【特集:新春対談】 新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:新春対談】新春対談:伝統と革新を備えた学塾を目指して

三田評論ONLINEより

  • 坂井 音重(さかい おとしげ)

    能楽師。

    重要無形文化財総合指定者。観世流坂井職分家当主。白翔會主宰。1939年生まれ。64年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。72年フランスでの公演以来、世界各地で演能。2002年、日中国交正常化30 周年行事にて、釣魚台国賓館、故宮にて演能、10年ロシア連邦大統領よりロシア連邦友好勲章授与。13年慶應義塾大学名誉博士。社団法人観世会顧問。

  • 長谷山 彰(はせやま あきら)

    1952年生まれ。75年慶應義塾大学法学部卒業。79年同文学部卒業。84年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。97年慶應義塾大学文学部教授。2001年慶應義塾大学学生総合センター長兼学生部長。07年文学部長・附属研究所斯道文庫長。09年慶應義塾常任理事。2017年慶應義塾長に就任。専門は法制史、日本古代史。

義塾150年記念の薪能

長谷山 明けましておめでとうございます。

坂井 おめでとうございます。

長谷山 年頭にあたって、重要無形文化財総合指定者の能楽師である坂井音重さんをお迎えしています。私が初めて坂井さんの舞台を拝見したのは、義塾創立150年記念の祝賀薪能が2008年11月7日に三田キャンパスで行われたときです。演目は「土蜘蛛」でした。当時、私は文学部長を務めており、夕やみ迫る中、工藤教和常任理事(当時)が松明で薪に火を点けたところから拝見しておりました。翌日に150年記念式典を控え、海外から様々な大学の学長がゲストで来られており、地域の住民の方もお招きして大変賑やかな、また印象深い会だったと記憶しています。

また、能楽協会の理事長を務められたお父上の音次郎氏が義塾の創立90年(1947年)のときに、学生の要望に応えて、戦後の復興期に文化で日本を盛り上げたい、慶應の学問や文化を発信したいと、同じ「土蜘蛛」を上演して学生を支援してくださったと後から伺いました。何か深いご縁を感じるのですが、義塾150年のときの祝賀能は、今から振り返っていかがでしたか。

坂井 歴史ある建物が並ぶ三田キャンパスで薪能が行われたわけです。薪能というのは、自然の空気の中で、観られる方がその能に浸って、悠久のひと時を過ごしていただくものです。三田の丘の上は、様々な鉄筋コンクリートの建物がある一方、大銀杏を中心とした、背の高い木々には、やはり伝統と自然の美しさを感じ取ることができます。演じている間、舞台の上で大変心地よく、また有り難く思っていました。

日本の伝統文化を大学のキャンパスの中から発信するということは、大変大きな意義があるのではないか。なぜなら、室町時代に生まれた能というのは650年もの歴史を持っていて、それが今までずっと継承され、今日に息吹いている。そのような文化的な価値を海外の方に観ていただくことはとても素晴らしいことです。塾の150年の歩みの中で、日本の伝統を考えてみようという理念が、私は大変素晴らしいと思いました。

長谷山 まさにその通りですね。

坂井 「土蜘蛛」という曲は、観ていて比較的分かりやすいんですね。平安朝のお話ですが、(源)頼光に虐げられた部族の方たちが、頼光への恨みを晴らさんがために土蜘蛛の精となって出てくる。でも、土蜘蛛の精は不思議なことに能の世界では僧侶の形で出てくるんです。僧侶の形をしていた土蜘蛛の精が、頼光に土蜘蛛の糸の千筋を投げながら亡き者にしようとするんですね。

土蜘蛛というのは、もともと葛城山で大和朝廷に反発している、ある部族だったわけですが、部族自体がなくなってしまってその恨みが残っているわけです。ただ、壊しても、壊したままではなく、精神的なアフターケアみたいなことが行われるのが日本のいいところです。「葛城」という曲がありますが、これは葛城の神を祀って、これ以上、祟(たた)りをしないでくださいよ、という日本人の鎮魂と救済の精神構造を表している能なのです。ヨーロッパでは負けると徹底的に虐げられる。日本は敗れたものであっても神として、どこか崇めようという心のやさしさがあるのだと思います。

先ほど塾長が言われたように、日本が戦争に負けた後、昭和22年に塾創立90年があり、戦災で焼け残った帝国劇場でいろいろな学生の催しをやろうということになり、伝統ある歌舞伎や能もやろうということになったのです。実は妹がその直前に亡くなっているのですが、しかし、父はそのことを学生や職員には伏せて、朝から晩まで稽古したのです。

そういう思い出の曲を、150年の記念に三田の山で、海外の方たちがいらっしゃる中で、演じさせていただいたということは身に余る光栄でした。上演後、時計の針は翌日にならんとしているような頃、海外の学長の方々とお話しする機会がありましたが、皆さまよかった、よかったと言ってくださったので、私も1つの責任は果たせたなと思いました。

長谷山 本当に印象深い行事でした、今おっしゃったように、怨念を持ったものが、勧善懲悪で征伐されるだけの存在ではなく、鎮魂の対象になっていくというやり方は、やはり日本特有なのだと思います。

