【講演録】ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅 | ねぇ、マロン!

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曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【講演録】ヴィクトリア朝の岩倉使節団──幕末維新期における文化接触と〈知〉をめぐる旅

三田評論ONLINEより

  • 太田 昭子(おおた あきこ)

    慶應義塾大学名誉教授

はじめに──問題の所在

本日は貴重な機会をいただき有り難うございます。今、ご紹介いただきました太田昭子と申します。私は長年、幕末維新期を中心に、近代日本の対外関係史研究に携わってまいりました。この分野は、ともすると日本側の視点に軸足を置きがちになりますが、日本と接した諸国側の背景の考察や、国際社会の枠組みを忘れないようにしながら、バランスの取れた見方を心がけてきたつもりです。

講演の骨子を簡潔にまとめると、時代背景は、日本では異文化接触の多様化を迎えた幕末維新期であり、他方、ヴィクトリア朝イギリスの全盛期、所謂「ヴィクトリアン・ヘイデイ(Victorian Heyday)」とも呼ばれている時代です。舞台となるのは、岩倉使節団の滞在したイギリス、そして主役はもちろん岩倉使節団ですが、その中でも久米邦武とイギリス駐日公使のパークスがキーパーソンになります。キーワードとなるのは、「教育」「情報の駆け引き」「情報と〈知〉の関係」になろうかと思います。

ここで背景として、徳川時代から幕末維新期の日本における異文化接触を3つの段階にまとめてみます。

①徳川時代は一部の有識者が文字主体の海外情報を入手していた時代でした。ですが、徳川幕府が人流・物流・情報の流れを「一括管理」するやり方は破綻していき、開国へとつながっていきました。そこで次の段階が、②1860年代となります。この年代には、限定的ではあるものの、日本人が海外渡航できるようになりました。つまり、海外に「行って知る」という生身の体験がそこに加わったのです。1860年代半ば以降、攘夷運動が次第に鎮静化すると、国内に持ち帰った異文化情報を伝達することが活発化していきました。

そうなると今度は、③取得した海外の情報が国内の幅広い層に伝えられ、人々が生活圏に「居ながらにして知る」ことが可能になりました。すると、どのような情報を、誰に、どのように伝え、役立てるかが大事になる。このようにして国民の啓蒙が模索され、その過程で教育の重要性が強く認識されるようになりました。

少し付け加えると、①が②や③に取って代わったというよりも、①を土台とし、その上に②や③が積み重なり、異文化の情報が更新、上書きされ、蓄積されていったと考えると良いでしょう。

例えば福澤諭吉は、蘭学を修め(①)、徳川幕府が派遣した遣外使節に随行し、1860年代に3回の海外渡航を経験(②)。そこで得た情報や知見をどのように人々に広く伝えるかを模索しました(③)。特に初期の活動において福澤は、外国文化などに馴染みのない一般の子どもが世界を知り、視野を広げるためにどうすればよいかを模索し、小学校の地理教科書などを刊行しています。

私が教育に注目するのは、幕末維新期に海外渡航した日本人が、民の啓蒙という使命を強く意識し、人材育成における教育の役割に注目していたからです。また同時に、彼らが訪れた諸外国でも、教育が重要な役割を担っていたからでもあります。

1860年代から70年代は、幕末維新期の日本だけでなく、世界各国で政治や社会が大きく変化し、異文化接触の形態が多様化した時期に当たります。本日は、岩倉使節団本隊の教育視察の旅を通して見えてくる異文化接触について、日本側、イギリス側の双方からご紹介したいと思います。

岩倉使節団の紹介

岩倉使節団は1871年12月23日(明治4年11月12日)に横浜を出港し、アメリカ合衆国を皮切りにヨーロッパを歴訪して1873年9月13日に帰国した明治政府派遣の使節団です。特命全権大使の岩倉具視に、4名の副使(木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳)がおり、使節が46名、随行18名、留学生43名の大所帯でした。1860年代に幕府が派遣した遣外使節団に比べ、規模も歴訪国の数も群を抜いており、その後もこれに匹敵する政府使節団が派遣されることはありませんでした。

当初は小規模な使節団が約10カ月の西回りルートをとる計画でしたが、実際には出発時107名の東回りルートに変更され、諸般の事情で旅は1年10カ月に及びました。アメリカでは、大雪の影響や条約改正交渉の失敗により滞在が大幅に延び、この間、各省派遣の理事官と随行は、岩倉らとは別行動をとり、別働隊として各国への視察に出発していきました。本日の講演では、岩倉具視ら大使一行の中心メンバーを本隊、各省派遣の理事官らを別働隊と呼びます。

岩倉使節団には主に3つの目的がありました。1、条約加盟国を歴訪し、元首に国書を奉呈し聘問の礼を修める。2、条約改正の予備交渉を行う。3、廃藩置県後の内政整備のため、欧米諸国の制度・文物の情報を収集し、長所を採って日本の近代化を進める。3番目の目的が本日の話に大きく関わるのですが、これを文章化したのが、別働隊が編纂した『理事功程』など各省の報告書と、その集大成の『特命全権大使米欧回覧実記』(以下『実記』)です。

使節団本隊の収集した情報をまとめた刊行物のうち、『理事功程』は別働隊が帰国後直ちに報告書作成に着手し、随時刊行されました。一方『実記』は、使節団本隊の収集した情報をまとめるのに少し時間をかけ、帰国から5年後の1878年に一括して刊行されています。

