【三人閑談】 福澤諭吉の「書」 | ねぇ、マロン!

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おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【三人閑談】福澤諭吉の「書」

三田評論ONLINEより

  • 名児耶 明(なごや あきら)

    一般財団法人筆の里振興事業団理事/筆の里工房副館長。
    1972年東京教育大学教育学部芸術学科書専攻卒業。公益財団法人五島美術館理事・副館長を経る。書道史、書文化研究の第一人者として知られる。

  • 鈴木 隆敏(すずき たかとし)

    一般社団法人福澤諭吉協会監事。
    1962年慶應義塾大学文学部卒業。同年産経新聞社入社。彫刻の森美術館館長などを歴任。元慶應義塾大学大学院文学研究科アートマネジメント分野講師。『福澤手帖』(福澤諭吉協会)にて福澤諭吉の書について連載執筆。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    慶應義塾福澤研究センター教授。
    1986年慶應義塾大学大学院文学研究科修了。中津の士族社会や福澤諭吉の家族観・女性観を主な研究対象としている。『福澤諭吉書簡集』(全9巻)編集委員。

「あれは字ではない」?

鈴木 福澤諭吉の書作は全部で200種類ぐらい残っている。何回も同じものを揮毫して人に渡したりするので、作品の点数にすれば1000点近いのかもしれません。

作品集はこれまで2つあり、1つが慶應義塾の図書館が、昭和7年に福澤先生の伝記の完成を記念して作った『傳記完成記念福澤先生遺墨集』です。その後、時事新報が昭和29年、産経新聞と合同する直前に、『福澤諭吉の遺風』という遺墨集を作りました。

その『遺風』の冒頭に3人の慶應義塾の塾長、塾長代理の人たちが序文を書いています。まず、高橋誠一郎はこんなことを書いています。

少年の頃、先生が揮毫する際、墨をするお手伝いをして、そのお礼に「独立自尊」とか「戯去戯来自有真」と書かれたものを頂戴して帰った。先生は若い頃は、書を書くのは、頭を殴られるよりも嫌だった、と言っていた。でも、老境に入ってからの揮毫は相当の楽しみであったようにも見えたと。そして、高橋誠一郎が普通部で習字を教えてもらった原田鼎洲という老書家に、ある学生が、「福澤先生の書はどうですか」と聞くと、「あれは字ではない」と答えた。しかし、私は、先生の書を見ているといつも、上手い、まずいを超越して何とも言えないいい心持ちになる。先生の遺墨は人格がおのずと文字の上に現れて高徳の気迫がそぞろに感じられる。好んで三十一谷人、すなわち「世俗」の落款印を押した先生の書には、俗を超えた超俗の姿がある──と。

名児耶 なるほど。

鈴木 小泉信三は、福澤先生を後世に伝えるものは、その文章、散文であって、詩歌や書は得意な技ではない。にもかかわらず、先生の墨蹟は人を表し、書家の批評はどうであろうとも、これは福澤諭吉以外の誰にも作られぬ独特のものだと思う、と言っています。

もう1人福澤の孫で塾長も務めた潮田江次は、祖父の書を上手いと思ったことがないと言う。祖母(福澤諭吉の妻錦)をはじめ一族誰の口からも、「おぢい様の字は上手い」などという言葉は聞いたことがない。それにもかかわらず小さい時分から福澤諭吉の書が好きだった。眺めていると何かおおらかな温かい楽しいものが流れてくる。福澤諭吉の人と一生をよく知るにしたがって、その書はいかにその人らしい形と力と勢いと姿を見せているようで、故人に接する思いがすると述べています。

名児耶 面白いですね。

鈴木 3人がこのように言ったことが、やはり多くの人に影響を与えたと思うんです。特に高橋誠一郎が言う、普通部の老書家の先生が「あれは字ではない」と言ったという一言が、その部分だけ一人歩きしてきた。

私も長い間“三田伝説”のように「福澤の書は上手くない」と聞いてきました。それが影響したのかどうかわかりませんが、歴代の塾長の講演や挨拶で「福澤先生の書」を語ったものはないと思います。

書き文字の魅力は個性にあり

西澤 今の、3人の感想をお聞きになって名児耶さんはいかがですか。

名児耶 その通りですよね。やはり書から感じられることはすごく大きく、上手い下手の問題ではないと思いますね。

おそらく老書家の方が「字ではない」と言ったのは、書の古典的な、例えば王羲之(おうぎし)の字の良さを基準にして見ると違う、ということではないかと思うんです。でも、3人が後半に言っていることは皆その通りだと思いますよ。

鈴木 3人3様ですが、同じ趣旨のことを言っていますね。

名児耶 そうですね。人というのは皆違って、それがやはり筆を通して書くという書に一番よく出てくるのかもしれない。コンピューターで打って文章を書くのとはわけが違う。そこが書の魅力です。

書き文字の良さという観点から考えると、福澤の字は、好き嫌いもあるでしょうけど、ざっと拝見して、その人の個性が上手く出ている書だと思います。1つ1つの字を見たらもしかしたら変なものもあるかもしれませんが、全体で見るとそれは全然感じないですよ。

たとえ字並びはおかしくても、その人が出ているもののほうが魅力的ですね。そういうところが書にはある。そこは大事だと思います。その人の個性があって、いいんですよ。

西澤 私は、『福澤諭吉書簡集』の編纂をさせていただいていたので、福澤の書簡はよく見ていたのですが、同時代の他の人物の字に比べて非常に読みやすくてわかりやすい印象があります。

なので単純に「私が読めるということは達筆ではないのかな」と思いました。芸術的な美しさのある字は書かない人だったという話かなと思っていました。

名児耶 誰の字だろうが、個性が出ていて字としてまとまっていたら、それはそれでいいと思いますよ。個性が発揮されているわけですから。変に王羲之を一生懸命真似ようとして個性が出ていない字のほうがしっくりこないと思いますね。

書写教育というのは昔はもっと自由だった気がするんです。どうも最近の教育は、活字に侵されているんじゃないかと思うんですね。書いていると少し縦の線が撥ねてしまうのは当たり前のことなのに、撥ねるとバツになる。しかし、書き文字というのはもっと自由なはずなんです。

そういうことしか頭にない人が、その基準で上手い下手を言ったりすると、福澤諭吉の字は下手だったということになるのかな、と思うんです。でも、下手というのと、その字がいいかどうかはまた別問題です。

鈴木 全然別次元ですね。

「ハレ」の字、「ケ」の字

名児耶 また、書き文字の場合、必ず、「ハレ」の世界、「ケ」の世界があるんですね。

一番わかりやすいのはお経で、いまだに楷書で書くんですね。読み方も入ってきたままの音で、日本的に読まない。つまりそれは向こうの文化、文字を尊重してそのまま継承していくという世界です。だけど、日常的に使う字は楷書で書いていたら大変ですから、皆、行草体で書いています。

そのモデルになったのが王羲之の書。日本は奈良時代から多くは王羲之の書が基盤になっているわけです。これは基本的に「ケ」の世界です。ただ、ケの世界にもまたハレとケがある。手紙は、まさにケの代表ですが、目上の人に詫び状を書くときにラフな字で書かないですよね。

鈴木 それはそうですね。

名児耶 それから、かな文字も、日常的な日本語の表記ですから、漢字のお経などに対してはケの世界なわけです。和歌を書く時に、漢字を使って直線的な字で書くのでは合わないので、「かな」が生まれていく。

そして、同じかなでも今度は和歌をきれいに清書する時の古筆(こひつ)というきれいなかなが出てくる。あれもかなの中でのハレです。

それから、勅撰集でいうと、まず漢詩集があるんです。ハレの舞台の詩集です。でも、和歌でもやりたいという要望が出てきて古今和歌集ができたと思うんです。ということは、あれはケの世界だったものが晴れ舞台に出るわけですよ。

鈴木 なるほど。

名児耶 そう考えると、福澤諭吉とか普通の人は、あまり楷書を書かないんです。行草なんです。普段使っている字です。そういう普段書くケの世界の字で力を発揮して書いている人たちです。

名品として残っているもので手紙が多かったりするのは、本来ケの世界の物なんですね。王羲之だってほとんど手紙ですからね。

鈴木 空海もそうですね。

名児耶 空海も最澄もそうです。皆、手紙が名品になっているわけです。

だから、書を見る時に、何を、どういう状況で書いたのか、つまり、晴れ舞台なのかそうでないのかと大雑把に分け、その晴れ舞台の中でも、本当に正式なハレの要素があるのかを見る。そうしないと、その人の書いた日常的な字が、清書した字に比べて似ているとか似ていないというだけでは、正しい判断はできないと思います。書き方が変わるわけですから。

鈴木 ハレというのは正式というか公的なもので、ケというのは、非公式で日常的な面ということですね。

名児耶 そうです。カジュアルに書いた手紙にはやはり魅力的なものがある。だから、書を見てその人を味わおうとしたら、やはりハレよりケのほうがいいということですね。

福澤の書を見る

名児耶 「書は人なり」と言われる。あれも誤解されやすいんですが、書を見てその人の性格がわかるとかではなく、書を見ればその人の何かを感じるということで、1人1人違うから書を見たらその人に思える、ということだと思うんですよね。

鈴木 そうですね。誤解されている部分ですね。

名児耶 そういう意味では、福澤の書というのは、はっきり個性が出ていて魅力的です。書家から見ると字を大きくしたり小さくしているのが不自然だとか言う人がいるかもしれないけど、それも個性です。

「慶應義塾の目的」(慶應義塾図書館蔵)80cm× 60 ㎝

この「慶應義塾の目的」は漢字とかな交じりで、上手くまとまっていますよ。これだけ漢字とかなを一緒に書いていても自分のものになっているからいいと思いますよ。これはかっこいいですよね。

鈴木 とってもいい。きれいな並び方になっているし。

名児耶 私からすると、かなももう少し漢字に近いような形の大きさでもいいけど、漢字は大きくかなは小さくと書き分けている。

「独立自尊」(慶應義塾図書館蔵)33cm × 87cm

鈴木 一番有名なこの「独立自尊」の扁額は、中学・高校の書写・書道の教科書にも出ています。

名児耶 これもいいですよね。これぐらい書けと言われても書家の人だって普通は書けないですよ。形は上手く書けても、できたものが人を惹きつけるかどうかはまた違う。

鈴木 そこですよね。この扁額が教科書に採用されているのも、近代日本の思想家の普遍的な美しさがある書だからと思うんです。

「独立自尊迎新世紀」(慶應義塾福澤研究センター蔵) 141.7cm×50cm

名児耶 軸装書幅の「独立自尊迎新世紀」もいいと思いますよ。これはちょっと福澤諭吉にしては字間をたっぷり取ってあって。

まず何を感じるかというのは、その人の独特の、書く時の感覚というんですかね、それが筆を通して筆線に現れてくるんですよ。だから同じ「一」を書いても、100人書いたら皆違う。それが魅力的な線なのかどうかはまた人によって違う。

また、線質の中にその人の、何というか感情のような何かが出てくるんですね。これが面白いところなんです。同じように間を取って書いてある作品があっても、片方はよく見え、片方はそう見えない。

寸法を測ると同じなのかもしれないけど、書く時に一定の時間で書きますよね。それを実際に見ているわけではないのですが、「あ、これ、すごく自然だな」と感じるんです。つまり必然性を感じます。ここにこの線でこの墨の量で書かれていることが気持ちいいよね、と感じられるといい書なんです。

全部とは言いませんが、福澤作品を見ていて、私がいいなと感じるものがいくつもあります。書道史の伝統と見比べての上手い、下手はあって、書の先生が、「字ではない」と言ったというのはそちらの部分です。でも、もう1つの、「いいかどうか」というのは別で、それも一緒に見なければいけない。

手紙の良さ

鈴木 ぜひご意見をお伺いしたいと思う作品がいくつかあります。

まず、「父母生吾妻輔吾」で始まる日本郵船の社長だった吉川泰次郎に、病気見舞いに米を入れた袋とともに送った手紙です。これは「題手用之米臼」という七言絶句に「米は老生がついた白米。おもゆにして食べてください」と弟子への思いやりをこめて書いてある。走り書きして書いた、そのスピードが見えるような手紙です。

「題手用之米臼」(慶應義塾図書館蔵)40cm×59cm

慶應義塾大学書道会の講師をしている望月擁山(ようざん)さんが、顔真卿(がんしんけい)の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」、自分の息子と自分の親友が殺されたというのを知って顔真卿が家族に急いで書いた名品──と言われる手紙を思わせると言われた。同じように福澤の優しさ、温かさ、思いやりが出ているのではないかと思うのです。軸も残っていますが、手紙のほうがよりよいように思うのですが。

名児耶 同感です。ケの作品のよさがよく出ている。この場合は、手紙のほうが魅力的ですね。

鈴木 やはりそうですか。

名児耶 手紙はパーッと書いて、何か乱れてるなとか、乱暴だなとか、ついそう見ますけど、昔の人の手紙はいいですよ。自然に出るんでしょうね。自分の持っているものが。

鈴木 気持ちがね。お米を30年あまり愛用している米臼で搗いて贈った。それを食べてくださいという手紙を添えているわけですからね。

西澤 字のバランスも工夫して、断りの手紙の時には「断る」という字をちょっと大きく書いたものも残っていますね。

また『時事新報』で論説を書いていた時に、時事新報社と福澤の自宅を行き来する状箱があるのですが、それがある時なくなってしまう。「福澤先生の家に行ったきりなんじゃないですか」と聞かれて、福澤は「いや、そんなことはない。返したはずだからよく探せ」と言うのですが、しばらくしたら福澤の箪笥から出てきたんです。

その時に事務の責任者である中島精一に宛てた手紙が「平身低頭恐れ入り候」という一文から始まって、最初はしっかり謝っているんですが、結局その手紙の内容は、「自分のところから見つかって赤面の至り。でももし自分が一層の悪人であったら、箱はなかったことにして窃(ひそか)に燃やしてしまう。恥を忍んでこうやって返しているんだから、君たちは許したまえ」と(笑)。

1行目の平身低頭というところは、近世文書で民がお上にお願いするような形で書いていますが、その後は、いつもののびのびとした字体で開き直っているのがすごく面白い。

鈴木 それは面白いね。

西澤 上司にしたら嫌だなと思います(笑)。

書作を始めたきっかけ

西澤 「書を求められるぐらいだったら頭を殴られるほうがいい」と言っていたとのことですが、やはり福澤は自分が書を学問として習っていないとか、手本となる父親も早く亡くなっているので、何かコンプレックスのような思いがあったのではとも思うのです。本当に書くのが嫌な時があったようで、揮毫を求めるほうは覚えているけど、求められたほうは覚えちゃいない、「ああ面倒」と書いて渡したりしています。

鈴木 福澤は漢詩と書作をほぼ同時に始めたようですね。大学の書道会の機関誌「硯洗七六号」に書道会の会長である福澤研究センターの都倉武之准教授が書いています。明治11年に中村栗園(りつえん)という百助(ひゃくすけ)のお父さんの親友だった漢籍の達人から、「洋学ばかりで漢学を何もやらないのは親不孝」だ、などというようなことを言われて衝撃を受けたそうです。

それで自分は間違っていたと思い、素直に謝る。そして、頼まれれば書を書き、また、同時に漢詩もつくり始めたような感じがします。

西澤 たぶん、明治20年代ぐらいまではかなり忙しくて、ゆっくり揮毫をする時間を取ることができなかったんだろうとは思います。

鈴木 そうですね。明治11年は西南戦争が終わって世の中が安定し、漢詩がブームとなって知識人の間で流行した。中村栗園から言われて漢詩と書を、ほぼ同時に始めることになり、結果としてはすごくいい転換になったわけですね。お父さんの百助はとても真面目な方で、漢籍の学者であり、書も得意で立派な作品が残っています。

西澤 最近、父百助の新たに上士との交流がわかる書簡も見つかっています。福澤は『自伝』で少し自虐的に書いていますが、下士階級ではあるものの、百助は藩の経理部門でかなり力を発揮していた人物なのではないかと思います。

堂々と書く自信

鈴木 「奉弔仙千代君」という書幅があります。これは明治11年に福澤が本格的に書を始める前の作品です。これだけの書をちゃんと書けるところまで父や兄の書を見ながら練習していた。これは仙千代君(せんちよぎみ)という奥平家の先祖を悼む長文の作品ですが、謹厳実直というか整ったいい作品だと思うのですが。

「奉弔仙千代君」(『福澤諭吉の遺風』時事新報社 より)

名児耶 これは他のものに比べるとあまり崩していないですね。習作で真面目に書いているというか。流れで言うと、やはり後のほうがいいですね。でも、習い始めでこれだけ書けるのはすごい。当時の人たちは普段から字を書いていて、その基盤があるのでここまで書けるわけです。

やはり元の殿様に差し上げるため、緊張しながら何枚も練習したかもしれず、作品としてもきちんとしていますね。これは、やはりハレの字ですね。

鈴木 そう、ハレの作品ですね。

名児耶 書家の人たちだって、字間や行間、要するに間まを自分のものにして書けるようになるには相当書かないとできない。でも、最初からこれぐらい書けたわけですね。

「独立自尊」を見ても、書きぶりが、堂々として筆に自信を持っていて迷いがないです。しっかり自分のものになっていますよね。だからいいのだと思います。

鈴木 福澤の書に共通するのは、大らかで温かく優しい人柄の反映と思います。自然でてらいのない書きぶりというか、見る者を穏やかな気持ちにさせるような安心感、安定感があると思いますね。

名児耶 そうですね。当時の人たちは皆、そうだと思うんです。他の有名な政治家などの字を見ていても、皆それなりの形でまとまっていて、恥ずかしいと思って書いている人はいないと思うんです。堂々と皆書いていて、それでいいんです。

鈴木 金文京先生(京都大学名誉教授)によれば明治14年9月に中村楼で開かれた「書画会」に福澤は小幡篤次郎や中上川彦次郎らとともに自分の書を出品しているんですね。「高名大家」が居並ぶこの書画会に出品するというのは、それなりに自信があったのかもしれませんね。

名児耶 そういうこともあったのですね。

鈴木 福澤の書の特徴を考えてみると、まず1つは自分で詠んだ漢詩、自分で作った言葉や字句、それだけを書いていて徹底している。「自詠自書」です。明治の政治家、革命家の西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文たちもそうですね。明治の人たちは、漢籍を学び書を能くし、漢詩を創作するスタイルを早くから身につけていたと言えるのかもしれません。

揮毫を頼まれて渡す時には、戯れにとか、そういう若干自虐的な遠慮みたいなものを添えて渡したりしている。「三十一谷人」という「世俗」という字を分解して落款印にする遊び心がある。ユーモアというものが、漢詩や書にしても、自分を表す上で大変大事な要素と考えているように感じます。

和様と唐様

名児耶 そうですね。真面目一方でいく人もいますけど、江戸時代以来いろいろな諧謔的な芸もあります。

鈴木 狂歌、川柳も。

名児耶 そうです。また、江戸になると細井広沢とか文人を中心に唐様というのが入ってきて教養の1つのシンボルのようになって幕末を迎えます。隷書や篆書などを書いている人もいる。そういう人が江戸時代でいうと教養のある人間というイメージですね。

だから幕末の志士や明治維新を起こした人たちは、やはり唐様の流れのものが文人的で教養だという発想があって、そういう字を勉強しているのかもしれません。

鈴木 皆すごく勉強しましたものね。

名児耶 極端に言えば唐様イコール教養となり、漢字を並べて書けばもう教養のある人物に見えてしまう。でも、よく見ると中国の字が直線なのに対して日本の字は曲線が主体なんですよ。歴史的に見て曲線でできた字が美しいのです。(小野)道風などが作った漢字の「和様」は、字は同じでも、やはり曲線主体に変わってくる。

だから歴史的な背景を見ても、江戸から明治にかけても、教養として中国風を勉強するけど、実際に書いているのはケの世界とも近い。中国風の唐様を勉強しても、基本的に本当の唐様というのは江戸の初めだけであって、字を見ていると、もう和漢折衷、和唐一緒なんですよ。

鈴木 なるほど。

名児耶 気持ちは中国風の文人なんですけど、やはり日本人なんですよね。だから、幕末の三筆(巻菱湖(まきりょうこ)、貫名菘翁(ぬきなすうおう)、市河米庵(いちかわべいあん))を見ていても、純粋な中国の唐様と違う、結局、半分和様なんです。

鈴木 そうなんですね。それで、皆が俳諧をやり、川柳も狂歌も和歌をやる。みんな洒落ている。

名児耶 それは必要なことで、当時は皆そういう部分があったと思います。

鈴木 例えば、落語で吉原の噺に必ず出てくる「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸は、長州の高杉晋作の創作なんですね。それが吉原で全盛の太夫の唄になり、いろいろ下々でも歌われる。しゃれや遊び心を含め、それだけの素養を明治の元勲や活躍した政治家たちは持っていた。

名児耶 心の余裕がなく、真面目なばかりではたぶん生きていけないわけです。

幕末期の書が持つエネルギー

名児耶 日本は向こうから入ってきたものを日本化していくのが上手いと言うけれど、この気候・風土の中で「かな」を生んだように、やはり日本人特有のものがあって、それというのは消せないと思います。

幕末から明治の人たちを見ていても、中国的なものと日本的なものとミックスされている不思議さを感じます。そういうところが書に残されてわかりやすく出てきている。書とはそういうもので、その時代を反映している。そこが面白いです。