坂井さんがシテをお務めになって、まず怨念を動きの少ない静の型で示して、後半では華やかな見栄えもする動きもある。静から動へという日本の芸の、そして能の1つの神髄に海外からのお客さまも感銘を受けたのではないか。西洋のオペラなどとは違う日本の精神的な世界を感じ取っていただけたのではないかと思います。

また三田の山というのは、「慶應讃歌」の中に「第二の故郷三田の山」という歌詞があるくらいで、義塾関係者にとって精神的な故郷と言える三田の山で祝賀の能を演じてくださったということは、義塾の歴史に残る貴重な行事であったと思います。

坂井さんはそれ以前にも、日吉における教養研究センター主催の新入生歓迎能とか、慶應観世会への指導で、直接塾生の教育にも携わっていただいている。そうしたことを含めて長年のご貢献に対して、2013年に慶應義塾から名誉博士称号を差し上げております。実は慶應義塾から名誉博士称号を授与した日本人としては、長い歴史の中で坂井さんは6人目なんですね。

坂井 恐れ多い話です。

慶應義塾の社中協力

長谷山 ご自身の塾生時代について、強くご記憶に残っていることがおありでしたら、お伺いしたいと思います。

坂井 私の場合、幼稚舎から慶應に行っているのですが、能の稽古は3歳頃からいたしておりますので、学業専従というわけにはいかないんですね。小さい時分から、学校の勉強もしなければならないし、家へ帰ると舞台の稽古もしなければならない。

戦争に負けて、日本が荒廃して、外地から学徒動員の方たちが帰っていらっしゃいましたよね。皆そのとき謡曲とかに関心を持っていらっしゃる。どこか人間は切羽詰まると、文化的な潤いみたいなものが欲しくなるのでしょう。故国に帰ってきて、自分の価値観を問い直されるような局面に遭い、謡や能という日本の古典を求めるようになった。それらは西洋の演劇と違って、最後は自分自身の心の内も救済されるんですね。

ですから、外国人が日本の演劇を下敷きにして作ると、どうも最後が違う。ドイツの「谷行(たにこう)」(ブレヒトが能の「谷行」を下敷きに書いた「イエスマン、ノーマン」)というのは、最後は死んでしまう。でも、日本のものはやはりどこかに魂があり、その中で救済される。西洋と日本との文化の違いなのですね。戦争で極限を体験された方たちは、そのことにお気づきになったのだと思います。

慶應義塾の創立90年のときは、陛下(昭和天皇)がここの丘の上にいらしたんですね。慶應というのはよその大学と違って、そのような周年行事などで何かキュッと集まるという、人間の絆が深いですね。やはり慶應義塾独特の強い連帯感があるのではないかと思いました。

創立90年のときの父の思い、学生の先輩への思い、それから150年のときに、三田で私が舞わせていただいたこと……、慶應義塾という形は不変ではあるけれど、様々に模様替えをする。1つの神経系統のようなものなのだと思います。これが福澤諭吉先生がお考えになっていた独立自尊なのではないか。そんな中で切磋琢磨する人たちが集まれば、人と人を紡ぐことができます。そういう意味で、僕も塾を出てよかったなと思いました。

長谷山 慶應義塾という名前に「義塾」が含まれているのは、理念を共有する民間の有志が力を合わせて学校を作り上げていこうということでした。またその形態を会社と呼び、そこから塾生、塾員、また教職員、全ての関係者が集まって慶應義塾社中を作った。そこから社中協力の精神で慶應義塾を守り立てていこうという機運が出てきます。おっしゃるように、卒業生、関係者の絆がとても強いのが慶應義塾の特徴だと思います。

三田会を見ても、おそらく日本の大学の中でこれほど同窓会組織が盛んな大学はありませんし、全国津々浦々、また海外にも三田会があって懇親を深めながら地域に貢献し、母校を支援していくという伝統があります。現在、国内に800、海外に70の三田会があります。創立者の福澤諭吉は「人間交際(じんかんこうさい)」を意図的に大事にし、自身も社交には力を入れました。日本発の本格的な社交クラブである交詢社の創立者にもなっています。

『豊前豊後道普請の説』という文章の中で、「世の中に最も大切なるものは人と人との交り付合なり。是即ち一の学問なり」という言葉を残しています。地方で卒業生の集まりがあって声をかけられると、気軽によしよしと言って出かけて行く。そうすると、各地で卒業生が福澤先生を囲んで盛り上がるという、創立以来の伝統が今の卒業生の絆の強さ、社中協力の精神というものに続いているのだろうと思います。

坂井さんがお父上と2代にわたって、時を超えて義塾で「土蜘蛛」の上演をされ、また学生を支援してくださったことも、慶應義塾におけるそうした人と人とのつながりという伝統の反映ではないかと感じました。