『実記』は、権少外史(ごんしょうがいし)として岩倉具視に随行した久米邦武が中心となって編纂にあたり、日本出発から帰国時までの岩倉の足取りを記した日録形式の部分と、「総論」や「総説」の巻、日録に一字下げで長文の考察などを随所に織り交ぜた構成となっています。5編5冊全100巻のうち、アメリカが20巻、イギリスも20巻に及び、英米で4割を占めました。多数の銅版画が掲載され、『実記』は報告書の域を超えた文化史的価値を持っています。

久米邦武を権少外史に推挙したのは、同郷の大隈重信でした。外国語の運用能力に優れていた福澤や新島襄とは異なり、儒学者だった久米は外国語に堪能なわけではなく、情報収集活動は、本隊のチームワークによって成り立っていました。本隊メンバーや留学生などが手分けして収集した情報に、別働隊の情報を加えて整理し、理解を深めた上で、久米が『実記』にまとめ上げたのです。『実記』における考察や分析は、久米の見解とみなして差し支えありません。

使節団本隊のイギリス滞在とヴィクトリア朝社会

使節団本隊は1972年8月6日にアメリカを出発し、8月17日にイギリスに到着しました。ですが、ヴィクトリア女王は避暑のためにスコットランドに滞在中で、本隊は女王のロンドン帰還を待つことになりました。この間、岩倉たちは条約改正問題をめぐり、グランヴィル外相らと会談を行う傍ら、イギリス各地をめぐって行政機関などさまざまな施設を見学し、産業資本家たちと積極的に交流しました。12月5日に、ウインザー城でようやく女王謁見が実現したものの、イギリス側主催の午餐会には女王も外相も出席しないなど、王室や政府要人たちの姿勢は温かいものではなかったようです。一方、使節たちは、地方の訪問先では産業資本家や貴族など、地元の名士たちに厚遇され、イギリスへの理解を深めました。そして、到着から約4カ月後の12月16日に、3番目の訪問国フランスに向けて出発しました。

岩倉使節団本隊は時に別行動もとり、広範囲にわたりイギリスの諸相を辿りました。その中で、教育機関の視察はイギリスに限らず使節団の視察先の中で重要な項目になっていました。彼らは歴訪国各地で、学校、博物館や美術館、孤児院、障害者の教育施設など幅広く訪問しています。ですが、イギリスで訪れた教育機関は特殊なものが多く、普通の教育機関が極端に少なかったのが特徴です。一般的な小・中学校の訪問を中心としたアメリカなどとはその点で大きく異なっていました。これに踏み込んだ研究はあまり見出せず、この領域を掘り下げたのが私の研究です。

ヴィクトリア女王の治世は1837年から1901年と長く、19世紀半ばにイギリスは世界の先端をいく近代産業国家として繁栄していました。ですが、このヴィクトリア朝社会は表と裏の格差が大きい社会でもありました。〈表の顔〉は、産業革命が進展し、産業資本家が台頭するとともに、政治的にも安定した社会でした。大英帝国が拡大し、19世紀後半には、国際金融の中心にもなっていました。19世紀半ばからは、工場の大量生産や交通網の発達などにより、大衆消費の機運が高まり、新しい生活様式につながりました。デパートが誕生したのもこの頃です。鉄道網の発達にともない、行楽地や郊外(suburbia)が誕生したのもこの時代でした。

それに対する〈裏の顔〉として格差の顕在化があります。貧困とスラム、犯罪や売春、工場での過酷な労働、公害問題。社会的弱者の疲弊による国家の「基礎体力」や国際的な競争力の低下の中で、アメリカやドイツの追い上げを脅威に感じるようになっていきました。

ヴィクトリア朝の繁栄を支える、3つの代表的な倫理観がありますが、これらにも表と裏の顔があります。1つ目の「Self-Help(自助の精神)」は、裏を返せば自助努力が足りずに落ちこぼれるのは自己責任であるという考え方で、弱者を切り捨てる要素があったのは否めません。2つ目の「Philanthropy(慈善、博愛の精神)」には、恵まれた「上」の者が恵まれない「下」の者に手を差し伸べるというニュアンスがあり、これも上下関係を含む考え方でした。3つ目の「Respectability(尊敬に値する)」は、次第にお体裁主義という含意に変容していき、「Snobbery(紳士気取り)」のような意味になっていきました。ヴィクトリア朝社会を支えていた社会的構造とは、このような階級社会でした。

産業革命の進展とともに、その担い手という自負を強めていった産業資本家たちは、自分たちの声を反映できる政治参加の権利を求めるようになりました。旧来、上流階級が享受していた土地や資産の所有、生活様式などを産業資本家たち中流階級が追求するようになると、それと連動して、19世紀半ばに「第2次パブリックスクールブーム」が興隆しました。19世紀の「パブリックスクール」とは公立校ではなく、名門私立校を指します。成り上がりとみなされるのを嫌った産業資本家たちが、子息をこぞってパブリックスクールで学ばせようとしたのです。

一方、一部の労働者たちには娯楽や大衆消費、レジャーなどを楽しむゆとりも生まれてきました。技能があれば、社会の最下層であるアンダークラスへの転落の危機は回避でき、収入増も見込めることから、教育機会の拡充にも次第に目が向けられるようになっていきました。1860年代以降、イギリス各地で労働運動が活発化し、岩倉使節団訪英前年の1871年には、労働組合が法的に承認されました。ただし、組織的な労働運動が軌道に乗り、政治的発言力を増したのは、使節団の訪英後のことでした。1872年当時はまだ格差が大きく、社会の最下層の人々と上流階級の生活には雲泥の差がありました。生活環境だけではなく教育機会や就業にも個人の能力では超えられない格差が厳然と存在していました。

