【特集:新春対談】 新春対談:夢を育てる学塾 | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:新春対談】新春対談:夢を育てる学塾

三田評論ONLINEより

  • 福澤 克雄(ふくざわ かつお)

    TBS テレビディレクター、演出家。1964年生まれ。86年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。塾生時代は蹴球部に所属し、大学選手権、日本選手権で優勝。89年TBS テレビ入社、ドラマ演出家として活躍。2013年演出の『半沢直樹』は数々の賞を受賞。『私は貝になりたい』(08年)、『祈りの幕が下りる時』(18年)など映画監督としても活躍。19年は『ノーサイド・ゲーム』が大きな話題となる。福澤諭吉の玄孫。

  • 長谷山 彰(はせやま あきら)

    1952年生まれ。75年慶應義塾大学法学部卒業。79年同文学部卒業。84年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。97年慶應義塾大学文学部教授。2001年慶應義塾大学学生総合センター長兼学生部長。07年文学部長・附属研究所斯道文庫長。09年慶應義塾常任理事。2017年慶應義塾長に就任。現在、日本私立大学連盟会長などを兼務。専門は法制史、日本古代史。

『ノーサイド・ゲーム』の影響力

長谷山 新年おめでとうございます。今日はどうