士・白石団右衛門の養子となり、家督を相続した。家格は小役人、石高は4石2人扶持と非常に低く、供小姓で13石2人扶持の福澤家よりも下位にあった。福澤は『旧藩情』において、「下等士族は(中略)、中以上のところにて正味七、八石乃至ないし十餘石に上ず」と記しており、平均より低い白石家が困窮した生活を送っていたことは明らかである。そのような環境ではあったが、照山は幼いころから中津藩儒者で藩校・進脩館教授の野本白巌(はくがん)のもとで学び、その才を見込まれて、進脩館で督学に選出されたという。当時、中津藩内の身分格差は拡大する一方であり、開校当初は上士下士問わず入学可能であった進脩館も、時代が下るにつれて上士子弟でなければ入学ができない風潮へ変化していた。照山は藩校・進脩館で学んだという説があるが、どのような経緯で下士の身分で入学できたのかは判然としない。

野本の家塾は身分に関係なく学ぶことができ、島津祐太郎や小幡篤蔵(小幡篤次郎の父)、後には福澤の兄・三之助が野本のもとで学んだ。照山も最初は家塾で学び、その優秀さから藩校に推薦されたと考えるのが自然であろう。『照山白石先生遺稿』「白石家略譜」では「夙成(しゅくせい)の誉あり弱冠にして藩校の督学に任ぜられし」と記されている。照山は若年で栄誉ある職に就いたが慢心せず、自身が浅学であることを恥じ、より深く学問を追究したいと願う、篤学かつ早成な若者であった。

江戸遊学、昌平黌へ

天保9(1838)年6月、照山は督学の職を辞して、江戸に遊学する。最初に師事したのは幕府の儒者・古賀侗庵(どうあん)で、翌年には昌平黌へ入学している。本来昌平黌(昌平坂学問所)への入学は幕臣に限られるが、御儒者の許可があれば他藩からの入学も可能であった。こうした他藩からの入学者は通いか寄宿寮に入って勉強したが、寮費は幕府から出されるため、寮定員は30名(後48名)と狭き門であった。照山は数年ののち斎長詩文掛に選抜されている。詩文掛は寄宿寮より2名選出される役職で、斎長は生徒頭ともいい、書生を牽引する役職で非常に栄誉あることであった。また照山は江戸滞在中、野田笛浦(てきほ)ら名家に通い、朱子学を学んで学識を深めた。一方で、照山に一番影響を与えたのは亀井学派であった。『福翁自伝』では、照山について「一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で」と述べ、照山の学問的特徴として亀井学への傾倒と、広瀬淡窓(たんそう)や頼山陽(らいさんよう)への軽蔑をあげている。直接亀井塾へ入塾したことはなかったが、亀井昭陽らの著作を読んで感銘を受けた照山は、以後は朱子学ではなく亀井学を教授するようになった。

帰藩後、家塾をひらく 

天保14(1843)年、修学の後、中津へ戻った照山は中津城下北門通りに家塾・晩香堂をひらいた。晩香堂は漢学塾のなかでも塾生が多い評判の塾であった。一方で身分の低さからか中津藩からの覚えはあまりよくなく、藩務の傍らでの家塾経営であった。進脩館教授である野本家(野本雪巌(せつがん)・白巌親子)や山川家(山川東林・玉樵(ぎょくしょう))、手島家(手島物斎・塩巌(えんがん)兄弟、弟・塩巌はのちに福澤の母・順の妹である志従のもとへ婿入りした)は儒者として10人から7人扶持加増の評価を受けたが、照山は3人扶持で御儒者としては低く評価された。

福澤は嘉永の初め頃(1848年頃)より晩香堂に通い、4~5年ほど照山から学んだが、覚えは早かったようだ。晩香堂での生活について、『福翁自伝』では次のように記している。

白石の塾に居て漢書は如何なるものを読んだかと申すと、経書を専(もっぱ)らにして論語、孟子は勿論、すべて経義(けいぎ)の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰って善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き…

晩香堂では漢書の素読・講義・会読をよく行い、福澤曰く照山は「やかましい先生」であったが、こうして得た深い漢学の素養が福澤の下地となった。福澤はのちに漢学を攻撃する際に、自分は漢籍など知らないふりをしながら実際はよく読んでいて漢学の急所のようなところを抑えることができるが、これは「豊前の大儒白石先生」の指導によるものだと振り返っている。

御固番事件により追放

福澤は照山のもとで順調に学んでいたが、ある事件をきっかけに中断を余儀なくされる。上士下士間の紛争、御固番(おかためばん)事件である。固番とは中津城門の警衛役で、固番の下には開閉番という足軽級が担う職があり、実際の城門の開閉は開閉番が行っていた。しかし嘉永6(1853)年、経費削減のため、城門の開閉など本来は足軽級の仕事も下士が行うよう命令が下り、これを不服とする下士数十名が命令取り消しを求めて藩上層部へ申立てを行った。

福澤は『旧藩情』でこの事件について、経費・職務量の整理だけではなく、上士の企みとして、「上士と下士との分界をなお明にして下士の首を押えんとの考」があったと指摘している。そして「その実はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛にするにもあらず、ただ一事無益の好事を企てたるのみ」と言い、対立の無益さを非難した。福澤にとってみれば、ようやく進み始めた学問の道が突然恩師の追放という形で閉ざされたわけで、門閥制度による非合理的な出来事として記憶されたのであろう。

照山は城門警衛を拒み、騒擾の中心人物として数十日にわたり抗議活動を続け、命令を取り消すことに成功した。しかし騒動の責を負って、中津藩から追放されることとなった。藩から出る際、照山は「道なき道はあらず」と大声で言い放って自宅の柱を切り付け、悠然と出て行ったという。

臼杵にて儒者として重用される

安政元(1854)年、中津を出た照山は豊後国臼杵藩へ向かった。しばらくは城下新町の長屋に仮住まいしていたが、後に臼杵藩主・稲葉氏の菩提寺である月桂寺住職・徹伝の紹介により臼杵藩に学頭として迎えられ、藩校・学古館の教授となった。臼杵藩には数名の学頭がいたがどれも朱子学の立場であったため、照山は別棟で亀井学の教授を行い、また教授の職だけでなく藩政改革にも参画した。この改革は「天保の改革」と呼ばれ、藩機構を再編成して、家格を問わず有能な人材を登用することで、宿弊を一新するものであった。照山は側用人として14代藩主・観通(あきみち)を支え、江戸にも同行するなど非常に重用された。この頃、照山待望の長男が生まれるなど、臼杵での生活は充実していた(久多羅木儀一郎「臼杵藩学史」)。

なお、三菱の大番頭として知られる荘田平五郎は臼杵藩出身で、13歳頃に学古館で照山の講義を受けたといい、多くの優秀な人材を育て上げた(宿利重一『荘田平五郎』)。しかし文久2(1862)年に観通が早世すると、破格の待遇を受けていた照山への反発もあって、翌年に臼杵を出る憂き目にあった。その後数年は豊前四日市の郷校で教授を務め、後に衆議院議員や官吏となる弟子を多く輩出した。明治2(1869)年に中津への帰藩が許可されると、帰郷後は儒官・教授となって、家格は上士格に、家禄も7人扶持へと昇格した。漢学教授として進脩館改革につとめ、学制以後は進脩館の後継である片端中学校でも勤務したが間もなく辞し、以後は晩香堂での教育に専念した。晩年まで積極的に著作を執筆したが、明治16(1883)年、胃癌のため69歳で逝去した。

福澤との交流

福澤と照山の縁は深く、特に著名なエピソードとして『福翁自伝』「四十両の借金家財を売る」がある。兄・三之助の死後、福澤は様々な出費によってできた40両もの多額の借金を整理する必要があった。一切合切、家のものすべてを売り払って借金返済に充てることとし、その中でも頼みの綱は百助の豊富な蔵書であった。優れた学者であった百助は、貧しいながらに貴重な唐本(とうほん)を買い集めており、高く売ることができると考えたのである。しかし中津では高価な書籍を買ってもらえる当てがなく、困った福澤は当時臼杵藩の儒者となっていた照山を頼った。照山は臼杵藩に働きかけて15両で蔵書の大半を購入し、福澤の窮地を救った。この福澤家蔵書は現存しており、臼杵市が所蔵している。

その後も2人は親交を重ね、交流は終生続いた。明治11(1878)年に福澤が『通俗国権論』を出版した際には照山に1冊贈り、照山は翌年「国権論跋」を著して完成を祝った。また国権論拝受のお礼状には、長男貞吉の進学についても相談し、これからは漢学のみではなく広く学ぶ必要があるとして慶應義塾への入学も視野に入れていたようである。一方で、福澤が照山に洋学を勧めた際には、照山は次の漢詩を読んで、その答えとした。

新学邯鄲歩未成 又忘故歩二難幷
不投時好非違世 欲免終身匍匐行

これは荘子の秋水篇「邯鄲(かんたん)の歩み」という故事になぞらえたものである。むやみに他人の真似をすると自分本来のものも忘れて両方とも失ってしまうという故事で、照山は新たに洋学に取り組めば漢学がおろそかになり中途半端となってしまうので、私は専ら儒学に精進するのが良いと詠った。福澤はこの返事を見て「勝手な事を云ふものかな」と言って大笑いしたという。若き日に学んだ荘子にちなんだ恩師の詩を見て、福澤も郷愁を感じたのではないだろうか。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。