教育の面では、エリート教育と民衆教育がはっきり分かれた形で存在していたのがヴィクトリア朝時代です。エリート教育は、第2次パブリックスクールブームに代表される教育熱の高まりによって、Respectable Gentleman の養成を目指す教育が充実していきました。他方、民衆教育は大きな転換点を迎えてはいたものの、初等教育は整備途上にあり、政府も教育への関与には及び腰でした。イギリスの公教育整備は遅く、小学校の義務教育化が定められたのは1876年でした。これが日本との大きな相違点です。

日程策定の権限とパークスの果たした役割

岩倉使節団が視察したのは、一般的な学校と趣を異にするユニークなラインナップでした。イギリス事情によほど精通していない限り、外国人の目にはとまりにくい学校が多かったのです。日本側は、寺島宗則が駐英公使に着任して間もなく、また、副使の木戸孝允も教育問題には熱心に取り組んでいたものの、イギリスの事情に詳しかったわけではありません。そう考えると、使節団の視察先はイギリス側が選んだと考えるのが自然なように思います。

外交文書などを繙くと、色々なことが浮かび上がってきます。例えば、当時日本におけるキリスト教禁教と外国人の内地旅行の制約は大きな外交問題でした。しかし使節団本隊の滞在中にこれらを解決するのは望み薄とイギリス政府・外務省は感じたようで、一時帰国中のパークスらに本隊のアテンドを任せた経緯が記されています。こうして本隊の迎接全般と日程の立案を取り仕切ったのはパークス駐日公使と武官のアレクサンダーで、通訳のアストンが補佐しました。イギリス政府の意向を踏まえたパークスの指示記録書なども残されています。

パークスは所謂たたき上げの外交官でした。幼い頃に両親を亡くし、後見人も亡くなったため、1841年に13歳でマカオに渡り、働きながら中国語を学びました。15歳でイギリス領事館に正式採用され、その後、抜群の語学力を備えた能吏として頭角を現します。厦門(アモイ)領事、広東領事、上海領事などを歴任し、1865年に日本の駐箚(ちゅうさつ)イギリス公使に着任しました。幕末維新期におけるパークスの活躍は周知のとおりです。パークスは岩倉使節団のアテンド後、1873年春に再び日本に帰任しました。1883年には清国の駐箚イギリス公使に転じ、1885年に病のため北京でその生涯を閉じています。

パークスは生涯で2回叙勲を受けています。最初は1862年5月、上海領事だった彼は34歳でバス勲章2等(KCB)を授けられ、ナイトの称号を与えられました。それまでミスター・パークスと呼ばれていた彼は、サー・ハリー(Sir Harry)と呼ばれるようになりました。イギリスでは現在でも、サーの称号を与えられると、姓ではなくファーストネームに「サー」を付けて呼ばれます。2回目の叙勲は1881年、53歳の時で、聖マイケル・聖ジョージ勲章(GCMG)を与えられました。

19世紀半ばのイギリス外務省は、外交部門と領事部門が明確に分かれていました。外交部門所属の外交官は主に名家出身で、名門校を出ており、資産もありました。任地はイギリスと密接な関係があり住みやすいヨーロッパ諸国で、名門同士のネットワークを駆使し、外交を展開していました。これに対して領事部門には現地の言葉を操り、情報収集できる有能な人材が所属していましたが、傍系と位置づけられ、彼らがいかに現地の事情に精通した能吏であっても、領事部門から本流の外交部門に移り昇進できたのはごく少数でした。その例外的存在だったのがパークスであり、前任者のオールコックだったのです。サーの称号は1代限りのものでしたが、叙勲と公使拝命は外交官としての功績が認められた実力の証として、パークスの自負の拠り所となっていました。

このようにして破格の昇進を遂げたパークスは、イギリス公使館の代表として、幕末から明治初期の日本では押しも押されもせぬ存在でした。ですが、サーの仲間入りを果たしていたとは言え、本国外務省という組織の中で、彼はあくまで領事部門出身であり、高い身分も学歴も強力な縁故もない、弱小に近い立場にありました。いかに有能と認められても、出自や経歴の違いによる厳然たる壁の存在を、パークスが思い知らされることは少なくありませんでした。日英両国の関係者のパークス評には、辣腕・有能という高評価と並んで短気、癇癪持ち、恫喝、高圧的などのネガティブな言葉も並んでいます。そこには、彼の性分だけではなく、鬱屈した思いの裏返しという要素があったのも見逃せないでしょう。

教育機関選定の背景

パークスたちが中心となり選定した、使節団本隊の教育視察の具体例を紹介しましょう。まず彼らが視察しなかったところとして2つの例が挙げられます。1つは、オックスフォードやケンブリッジのような有名な高等教育機関や名門校です。これは当時のイギリスの高等教育やアカデミズムの保守性とも関わっています。例えばオックスフォードやケンブリッジで重視されていたのは、法学や医学、古典学、神学などで、日本が近代化のために必要な分野は、やや傍系に置かれていました。所謂エリートを対象とした高等教育機関は、敷居が高い上に日本に役立つ要素が多くないとパークスは考えたのでしょう。もう1つは一般的な初等・中等学校でした。先ほど述べたように、イギリスでは初等教育の整備が遅く、国民皆学の精神が希薄だったことも関係していると思います。