今、日本の書の世界には変体仮名、行書、草書があり、楷書も篆書も隷書もあります。こんな国、他にないですけど、これは日本人にとっては、その中で生活していろいろなものを伝えるのにいいのだろうと思います。

鈴木 福澤の同時代の人たちの書で、例えば西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文や勝海舟などと比べてみるとどんな感じがされますか。

名児耶 字として福澤が落ちているということはまったくなく、あの当時の人は皆それぞれよさがあって、同列だと思いますね。同じように1人1人魅力のある字だと思います。書として見た時には当時の活躍した人の字というのは伝わりますよね。

鈴木 特に僕はやはり明治の、第1世代の革命を起こした人たちの書からは、ものすごい熱量のエネルギーを感じますね。スケールが大きく強靭で闘争心が溢れんばかりのものがある。

名児耶 そうですね。やはり共通している同時代のものを感じますね。それがいいとか悪いとかいうのとは全く別問題で。その時代の書ということですね。

読み手を意識するのが福澤流

鈴木 西澤さんは小幡篤次郎を研究されていて、手紙もたくさんご覧になっていますよね。

西澤 小幡の書は非常に真面目というか。福澤はのびのびとしていますが、小幡のほうが頭で先に考えている感じがします。福澤は紙に向かって勢いで書くようなイメージですが、小幡の場合、この紙にどれだけ情報が入れられるかと考えて1文字1文字丁寧に書くような。

鈴木 設計図のように。

西澤 小幡の手紙は、私たちが普段もう使わない漢語をかなり使っています。福澤諭吉の手紙には、今の私たちが使っていない言葉は、ほとんど出てこないんですね。歴史を専門にやっている人でなくても、読んで意味がわかるだろうと思います。

小幡の漢詩は、金文京先生に読んでいただくと、中国の有名な詩をオマージュして作っている部分もあって、小幡自身による漢詩であっても、こちらに漢学の知識がないと本当の意味で理解できない漢詩が多いのではないかと思います。

そういったことが福澤にほとんどないことが魅力の1つであり、伝統的なことを重視する方からすると、「福澤の書は字ではない」と言いたくなることにつながるのではと思いました。

鈴木 そうですね。

西澤 でも、明治以降、後の世代になればなるほど、字は読みにくくなっていくんです。私などには益田孝や吉田茂になると、どういうセオリーで崩しているのかがわからない漢字も多い。自己流に崩すようになるようです。

それはたぶん、右筆(ゆうひつ)の書いた書を読むようなことがなくなったからだと思います。福澤の世代だとまだ右筆のものを読まなければいけないことが生活の中であった。その経験がなくなってくると、中国から来る様々な字体の見た目のよさに惹かれて書くようになっていくのかなと想像します。

例えば、大正・昭和期の福澤桃介宛の書簡は、非常に重要なものがたくさんあるのですが、いろいろな筆を読むのは本当に一苦労です。

鈴木 西澤さんは福澤の書簡集を編纂されていますが、全部で2500くらいですか。

西澤 その後もまた新しいのが見つかり、現在は2650通を超えました。

『学問のすゝめ』『文明論之概略』などの著作もそうですが、常に相手を意識するのが福澤流だと思うんですね。手紙をもらった人がそれを読めなければ意味がないので、それに合わせて書くし、揮毫するのであれば、もらう人がどのようにそれを使いたいかを考えてお書きになっているのでは、と思います。

例えば「慶應義塾の目的」は塾生たちに本当に見てもらいたいと福澤は思っているので、やはりその気持ちが出ている。堅苦しいような書き方だったり、身構えてしまうようなものを書いたのであれば意味がない、と思っているような気がします。常に読み手を意識しているのが福澤流なのかなと思っています。

名児耶 それは大事なことですよね。

「漢字かな交じり」の魅力

鈴木 福澤は「ケ」の部分では自分の家族や、個人的な思いを詠んだ漢詩もある一方、ハレの漢詩、仕事の上でのPRなどで作った漢詩、立場上の漢詩もずいぶんある。

七言絶句「帝室論稿成」の漢詩は、帝室論の本ができた、脱稿したことを詠んだ。中には創刊3カ月後の83号で発刊禁止処分を受け、「爺(じじ)(時事)さんは八十三で腰を折り」などと川柳でからかわれたこともあった。しかし、「一面真相一面空」とか、「戯去戯来」といった遊び心を持って執筆した書のほうがのびやかに楽しんでいる、と感じるのです。