坂井 私もまったく同感です。

日本文化にある「救済」

長谷山 もう1つ、先ほどおっしゃった能と西洋の演劇との比較は大変おもしろいと思いました。日本の演劇も文学もそうですが、人間を見るときに、絶対的な善も悪もないし、善も悪も転化するもので、1人の人間の中に善もあるし、悪もあるという認識を前提にして、人間というものを多面的に見ていますね。そこがやはり最終的には「救済される」という発想につながっていくのかなという気がしました。

坂井 西洋の場合、悲劇は悲劇で終わりますね。「ハムレット」もそうです。あの主人公は不幸な死を遂げる。でも、能の場合は不幸な死であっても、どこか最終的には救済的なものが内在していて、ご覧になった方もそれを感じられるのだと思います。それはある種、禅の教えとか、神道の影響とか、日本人の宗教観というのは多岐にわたってその影響を受けている。それが、日常生活の中にずっと根付いているのだと思うのです。

ハロウィンはすっかり日本に根付きましたね。私は1988年にワシントンD.C.に行き、「道成寺」を舞った後、はじめてハロウィンの仮装を見ましたが、当時、日本ではほとんど知られていなかったんです。それがこんなに日本に定着し、街の真ん中で仮装する人がたくさん現れるとは思いませんでした(笑)。ですから、日本人には意外と貪欲性みたいなものがあるんじゃないでしょうか。

長谷山 ハロウィンの騒ぎを見て思うのは、西洋から入ってきたものを、その本質とは別に日本風にアレンジして、1つのお祭りにまでしてしまうのが得意だということです。バレンタインデーも、本来のヨーロッパにおける意味とはまったく違う形で、国民的行事と言っていいものになってしまっている。

万葉の頃で言うと、『常陸国風土記』などに歌垣の風習が紹介されていますが、春のこれから耕作が始まる頃、あるいは秋の収穫の頃に、常陸ですと筑波山に男女がお弁当を持って行って、歌のかけ合いをして求愛をする大変華やかで楽しい行事です。

日本人は生まじめで、人前であまり感情を表出しないと言われていますが、歴史的に見ていけば、切り替えが上手で、一生懸命農作業をする期間がある一方、お祭りでは爆発的に感情を表して楽しむというところがあって、今、ハロウィンなどに、そういう気質が噴出しているのかなという気はしますね。

坂井 お祭りというのは、信仰的なものの1つの根源みたいなところがあって、生活が今みたいに恵まれていないときは、凶作もあるだろうし、やはり神にお願いする。そういうところから芸能というものも生まれてくるのだと思います。日本人の多岐にわたる文化を吸収する民族性というのは大変貴重なものではないかなと思いますね。

「型」と「個性」

長谷山 日本文化と西洋文化の違いということから、国際的な文化交流という視点で少しお話を伺えればと思います。坂井さんは世界各地で能の上演をなさっていて、能を通じての国際交流にも大きな貢献をされています。フランスではボルドー文化祭、韓国ソウルの第3世界演劇祭、米国のワシントン・ナショナルギャラリーにおける日米両国政府主催「大名美術展」、並びに「ブッシュ大統領就任祝賀能」など。ロシア政府からは日露両国首脳の基本合意で開催された「ロシアにおける日本文化フェスティバル2003」や「サンクトペテルブルク建都300周年」記念事業における記念公演などの功績に対して、功労賞や国家が海外の人に授与する最高の友好勲章も授与されていますし、また中国では日中国交正常化30周年の年に釣魚台国賓館や故宮太廟で公演された後、何度も中国で上演なさっておられます。

能が表現する人間の情念、業の深さ、それが、また救われて転生していくというようなものを観た海外の観客の反応はいかがなのでしょうか。

坂井 モスクワのボリショイ劇場と、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で「隅田川」を舞ったんですね。イタルタス通信の社長がイグナチェンコ元副首相で、VIP応接間に通され、特別記者会見を用意いたしましょう、と言う。私はロシア語に通訳する人に、まず「隅田川」のあらすじをお話しして、それから見どころ、そして最後にはこういう具合に曲は終わるとお話ししたんです。

そうしたら、まだ23、4のいかにも若い男性が「『隅田川』の曲はどういうお考えでお舞いになるんですか」と質問した。「それはさっきあらすじをご説明したでしょう」と言うと、「いや、そうじゃないんです。私がお聞きしたいのは、坂井さんが『隅田川』をどういう具合に理解し、どういうふうに表現されているかを聞かせてもらいたい」と。日本でも、ここまで質問する人はいません。「それはよく質問してくれた。あなたは素晴らしいね」と申し上げた。

「隅田川」というのは、日本の東と西の間に流れている。昔は辺境の地で、その川を渡るのは大変なことで、あまたの事故も起きてくる。都から来た女性が子供の跡をたどって来ると、再会したのは墓の中の自分の子の姿であった。母の悲しみはいくばくか、ということだけれど、母の悲しみというのは普遍的なもので、「隅田川」というのは、雨のつゆがずっと下り、海に注ぎ、また滔々と何百年、何千年、川は流れている。その隅田川で起きた物語は恒久的な人の心に通じるもの。だから、自然と人間の心がどこかで結ばれてきて、その悲劇をお互いに認識しなければいけない。そのへんが僕が考えている「隅田川」の全体像だと言ったら、ちゃんと分かるんですよ。

長谷山 とてもおもしろいと思うのは、物語は昔からまったく内容が変わっていない。能の曲としても型とか様式というものは同じである。けれども、やはり演者によってそれぞれ違う話になっていくわけですね。そのロシアの若い男性は、それぞれの演者の個性や思想がどういうふうに表現されるのか、ということを聞きたかったのですね。

坂井 そうですね。それがやっぱりものの本質と役者を観る感性ですね。教わった通り、型通りのまますっと終わってしまうのでは当然駄目なんですね。

サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場のワレリー・ゲルギエフ総裁と親しいんですよ。来日の忙しい間を調整して、私の「孌重荷」を観にみえて、楽屋に私を訪ねて「能はわずかな動きで心の深淵を表現する」と言ってのけた。彼は英語で私のことを「マイ・グッド・フレンド」と人に紹介するのですよ。

私はゲルギエフの指揮が大好きなんです。あの人が振る演奏は、同じ作品でも翌日聴くと違うんですよね。自身が心の内に感ずるところが観客に伝わるのです。悲しみの部分というのは、今日は抑えて、もっと深いところを少しえぐり出してみようとか、盛り上げるところは内面に重きをおこうとか。常に創造性があり、生き生きとしている。バッハの指揮をする人は同じ譜でも日によって違うべきだと思います。能も当然、そうでなくてはいけないわけですよ。一期一会の価値なのですから。ただ、未熟な者がそれをやっては駄目です。それを目指す、たゆまぬ研鑽と情熱の中で生まれるものだからです。

バイオリニストでも、チェリストでも管楽器奏者でも、技術を磨き上げてきた人が集まって演奏するから成り立つので、その人たちの特性を引っ張り出しながら、交響曲を作り出すというのは生半可なことではできないですね。能も、やはりシテがいて、笛・小鼓・大鼓、太鼓、ワキ方が謡の文句1つ違わないんだけど、謡の言葉の中身をいかに互いに共有するか、以心伝心がやはり一番大切なのです。よく声に出して伝えた、だけでは駄目なんですね。

長谷山 どうしても観客のほうから見ると、舞台の一番中心になるシテのほうに目が行きがちですが、その周りの人、すべてが舞台を支えていて、1つの芸術が生み出されるということですね。

坂井 ええ。だから、よく総合芸術と言いますが、囃子方もそうですし、ワキももちろん、ワキについているワキツレの中の1人が下手だったら、舞台はぶち壊しになって、緊迫感がなくなってしまう。

長谷山 その中から生み出されたものは世界のどの民族にも通じる普遍的な芸術となっていく。言葉が分からない観客も何か心に響くものが出てくる。これは人間に共通の喜びや悲しみを感じ取れるということなんでしょうね。

坂井 そうですね。ロシア公演の際、文語体と口語体の2つをロシア側に渡しまして、向こうの方が翻訳し、私の演じた過去の公演のDVDをお渡ししました。そうすると、ワキ方の「隅田川」の船頭の言葉が流儀によって違うんですね。それを指摘してきてどちらが正しいのか、と言うのです。文化交流というのは舞台が出来上がるまでのそういったプロセスが一番大切なんですね。そうやって、お互いの理解度が深まっていく。

これが文化交流で一番やらなければいけないことで、例えばロシアだったらチェーホフの「桜の園」などについてお話をしていくと、必ず接点があります。そうすると、日本の能はロシアのスタニスラフスキーが唱えたリアリズムとはちょっと違うんじゃないか、と思い込んでいたことが、しかし、表面的な演技ではなく、実は演ずる人の「心の内」にある普遍的なもの、大切な心の表現力だと気づくようになる。そのように、それぞれの国を理解していく上で文化力と多面的視点が不可欠なことではないかと思うのです。

1人の人間が自分の尊厳をもって、自信をもって身に付けてきたものをお話しする。そういう人たちが集まって交流が初めてできるんですね。社会もそういう方たち同士でそれなりのお話ができれば、福澤先生の言われた通り、1つの大きな理解を生むことができるのだと思います。

中国での国際交流

坂井 私は日中国交正常化30周年(2002年)のときから5年おきに中国で公演をしているのですが、30周年は、釣魚台国賓館と故宮の太廟で能を舞っております。そのときにお話しして、文化のことがよく分かる方だなと思った方が国務委員・新聞弁公室長の趙啓正さんです。彼はそのとき党常務中央委員の重要職でした。中国では珍しいくらいバランスの取れている方で、びっくりしたんですが、中国科学技術大学で核物理学を専攻した原子物理学者なんです。