では、使節団本隊は何を見たのか、ここではいくつかのグループに絞ってお話しします。

まずはクライスツ・ホスピタル校です。これは病院や医学部ではありません。所謂パブリックスクール系の私立校です。この学校やセント・ポール大聖堂、イングランド銀行、ギルドホール(ロンドン市庁舎)などをロンドン市長が自ら案内し、市長主催の午餐会には、日銀総裁に当たるイングランド銀行の総裁も同席しました。

クライスツ・ホスピタル校は、現在でも少し特殊な私学としてイギリス人に知られています。この学校は1552年に当時の国王エドワード6世がロンドン市長に働きかけ、向学心のある貧しい家庭の子どもたちのために、ロンドン東部に設立した全寮制の慈善学校でした。パブリックスクール本来の建学の理念は「Open to the Public」。つまり民に門戸を開く慈善の精神でしたが、その後、パブリックスクールの多くがエリート志向を次第に強めていく中、クライスツ・ホスピタル校はこの理念を守り続けて、1870年代も多数の慈善家の寄付によって維持されていました。

また、クライスツ・ホスピタル校は、ロンドン市(City)との絆が強く、市の行事ではクライスツ・ホスピタル校のブラスバンドが演奏するのが慣例になっており、地域社会と密接な結びつきのある学校という意味でも独特な存在でした。私学でありながら地方自治体との連携を保つ姿勢は、エリート志向が強く、地域社会に対しては閉鎖的な名門パブリックスクールよりも日本の参考になるとイギリス側は考えたようです。ロンドン市長が自ら案内していることからも、この視察に対するロンドン市側の働きかけもあったことが窺われます。

高等教育機関の訪問先に選ばれたのは、オーウェンズ・コレッジとスコットランドのエディンバラ大学でした。オーウェンズ・コレッジはマンチェスター大学の前身で、理系教育に重点を置いており、実験や実習を積極的に行っていました。スコットランドはイングランドとは別個の教育システムをとっており、日本とも人的交流があって友好的な土地柄でした。この2つが選ばれたのも、やはり名門パブリックスクールよりも日本の将来に有用な条件が整っていると判断されたからだと思います。

使節団はさらにソルテア村というモデル・ヴィレッジも訪問しました。先ほど、国家や地方行政レベルでの教育整備が途上にあったと述べましたが、これは見方を変えれば、1870年代初頭には学校経営に携わる産業資本家の裁量が、教育現場に反映され得る余地がかなり残されていたことを意味します。「慈善」の精神に富み、労働者の生活環境に配慮した産業資本家たちの経営する学校の中でも特筆すべき存在が、ソルテア村とその小学校でした。ちなみに、ソルテア村は2001年にユネスコの世界遺産に登録されています。

ソルテアは、ヨークシャーのブラッドフォードでアルパカ紡織工場を経営していたタイタス・ソルトが新たに作った工場村です。人口が急増し環境汚染のひどいブラッドフォードから1853年に工場を移転し、翌1854年から約14年かけて住宅、教会、学校、病院、養老施設などを計画的に整えて村を建設しました。使節団が訪れた男女別学制の小学校は1868年創立で、総生徒数は750名ほどでした。多くは紡績工場で働く合間に学校で授業を受ける就労児童でした。学校にはセントラル・ヒーティングやガス灯など、生徒の健康に配慮した設備が導入されており、当時の労働者階級の児童が通う学校としては画期的なものでした。

一部の産業資本家が工場村を建設する動きは、イギリスでは18世紀から始まり、19世紀半ばにはヨークシャーを中心に発展していました。中でもソルテアの環境や水準は群を抜いていました。村は1868年に一応完成していましたが、ソルトはその後も整備を続け、飲酒の悪影響を嫌って村でのパブの開業を禁止しました。その代わりに図書館や講堂を備えた文化施設として社交クラブをつくる他、皆が散歩できるような広大な公園も開設しています。ソルテアは盤石な経営基盤に支えられてできたもので、慈善の精神と先端の産業技術を合体させたものでした。パークスらが使節団に見せようとしたのは、単なる産業施設や就労児童用の学校というよりも、学校や病院、養老施設などを備えた工場を核とするコミュニティ、つまり産業資本家主導の新しいタウンプランニングのあり方だったのです。

アメリカでは初等中等教育の整備が全般的に進められ、使節団は滞米中、各地でかなり系統だった視察を行い、目が肥えていました。そのことをパークスも承知しており、イギリスにとって不利な状況を打開するために、産業資本家の経営する工場併設校やソルテア村のようなモデル・ヴィレッジに注目したのです。良心的な産業資本家の教育とまちづくりを示すことは、産業視察と教育視察において一石二鳥でした。パークスらはこの視察が、明治日本の殖産興業政策や教育政策、都市計画の立案に貢献し、中長期的には日英の通商にも役立つと考えたのです。

岩倉使節団の訪れた学校の中でもう1つ注目すべきものが訓練船(船学校)です。訓練船には海軍系のものと商船系のものがありました。後者はさらに、上流階級の子弟が士官候補生として訓練を受けるタイプの船から非行少年の矯正施設まで、多岐にわたっていました。使節たちはポーツマスで海軍の訓練船、リヴァプールで4艘、タイン川河口で1艘の訓練船を見学しました。またポーツマスでは、800人の「刑徒」がドックの建設現場で人造石材の製造に従事している様子も見学しています。当時のイギリスではドックの建設工事などでも懲役囚を働かせていました。