名児耶 漢字かな交じりのものも何かいいですね。漢字が並んでいるだけのものより魅力的に思います。

鈴木 ハレという部分でやる仕事はいろいろあるけれど、ケの部分というのは本音や本心、自分の思いが自由にほとばしり出ている──ということですよね。

名児耶 あると思いますね。それが日本人の面白いところかなと思う。漢詩を書くとなるとやはり、ちょっと気持ちが変わるんですよね。漢字かな交じりは自由でいいですよね。

鈴木 漢字かな交じりというのは、考えてみたら日本では一千年前の源氏物語からやっています。

名児耶 そうです。奈良時代から日本は中国の影響を受けるわけですよね。しかし先ほど言ったように、刺激を受けても全部日本化してしまっている。そういう意味からも、こう見ると漢字かな交じりが非常に魅力的で面白いなと思いますね。

伝統文化を伝える「書」

鈴木 この「国光発於美術」は2009年に慶應義塾の創立150年記念展覧会で出したものです。これはすごくいいと思うんですけど、どうですか。

「国光発於美術」(複製)

名児耶 バランスもいいですし大小の具合もごく自然です。よく見ると結構字が大きいんですが、それがスーッと自然に大きくなっている。これは拝見した時、福澤諭吉の傑作と言っていいと思いましたね。

鈴木 ああ、よかった。これは現在、オリジナルの書幅が見つからないのです。行方不明です。何とかして慶應義塾に戻したいと思っているのです。

名児耶 国の光や輝きは美術の中で出てくるみたいな意味でしょうか。

鈴木 そういうことです。この場合の美術は文化芸術です。

名児耶 私も全くそう思います。その国の良さ、この民族の良さというのは、その国の持っている、長く続いていた伝統文化、環境によって作られるのであって、違う国の文化を無理やり押し付けるのはよくないと思っています。

明治維新と戦後の大きな影響が、いい面に働いているときはいいけど、全部上手くいっているとは感じないんです。特に最近何か、ちょっとおかしいんじゃないかなと。

文化の1つに、書があるんですよね。その国が国らしくあるのはその伝統文化において発せられる。まさにこの言葉ですよね。

鈴木 福澤が『時事新報』を創刊し、最初の連載社説『帝室論』で訴えた「帝室は政治の社外にあって学問教育の振興、芸術文化の保護をすべし」に通じる文化財保護、メセナ活動の基本的な考えがここに集約されていると思います。

西澤 明治28年にたくさん朝鮮から留学生を受け入れ、彼らが在学中に福澤が還暦になるのですが、その時、彼らは皆、両班(ヤンバン)の人たちばかりなので、素晴らしい漢詩に水墨画などを添えて還暦のお祝いに渡すんです。

しかし、日本の学生たちはそれをしなかったようです。明治維新後の30年ぐらいで、西洋文化が入ってきたことで文化が大きく変わってしまった一例だと思います。私は、それは福澤にとっては、悲しいことであったのではとも思いました。

それまで自分たちが培ってきた精神も持っていてほしい、それが「慶應義塾の目的」や『福翁自伝』の中に自分の若い頃をかなり誇張して書いて、若い人たちにメッセージとして伝えるということにつながっているのかなと思いました。

鈴木 山口一夫さんが福澤諭吉協会の『福澤手帖』の第1回に新渡戸稲造のことを書いていて、新渡戸稲造は一度だけ三田演説館で福澤の講演を聞いたことがあるそうです。

新渡戸の回想によれば、その時、福澤先生は両手に紙袋を下げて入ってきて、演説の前に紙袋から取り出した煎餅を聴衆の少年たちに与えられたそうです。新渡戸は次のように述べています。

今日、教育家は多いがたいてい1時間いくらの給金で講義の切り売りをするのが多い。子どもたち1人1人に煎餅を与えながら自然ににじむ愛情で周囲を潤していくような、血の通った教育をする人は少ない。生涯唯一の出会いであったがこのことをよく覚えていると。

私はこの話を知り、やはり福澤の書に表れているのは、この優しさ、教育者としての、人を大事にする姿勢なのではないかと思いました。今日は長い間、有り難うございました。

 

(2023年12月12日、三田キャンパス内で収録)

 

[福澤諭吉の書の主なものは、慶應義塾大学メディアセンターの「福澤遺墨コレクション」で見ることができます。]

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。