長谷山 そうですか。では、理系の人なんですね。

坂井 そうなんですね。意外と理系の方が文化的なものに強い関心を持つ傾向がありますね。

長谷山 昨年の8月末、日中平和友好条約締結40周年記念で、北京で日中大学生1000人交流会という会がありました。中国の大学生500人と、日本の大学生500人が北京大学を舞台にいろいろな交流をして最終日に式典があり、李克強首相、安倍晋三首相のメッセージが代読され、日本から当時の林芳正文部科学大臣、それに私が日本の学長を代表し、中国側は陳宝生教育部長と北京大学の林建華学長が祝辞を述べられました。慶應義塾からも20人ほどの学生が参加しました。程永華駐日特命全権大使が大変力を入れて実現されたものでした。

北京大学には、5月の北京大学の創立120年の式典にもお招きいただいたんですが、30年ぶりに訪れた機会でした。30数年前の北京大学というのは、広大なキャンパスの中で、学生ものんびりしていて、学食へ行きますと、伝統的なお椀で、お箸で食べていたのです。ところが、昨年行きましたら、カフェテリアはメニューもiPadで注文して、決済は全部スマホで、IT化されている。北京大学は魯迅が教授を務めたりしていて、もともと文系の強い大学ですが、今は医学部も充実しているし、キャンパス内にはコンピューター科学センターなど理系の大きな研究棟も次々とできているのでびっくりしました。義塾の医学部も北京大学の医学部と本格的な交流を始めています。

昨年の、友好条約締結40周年記念で、能の公演も企画されていたと伺いましたけれど。

坂井 ええ、20年来、親しくしている程永華大使からのお話で、2017年、日中国交正常化45周年のフィナーレを能と上海の崑劇と京劇の競演で12月19日、20日両日、同じ演目で日本の国立能楽堂で開催いたしました。そして2018年9月26日、日中平和友好条約締結40周年記念公演を是非中国で演能してください、というお話で西安に向かったんです。

公演前には5月28、29、30日、公演劇場の決定、関係者との話し合いなどで西安へ向かい大忙しでした。西安市党書記ともよく話し合い、歓迎の宴を催していただき、専用特別車両を3日間用意してくれました。歓迎の宴から帰国までの宴会の会食は、いつものことながら体力もいるものだと思いましたが、人と人との親しい信頼関係は互いにこうして生まれるのだとも思いました。

長谷山 古の唐の都長安ですね。

坂井 そうです。そこで「楊貴妃」を舞いました。西安国際大学という大学で、日本語を勉強していらっしゃる方が結構いるので、そこでは2時間くらい講義しました。向こうの副学長さんがご熱心で、講演は立ち見が出るほどだったんです。

長谷山 今回の西安では京劇の上演もあったということですが、能楽と京劇とが同じ場で共演したときの観客の反応はいかがでしたか。

坂井 京劇は清朝の時に盛んになりました。つまり首都北京で根付きましたが、元来安徽省で発展したとも聞いています。明朝の頃は叙情豊かな美しい、静かに鑑賞するような崑劇(崑曲とも言われる)が主流でした。時代的には能が生まれた時期と同じで、世界無形遺産第1号に能楽とともに崑曲も認定されたのです。

そこに騎馬民族が入ってきて動きの激しい京劇が出来上がってくる。時代は歌舞伎とほぼ同じなのです。ですから、歌舞伎と同じように「ハオ」って掛け声をかけるんです。

長谷山 中国の観客が、静の代表である能楽と動の代表の京劇を両方1度に観られるとなると、いろいろ感ずるところは多かったのではないでしょうかね。

坂井 私は崑劇・京劇と必ず一緒に競演をいたしてまいりました。京劇も観るというより歌が重きをなしています。京劇のほうは「貴妃酔酒」、主人公は楊貴妃。いつも競演しましたのは京劇界の第一人者の梅葆玖さん、お父様は、かの高名な梅蘭芳さんです。梅派は貴婦人役の演目が見事で有名でした。梅葆玖さんとは北京ではステーキとワインで互いに心からの交友が続きました。そしてCCTV1チャンネルで約30分、2人で芸のお話をしました。東京にみえるときは、まず私に会いたいと言い、そして赤ワインとステーキのお定まりの会食です。私より少し年上で82で亡くなりました。まだあの歌声が耳に残り、胸が痛みます。

お客さんは最初は面食らったと思います。うちの長男(坂井音雅氏)が飛び上り安座といってジャンプし、腰から舞台に落ちるのが上手いので、2、3メートル飛んでパッと着地したら、そこで万雷の拍手がくる。ここは拍手する場所じゃないんだけど(笑)。

長谷山 歌舞伎と違って「何々屋」なんて掛け声がかかることは能楽ではありませんものね。

世界標準の中で個性を発揮する

長谷山 今、大学も学生もグローバル化の中でどのように生きていくかが課題になっています。

グローバル化というのは、ヒト・モノ・カネが国境を越えて流動する中で共通ルールで平均化していく波のように感じます。そうしますと、世界標準に適合しないとやっていけないわけですが、しかし、逆に何か個性を持たないと埋没してしまう。

先ほどの「型から個性へ」という話と共通すると思うのですが、私は柔道がそれを象徴しているなと思っています。国際化された初期の日本柔道は、日本のお家芸ですから大変強かった。ところが世界各国が柔道をやるようになり、国際連盟もでき、そこでルールがどんどん変わっていくと、一時期「これは柔道ではない」と日本は主張しました。柔道着の色が白でなくてもよくなったとか、自分から技を仕掛けないと減点になるというようなことですね。