1872年当時のイギリスには訓練船や農場などで非行少年少女の矯正を行なう施設が55校ありました。使節団が見学したのは比較的刑の軽い少年犯罪者たちを収容していた施設です。非行少年少女の多くは社会の最下層に属していましたから、彼らを監獄送りにしても犯罪発生率は下がらず、根本的な解決策にはなりませんでした。そこで、彼らを生活環境から切り離し、規律正しい生活を身につけさせ、社会復帰に役立つ技能や知識を習得させることが、矯正施設の狙いでした。つまり少年犯罪対策として、産業の発達にも寄与できるような青少年の矯正施策が試みられていたのです。

訓練船の視察が旅程に組まれたのは、重要な造船業などと、非行少年の更生という社会政策を一体化したモデルを示すことが、近代日本にとって役立つとイギリス側が考えたからでした。そのほうが、わざわざ農場に出向くより旅程面でも効率的だったからでしょう。岩倉使節団は見学を通して、少年犯罪対策における法整備以外の選択肢の1つを示されたと言えます。パークスは、当時、岩倉使節団別働隊として司法制度の視察を行っていた佐々木高行の一行に対して、刑罰の制度だけでなく様々な種類の矯正施設を視察させるよう、部下に命じています。

使節団本隊の受けとめ方

イギリス側の思惑についてはお話ししたとおりですが、では日本側がそれをどう受けとめたのでしょうか。『実記』「英吉利国総説」などの視察の記述に多少不正確な箇所はあるものの、概ね妥当な理解に基づいていたと言えます。例えば当時のイギリスで高等教育を受ける機会に恵まれたのは、主として中流階級以上の子弟で、彼らの多くは全寮制の私立校からオックスフォードやケンブリッジ大学に進学していると指摘しました。名門校の多くが都市部から離れた田舎や田園地帯にあるのは、都会の刺激や贅沢から生徒を切り離すためで、彼らは親元を離れ寄宿舎に入り、質素で規律の厳しい生活を送っていたと記されています。

では、視察した教育機関に対する評価はどのようなものだったのでしょうか。彼らはクライスツ・ホスピタル校の財政基盤に関心を示し、校内を案内したロンドン市長にも色々と質問したようです。木戸孝允は校内のプールを見て、これはアメリカでは見なかったものだと記しました。岩倉使節団がアメリカで見学した教育機関とはひと味違う学校を、イギリス側が地域ぐるみで見せようとした狙いを、日本側も受けとめていたことがわかります。

岩倉使節団は大英博物館をはじめ、各種博物館、美術館、水族館、動物園、植物園、図書館などにも行き、人々が自分たちの生活圏に「居ながらにして知る」場を視察しました。大英博物館を見学した際、久米は『実記』に一字下げで論説を展開しています。博物館を見学すれば、その国の文化の由来が自然に感じとれるが、どの国も元をたどると急に発展した国などない。先人は自らの得た知識を後世に伝え、先覚者が後世の人々を刺激していくと次第に進歩するのであり、進歩とは古いものを捨てることではない。このように彼は述べました。

そして人の言行の優れた点を記録して伝えたり、「古今ノ進歩」の歴史を記して後世に伝えたり、博物館で視覚に訴え感動させたりすることを通して人々を学ばせることの重要性を説きました。こうした努力を怠って、何もせずに東西の違いは習性の違いのせいだとするのは無策であると戒めてもいます。博物館見学を通して、久米がこのような歴史観や教育観を展開したのは注目に値します。

高評価と辛口評価、日本の教育との対比

1872年9月17日に、使節団はロンドン市内の小学校を訪れました。彼らはここで女子児童を対象とした紡織の授業を見学しました。そして、数理光学などの視点を踏まえた理論が実技と並行して教えられている点を評価しています。10月17日には、マンチェスターで紡績・織物工場を視察し、木戸は工場内に併設された学校の役割や、就労・就学規則など学校の運営の仕方にも注目しました。19月25日にソルテア村を訪問し、久米は学校について次のように記しました。

「村内に小学校を建て、村民の児童は半日は工場で働き、半日は学校で授業を受けさせている。これは学業と仕事の技能を共に身につけさせるよい方法で(学知(タオリック)ト実験(プラチカル)ト、互ニ相進メル良法ニテ)、工場から給料を受ければ子どもにも役立つし、工場側にも利益がある。英国人は労働者を保護し、貧困者の救護に尽力することを一つの名誉としている。(…)学校で教える科目は小学校のふつうの学科で、男女とも知らなくてはならないことに限られ、高等な学科は教えない」。

学知(タオリック)と実験(プラチカル)は『実記』の中で久米が好んで用いたキーワードでした。ソルテア村のさまざまな施設の記述に続けて久米は、「これが職工市街の仕組みで、産業振興の方法として深い意義がある」と評価し、ソルテア見学に込めたイギリス側のメッセージを受けとめていました。

他方、久米は辛口の評価もしています。理念は立派でも教育内容がそれに見合ってないと判断した時の評価は手厳しいものでした。例えば、実験や実習などの理系教育で知られていたオーウェンズ・コレッジでは、化学の講義を聴講し、実験室も訪れていますが、『実記』の感想は「記スヘキコトナシ」とそっけないものでした。その要因の1つには、アメリカでの視察を経て目が肥えていたことも挙げられるでしょう。