もともと柔道というのは、敵の襲撃から自分の身を守るものなので、自分から攻撃して相手を倒すということは本質ではない。しかし、それをいくら言っても、世界のルールがそうなると従わざるを得ない。では、もう世界大会やオリンピックにも出ないで国内で孤塁を守るのがよいのかと言えば、そうではなく、やはり世界のルールに適合しながら日本柔道の個性を出していくことが重要なわけです。その努力の甲斐あって、最近ではまた日本柔道が活躍できるようになっている。

おそらく大学も同じで、世界標準に従いながら個性を出していくということが必要です。慶應義塾の個性というのは、やはり独立自尊の人材を社会のあらゆる分野に送り出していく、社会のいろいろなところに必ず慶應の卒業生がいて活躍している。こういう人材育成が特徴だと思うんですね。

坂井 その通りですね。

長谷山 財界の慶應とよく言われます。確かに、2013年のTHE(タイムズ・ハイヤー・エデュケーション)の大学ランキングで、義塾は世界的な大企業のトップ輩出数で世界第9位の評価を受けました。しかし、皆が財界に行くわけではなく、いろいろなところで活躍しています。例えば公認会計士試験の合格者数では、慶應義塾は43年間、連続日本一です。2013年には司法試験で合格者数と合格率と共に日本一になる実績を上げています。政界、学界、芸術界、スポーツ界などいろいろな分野で卒業生が活躍している。これが慶應義塾の個性だと思っています。

スポーツでは、これまで慶應からは130人を超えるオリンピック、パラリンピックの選手が出ています。特に大正9(1920)年のアントワープ大会では、テニスのシングルスとダブルスの両方で熊谷一弥選手が銀メダルを獲得したのですが、実はこれが日本人メダリスト第1号でした。昨年のアジア大会でも塾生・塾員が大活躍しています。金メダルに限っても、陸上の山縣亮太君、小池祐貴君、女子フェンシングの宮脇花綸君、女子サッカーの籾木結花君、セーリングの土居愛実君と5人のメダリストが誕生しました。

六大学野球では惜しくも三連覇を逃してしまいましたが、一昨年の秋と昨年の春と2シーズン連続優勝し、塾高野球部が春と夏、連続で甲子園に出場したり、と活躍をしてくれています。

カナダのブリティッシュ・コロンビア大学の学長が日系のサンタ・J・オノさんという方なのですが、そこの野球チームがカナダで1校だけ全米の大学野球のリーグに入れてもらっている強豪校なんですね。ある国際シンポジウムでオノ学長にお会いしたときに、慶應も野球が強いそうだね、自分が野球部を引き連れていくから勝負しようじゃないかというオファーがありまして、昨夏に来られて親善試合をしました。

私が嬉しかったのは、そのときに野球部の学生と、2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて学生が作っているボランティアチームが、ブリティッシュ・コロンビア大学の野球部の学生たちを鎌倉に連れていったり、いろいろな日本文化の体験をさせてくれたんです。つまり、文化的な国際交流も一緒にやってくれたんですね。スポーツを通じて、文化的な広がり、そして、また人の広がりを作れるという力は、慶應義塾の文武両道の精神に通ずるところがあります。

坂井さんは積極的に世界に向けて能楽の発信と普及活動をしておられます。能というものがグローバル化の中でどのように守られ、また変化していくか、どんなふうにお考えになっていらっしゃいますか。

坂井 能というのは、明治維新までは徳川幕府で保護、育成されていたんです。各藩、石高によって能面を持つことが義務付けられ、役者を召し抱えるということや能舞台を作ることも決められていた。

加賀藩なんて百万石ですから、あそこは装束から役者から揃えていたわけです。仙台の伊達藩は将軍秀忠が贔屓された喜多流を、細川管領家は金春流をずっと召し抱えていた。しかし、細川家は幕府にお覚えめでたい形態をとることが望ましいと、喜多流も入れて、うちは二流召し抱えますとした。

ただ、幕府は中央集権化という考え方で、各流派のトップを江戸の中心に全部集め、屋敷を与えた。将軍指南役は観世流だったのですけれど。

能楽の普及・発信という課題

長谷山 江戸から明治になるときには、それまでのシステムが壊れたわけですから、大変だったのでしょうね。

坂井 それはもう、廃藩置県になり、どこが能楽を保証してくれるのか。日本の文化ということで考えれば、朝廷にも禁裏にもお能を司るところがあり、舞台も用意できるような形になって天覧能をしょっちゅう京都でなさっている。でも、何か能の存続のために考えなければ、という発想にはならなかったみたいですね。お城を壊したのと同じなんです。能舞台を持っていると、にらまれるのではないかと。

明治大帝の嫡母である英照皇太后はお能が好きだったんです。小さい時分から歌っていらっしゃる。じゃあ、陛下とともになぐさめようと、岩倉具視が使節団で西洋から帰ってきた後、青山御所に能舞台を建てた。それが能の復活のきっかけだったのです。

諸外国の文化に触れて、日本は西洋化することが必ずしも近代国家になる処方箋ではない。日本には培った貴重な伝統と魂があるではないか。近代化と日本の精神的自立は、植民地化されたアジア諸国の不幸を考察すべきだ、という理念のもとに、かの西洋化された鹿鳴館文化は、あっという間に消滅したのです。

てんでばらばらに散っていた能役者を集めて青山の御所で能を鑑賞した。扶持を離れた能楽師は大東京に来ればなんとかなるという意識があるので、国中から優秀な脇師、狂言、囃子方が集まってきたんですね。

旧大名は皆、大名ではなくなりましたから、外国の華族制度みたいなものを取り込み、華族会館で能の稽古を始めることになった。そうしたら、やりたくてうずうずしていた方がいっぱいおられたんですよ。それで芝の能楽堂で能楽を開催することになる。これは靖国神社能楽堂として今でも残っています。

長谷山 そうすると、危機を乗り越えるときに、新しい形にしたり、能、謡を経験してみたい人にお稽古をつけたり、普及に力を入れる。そうやって理解者を増やしていく努力をされたわけですね。

坂井 お一人では稽古できませんね。誰かに習ってみようと、ときの能楽師に習いますね。そうすると、今度は皆で楽しんでみようと同志の人たちが生まれます。そして、そのお稽古場の中から発表会を催します。明治時代になると次第にこういう具合に浸透していきます。一番熱心なのは商人の方です。国の重要職とのお付き合いで一緒にお稽古をなさるわけです。能舞台を個人で作るようにもなった。

ただ、取り残したのは学校です。明治政府が官制の学校を作りますが、音楽は西洋音楽をカリキュラムにした。そこに教育の一環として室町時代には「文化振興の柱」とされ、江戸時代には「式楽」の位置付けをされた国芸の能を入れなかった。やはりこれが問題なんです。ですから、親父がやり始めました昭和12年に、今後は若い人たちにそういう伝統芸能を体験してもらおう、ということで一番最初に行ったのは慶應義塾の観世会です。

長谷山 それはやっぱり大きいと思いますね。明治の国家教育というのは、欧風化と富国強兵なので、学校教育も体育、武道を盛んにし、伝統的な文化はあまり取り入れていなかった。

坂井 学校教育の中で取り入れたのは西洋音楽のみだったんですね。しかし、戦後は学校教育の中には文部省の指導要領にずっと能が入っていたんですよ。それがあるときから一時、20年間消えてしまった。マークシートテストが原因なんです。その結果が学級崩壊です。

これでは駄目だ、載せるべきと言って、ようやく2002年から小学校、中学校、高等学校まで一貫して指導要領に能を載せました。最初は日本の和楽器を勉強することが名目でしたが、小学校の国語の授業は狂言の「柿山伏」が入り、中学校の国語・社会には「お能とは」の副読本が出ています。高等学校になったら日本史、国語の古典として扱われています。

選択科目の音楽の中で能の謡が1つの教科に入って、あれを謡うと点数がもらえるんですよ。でも教える先生がいない。今度オリンピック・パラリンピックの年に指導要領が変わりますので、そのときに、日本の文化発信のところに位置付けて、学校教育の中でも能などの古典芸能を入れ込んでいかなければいけないと思っているんです。

私はNPO法人白翔會の活動として、学校教育でできない部分を少しでもフォローできればと思い、出前授業や講演を行っています。舞台で演じること以外に、能のこれからを考え、国内外に普及・発信することは、ユネスコの世界無形文化遺産第1号に認定された能を演じるものの務めとして、早急にやらなければならないと思っています。

「人間交際(じんかんこうさい)」という哲学

長谷山 その通りだと思いますね。東京オリンピック・パラリンピックでは、慶應義塾は英国のBOA(英国オリンピック委員会)とBPA(英国パラリンピック委員会)と提携しまして、日吉キャンパスで英国の選手団が事前キャンプをいたします。そのときに、ただ場所をお貸しするだけではなく、一貫教育校生、大学生らと、コーチング、スポーツ科学の研究を共にしたり、学問の府としてオリンピック・パラリンピックにどう関わるかを模索するようなプロジェクトを行う予定です。元々、古代オリンピックは体育と芸術の祭典でした。

能楽も2020年東京オリンピック、パラリンピックの応援プログラムとして認定されておりますね。そういった中で、日本の文化をどう発信していくかというのは非常に重要だと思います。

坂井 その通りですね。私どものNPO法人白翔會はオリンピック・パラリンピック憲章に明記されている「東京2020文化オリンピアード」の認証を受けました。本年から来年へ、そしてレガシーとして価値あるものを残し、未来へ発信すべく検討している段階です。

長谷山 教育の問題が出ましたが、世界で通用する人材ということで英語教育の強化などが言われていますが、この場合の英語というのは中世ヨーロッパの大学でラテン語が学術共通言語になっていたので、学問交流が容易だったことを念頭に置くと同時に、英語を1つのスキルとして、自国の歴史や文化を正しく海外に発信できなければいけないし、発信すべき中身を持たないと話にならないという認識になるわけです。