訓練船に対する評価も同様です。一行は視察した船の内部や教育内容を細かく記録し、矯正用の訓練船が2艘あるのは、プロテスタント系とカトリック系の少年たちを一緒にすると喧嘩が起きるので、分けて収容するためだと把握していました。ですが、実態としては非行少年の矯正船で行われていた訓練は単純作業が中心で、体罰が横行し、数々の疾病も発生していました。リヴァプールの視察で見た海軍の訓練船(Conway)には「百事ミナ用意丁寧ナリ」と高評価でしたが、水夫の訓練船(Indefatigable)に対しては「船中ノ接遇甚タ麁(そ)ナリ」(つまり雑)、非行少年の就労船(Clarence, Akbar)になると「ミナ不規則ニテ、桅(き)上ノ昇降モ甚タ隙取レリ(動きもバラバラで、マストの登り降りももたついていた)」と厳しいものでした。

当時はどの訓練船の少年たちも、賓客が訪れると正装して桅(ほばしら、マスト)上で帽子を取って万歳を唱え、楽隊の演奏で歓迎し、下船時には敬礼で見送るのが通例でしたが、それも高くは評価されませんでした。制度そのものに関心を寄せたからこそ、詳しい記録を残したものの、非行少年の矯正施設として訓練船は感心するほどのレベルには達していないと考えたのでしょう。

このように岩倉使節団の教育視察は、イギリス側にお膳立てされたものでした。しかし、彼らは与えられた情報を鵜呑みにはせず、冷静な評価を行っていた点に注目したいと思います。

『実記』は、イギリスと日本の教育を随所で対比しました。例えば「英吉利国総説」の教育の概説では、歴史を遡るとイギリスでは学問が貴族や聖職者に独占されていた時代が長く、フランス語やラテン語を用いた高尚な学問は、民間には敷居が高かったと記し、続けて、「現在わが国で、知識階級は漢学や洋学を学んでいるけれども、それは一般民間の人々の理解が得にくく、庶民階層は書籍を高尚なものだと思い込み、学問の道に就こうという意欲を持たない状況とよく似ている」としています。久米はイギリスの教育を紹介しながら、明治初期の日本における知識の偏りも指摘していました。

富強の原動力を探る

ここで視野を少し広げ、岩倉使節団が教育だけではなく、イギリスの社会やシステム、階級などをどのように捉えていたかを検討したいと思います。『実記』は、1870年代初めの、イギリスが「富強」に至った背景を探り、そのためにさまざまな人々の生活の様子を日本の読者に伝え実感してもらおうとしました。富強の背景を知るためには、産業技術のノウハウや法律・政治などの制度だけではなく、それらを支える社会の枠組みを把握することも不可欠で、1870年代初めのイギリス社会の表裏両面を探索する必要があったわけです。『実記』には、イギリスの繁栄を象徴する言葉として、「営業力・・・」という表現が随所に登場します。これは現代の「営業」とは違い、国民全体の生産力、経済力の意味に近いものです。

久米は「見せられた」情報を主体的に総合し、イギリスが当時謳歌していたパワーの淵源を探ろうとしました。基幹産業はもとより、日常生活の衣食住に密着した品々の製造現場を訪れ、活況に圧倒されながらも、産業化の進展と繁栄はこの3、40年から4、50年ほどのものだと、『実記』の中で繰り返し述べています。西洋社会の「発展」の歴史が比較的浅いことは、『実記』が読者に対して発したメッセージでした。

岩倉使節団の労働環境や教育機会などへの眼差しは、あくまで産業や国家を運営する側の視点に立ったものでした。公害や貧困、劣悪な生活環境など、産業革命の負の側面にも注目しましたが、苦しむ民に寄り添う視点だったとは言えず、労働運動についても『実記』は言及していません。労働運動に関する情報提供をイギリス側が積極的に行わなかったこともありますが、日本側も情報開示に強い意欲は示さなかったようです。労働運動に関しては、日英間で情報をめぐる駆け引きはなかったと考えてよいでしょう。

イギリス側が「見せること」に積極的ではなかった側面は他にもありました。使節団は、イギリスの富強の原動力を探る過程で、「見たいもの」とイギリス側が「見せたくないもの」をめぐる駆け引きを経験しています。例えば、各地の工場で日本側が「これはどういうことですか」と質問しても、イギリス側が肝心な点をはぐらかそうとすることも多々ありました。つまり、富強の原動力には競争原理が働いており、情報提供についてイギリス側がシビアであることを、使節たちも肌で感じたようです。

もう1つ、イギリス側が見せたがらなかったのは、産業技術関連の情報だけではありませんでした。イギリス社会の最下層の人々の生活も、使節団に見せたくない不都合な実態だったのです。ですが、使節たちは裏面探索をあえて試みました。岩倉具視は明治政府派遣の使節団代表という立場上、気軽にどこへでも赴くことはできませんでしたが、木戸孝允と大久保利通は畠山義成を通訳に伴い、イギリス側のアレクサンダーの案内でイーストエンドの貧民窟、阿片窟、簡易宿泊所などをお忍びで訪れています。木戸は宿舎に戻ってから、「貧民窟といふよりも悪漢の巣で、其の状態は唯言語に絶すといふより外はない」と久米邦武に語りました。大久保は、「余は彼(あれ)を見て、世の中が浅猿(あさま)しくなった」と慨嘆して、2人とも強い不快感と失望を覚えた様子だったと言います。

諸国歴訪の道中、岩倉、木戸、大久保の3人は、日本の将来について頻繁に語り合い、文明開化に危険が伴うことも承知していましたが、実際に「文明の裏面」を目の当たりにして悲観的な気持ちになったようです。イギリスの先進性を印象づけ、一層優位に立とうと図っていたパークスにとって、ヴィクトリア朝社会の裏事情を探ろうとする視察は歓迎すべきものではなかったでしょう。だからこそ木戸たちは、ごく少人数のお忍びで行動し、社会の裏面を見ようとしたのです。これも使節の主体性を示す証しとして評価できるのではないかと思います。