今、AIやロボティクスなどテクノロジーもどんどん進んでいて、テクノロジーが人類を脅かすのではないかという声もあります。確かに膨大なデータを駆使して論理的に結論を導き出すという点ではAIは人類よりも上をいくと思いますが、一方で、過去のデータが役に立たない事態になったときに、人間が持っている感性や直観力、あるいは知性を総動員して、想定外の事態に対応しなければならない。テクノロジーと人間の調和を図ることが可能な人材を育てることが高等教育機関、特に義塾のように人文学と科学両方の伝統を持つ総合大学の役割だと思います。

異文化理解は、ただ相手のことを理解するだけではなく、自分の文化もきちんと伝え、また異文化間で摩擦が起きたときに、平和的に乗り越えていくことですし、福澤諭吉の強調した「人間交際(じんかんこうさい)」に通じることだと思うのです。これは、皆で仲良くワイワイやればいいという意味では決してなくて、『学問のすゝめ』の中では、工業といい、法律といい、学問といい、全部人間交際のためにするものだし、それがなければ学問も無用のものだと言っている。そして、交際を重ねていくと、人情が和らいで軽々に戦争することもないと主張しています。

「人間交際」を世界中でやっていくことで争いも防げるんだという、これはもう政治哲学と言ってもいいと思います。そうした伝統を持つ慶應義塾の中で、戦禍を越えて能楽の伝統を学生たちが守り、それを支援していただき、現在の学生にもつながっていったわけです。伝統を継承しながら、時代の変化に賢く対応していく学生が育ってくれればと思っています。

「独立自尊」という精神

坂井 学生の皆さんもそうだと思いますが、日本全体で、やはり個々人がそれぞれの考えのもとに行動し、ものを考える力ということを幼児教育の間から根付かせなければ駄目だと思います。

私は幸い、能というものがございましたので、小さい時分から勉強しておりました。本も読み、その中で自分自身が何を考えるか、どういうことを相手とお話ししなければいけないかを考えてきました。自分の気持ちを押し付けることではなく、話をしていくことでお互いの理解が生まれる。だから教えることと育てることが、やはり一番大切だと思うのです。今の幼児教育を拝見していると、お母さまが大変大切にお育てになるのはいいかもしれないけど、どういう具合に育てているのか、私はどうもちょっと心配なところがございますね。

もう1つ、これからAIの時代になって変わってくるところもあるかもしれない。「安達原」という能がありますね。あれはみちのくの鬼婆の伝説です。あの寝屋の秘密はいったい何なのだろうか。もしかしたら、その人が体験し、反省しているものだったかもしれない。秋の木枯しが吹くみちのくの一軒家に風が吹きすさむ。そこで女が一夜の宿を親切心から泊めてあげる。この話の語りは、中の型は同じであっても時代によって変わってくるんだと思います。

バッハの時代から音符は変わりませんが、表現方法が深くなるということがありますね。現代の能は安易に演じては絶対いけないんです。よく僕は「守る」ということを言います。それからもう1つ、「破る」ということがあるんですね。型は昔から教わった通りでも、あるときに別な解釈をし始める。そうすると、ちょっと「破る」という感じになります。この曲はこうなんだ、でも、私はこう見るということです。

世阿弥の本を読んでみますと、あれはそう難しい話ではないんです。役者としての技術、芸能をいかに開発し、またその高みを目指すかということが書かれています。だから読み方によったら、ものづくりのイノベーションや経営学にも相い通じるんですよね。

長谷山 それは大変おもしろいですね。明治政府が「education」を「教育」と翻訳したときに、福澤諭吉はものすごく反対して、「発育」と訳すべきだと言うのです。

坂井 ああ、そうでしょうね。

長谷山 「education」というのは、その人間が本来、中に持っているものを引き出すのであって、だから自ら伸びる発育だ、植木職人が必要な分だけ水をかけて木が本来持っている力を伸ばすのと同じだと言っています。

今個性、個性と言われますが、ただ、個性だけでわがまま勝手にやっていたら、学び取ることもできないので、そういう意味では、やはり最初は型というものをきちんと学ぶ。そして基本ができたら自分の持っているものをそこから発露させていく。それは師匠や教師によって引き出されることもあるし、自分から気が付いて何か新しいものを生み出すこともある。だから、きちんと基本を学ぶ教育と自らが伸びていく発育の両方が揃うと、本当にいい人材育成になる。これは能の世界も大学の世界も同じかもしれませんね。

坂井 長谷山塾長がおっしゃる通り、福澤諭吉先生の精神のもとにはそういうものがあったのだと私は思います。

長谷山 独立自尊というのは本当にそういう意味だと思います。やはり慶應義塾の教育や伝統を一言で表してみろというと、独立自尊という言葉にすべてが凝縮されているかもしれませんね。

今日は長時間にわたり、有り難うございました。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2023年1月号