上流階級との交流とパークスについての「発見」

使節団本隊はイギリス各地で、産業資本家、貴族や豪農など地元の名士の家に招かれてお茶や食事を共にしたり、場合によっては宿泊したりして生活様式に直接触れ、階級社会の実態に対する理解を深めました。これは、駆け足で歴訪した他のヨーロッパ諸国では得られなかった機会でした。生活空間に立ち入ることができたのは、イギリス滞在が長期化したことの副産物と言えるでしょう。彼らは地元の政財界の重鎮に会い、午餐会や晩餐会でたびたびスピーチも行いました。ちなみに『実記』では、スピーチを和訳せず、そのまま「スピーチ」と記しています。

岩倉使節団本隊と名士たちとの交流記録の中で頻繁に登場したのは、彼らの生活様式と狩猟に関する言及、大土地経営のあり方についての考察でした。上流階級の人々が、冬はロンドンの本宅で過ごして国務に尽力し、夏は所領地に戻って狩りを楽しみながら富を築く生活様式が、細部にわたって記されています。

パークスは折に触れ、狩猟見学の日程を組み、狩りの重要性を説きました。狩猟が上流階級にとっていかに重要かを、宿泊先のホテルで延々と説いた様子が、久米の回顧録に次のとおり記されています。「是の日、パークスは岩倉大使を離れて自ら主将気取つて万事を振舞」い、雷鳥料理を食す前に、野禽は熟成肉にしてから調理するのがよろしいと演述して食卓の主席に就いた、と。食後には彼が日本の士族の禄について見下した評価を下し、久米たちがそれは事実誤認であると指摘したようです。ウスター(Worcester) では有名な磁器工場(the Royal Porcelain Works)の視察より先に、到着早々、狩猟を見学しています。ちなみに、ここで言う狩猟とは、狩人の狩猟や殿様の鷹狩などと異なり、上流階級の人々が所領内でキツネやウサギ、野鳥などの狩りを行うもので、女性が参加することも多くありました。『実記』には「西洋ノ皇族貴族ハ、遊猟ヲ喜フ、婦人モ亦操銃ニ習フ」と西洋の上流階級の狩猟好きについて記しています。

パークスが折りに触れ狩猟の日程を組み、その重要性を説いたのは、岩倉具視とグランヴィル外相との会談と密接な関係がありました。11月22日と27日に行われた会談で、イギリス側は日本の内地旅行と関連づけて狩猟の重要性を取り上げています。日英の外交文書を繙くと、双方の駆け引きの様子も浮かび上がってきます。パークスには、西洋社会における狩猟の重要性を何回も印象づけ、日本における外国人の内地旅行の制約撤廃に動いてほしいという思惑が働いていたのでしょう。本隊の狩猟見学は不自然なほどに多く、使節たちに一種の刷り込みを図ろうとしていたとさえ感じさせます。

使節たちはこの思惑をどう理解したのでしょうか。日本国内では当時、狩猟を口実に外国人が居留地の外へ出てしまうケースが多発して問題化していました。岩倉は外相との会談の際、治外法権の廃止が前提だとして、内地旅行問題についての回答は避けました。会談で色よい返事をしない岩倉に対し、パークスが苛立った口調で日本政府の姿勢を難詰しています。ウスターで見学した狩猟について、『実記』には「此狩ハ、我犬追物ニ似タル主意ニテ」と記され、狩猟の模様を比較的くわしく記録していますが、それに続けて久米が紙幅を割いて考察したのは、大土地所有のあり方や貧富の格差、商工業を支えるシステムなどでした。『実記』は外交問題に触れないことを前提に編纂されたものですが、それを差し引いても、イギリス国内旅行を通して外交問題の改善を喚起したいパークスの思惑と、イギリス社会・経済・政治の構造を注視していた日本側の眼差しは、必ずしも合致しなかったと言えます。

イギリスの上流階級との交流は、もう1つ思わぬ副産物をもたらしました。それは、イギリス社会におけるパークスの立ち位置を使節団一行が目の当たりにしたことです。さすがに公的報告書である『実記』にはあからさまな記述はありませんが、使節団に随行していた林董(はやしただす)は、回顧録(『後は昔の記』)の中で次のように述べています。「英国公使パークスと云えば、日本にては飛ぶ鳥も落る勢にて、本国の待遇も嘸(さぞ)かしと思いたるに、外務省にて使節が外務大臣と談判の時パークスも列座したるが、僅に末席に就き大臣の問を待て発言する位にて、大臣は、時にミスター・パークスと呼び(サー・ハリー・パークスと云うが正当なり)、又はサー・ヘンリーと呼び、真正(しんせい)の位階姓名も大臣に知られざる位なれば、俗に云う楽屋が分りて大に器量を下げたり」と。34歳の若さで爵位を授けられ、サーの仲間入りを果たしていたパークスにとって、「ミスター・パークス」と呼ばれるのは屈辱的なことだったでしょう。

パークスは幕末維新期の日本では外交団の中心的存在として辣腕を揮うイギリス公使であり、日本人に対してだけでなく日本在住の外国人社会でも、強権発動し高圧的な態度をとることで知られていました。そのパークスが小さくなっている様子を見て、使節団は溜飲が下がる思いだったようです。イギリス外務省内でパークスが軽く扱われていたのは、彼自身の出自や経歴、また日本が当時の国際社会の中で占めていた位置を反映したものでしたが、パークスにとって、これは知られたくない不都合なことだったに違いありません。つまり、狩猟の重要性といったことをパークスが盛んに説いても、使節たちにどれほど説得力をもったのか。イギリス滞在を通して、階級社会に対する情報を蓄積し、理解を深めていた使節たちにとって、パークスに関わるこの「発見」が少なくともプラスに働く要素にならなかったことは間違いないでしょう。

イギリス社会に対する理解と回覧の旅

『実記』のヴィクトリア朝社会に対する考察は、概ね的を射たものでした。久米は貧富の格差を指摘する一方で、人々が「自主ノ権利」を持ち、利益競争をしていることにも注目しています。つまり、西洋社会に貧富の差や知識・技能の差、強弱の差による上下の力関係が自ずと発生しており、政府が人々の生活を守るには、社会の上に立つ者は下の者を保護救済しながら、産業の利益を長く保つことが重要だと述べました。イギリス社会では上下が働きかけあって社会構造にふさわしい法を定め、政府を形成して人々の保護に尽力した成果を上げていることをイギリス各地を旅して知ったと記しているのです。ややきれいごとに過ぎる解釈ではありますが、久米は権力構造の重層的な関係を把握していました。そして、『実記』第2編の締め括りとして、イギリスの富強に至った経過を日本の読者に実感してもらうことがイギリス編の主な目的で、様々な人々との交流を通して彼らの生活の実態を知ることにより、目的を実現できたと強調しています。蓄積された情報に、旅を通して生身の経験が加わったからこそ、現地社会の理解を深め、日本の読者に伝えることができたと久米が述べているのは注目に値します。

情報をめぐる駆け引きから〈知〉の論評へ

岩倉使節団本隊がイギリスで経験したのは、情報をめぐる駆け引きでした。また、『実記』の編纂者である久米邦武が経験したのは、〈知〉の論評に向かう旅だったと表現できます。ここで言う〈知〉は、異文化の根本にある特質を体系的に見極めようとする中で育まれた、信念や理念、価値観、精神、信仰などを含む新たな知見で、考え方の枠組みそのものと深く関わるものでした。

幕末維新期の日本人にとって、異文化の知識や情報などに触れる経験は、自分たちに馴染みのある文化的な土壌とは異なる価値基準に根差した文化との出会いを意味しており、旧来の価値観とは異なる物事の捉え方、考え方の新しい枠組みと向き合う体験でもありました。

〈知〉の追求とは、漠然とした知識の探求ではなく、自分や自分の帰属先に欠けている〈知〉のあり方を自覚した上で、物事をとらえる視座を増やし、自らに欠けている要素を追い求めることでした。彼らはさまざまなフィルターを通して取捨選択した海外情報を、包括的な〈知〉という概念に昇華させ、それぞれのスタイルで主体的に〈知〉と向き合ったのです。

儒学者だった久米邦武が持っていた洋学系の知識は限定的で、語学も堪能ではありませんでした。そのような久米が使節団に選ばれたのは、明治政府が西洋礼賛に偏ることなく海外情報と向き合える人材を探していたからです。久米は儒学というバックボーンを備え、立脚点が安定しており、しかもどの陣営からも一定の距離を保って西洋社会や明治日本に冷静な眼差しを向けました。これはまさに〈知〉の論評の姿勢と言えるでしょう。情報の分析には久米の儒学の素養が投影されており、それを格調高く端正な漢文体で綴った文章を読むと、バランスの取れた視点で総合的に論評できる人を登用した明治政府の判断は適材適所だったと再認識させられます。キリスト教禁教の時代に、新島襄を使節団別働隊の文部省理事官の随行に登用し、洋学者ではない久米邦武を『実記』編纂者に任命した明治政府の慧眼にも、〈知〉の主体的な追求の姿勢が現れていることを忘れてはなりません。

本日の講演では、岩倉使節団本隊のイギリス滞在と教育に焦点を当て、異文化接触で得た情報が〈知〉に昇華する過程を辿りました。1860年代から70年代は日本を含む世界各国で政治・経済や社会が大きく変化し、異文化接触の形態が多様化した時期でもありました。そして21世紀の現在、私たちは幕末維新期とは別の形でさまざまな情報を〈居ながらにして知る〉環境に置かれています。情報とどのように向き合い、どのように〈知〉に昇華させていくか。その際、何に気をつけるべきなのか。それらを考える際、幕末維新期の先人たちの足跡を吟味することが役に立つはずです。

未知の新たな情報の錯綜する環境では、情報をいち早く制した者がリーダーシップをとれるという側面があります。21世紀の現代社会には、19世紀半ばとは比較にならないほど、さまざまな情報や情報ツールが錯綜し、情報の見極めも容易ではありません。過去も現在も、そしておそらく未来にも求められるのは、さまざまな立場のアクターが情報に潜ませる意図などの見極め能力を身につけることでしょう。情報の理解・取捨選択に必要な要件、提供された情報を見極め咀嚼する能力とは何か、情報に接する際、なにがしかのバックボーンを持つことの意味とは何かなどを検討していくことが、私たちにとって今後の課題・展望と言えるでしょう。そしてそれらを考える上で、歴史から学ぶことも多いのではないでしょうか。

ご清聴有り難うございました。

(本稿は、2023年12月21日に三田演説館で行われた第712回三田演説会での講演をもとに構成したものである。文中の久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』の現代語訳は、水澤周氏による現代語訳(慶應義塾大学出版会)を参照しつつ、筆者が行った。)

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。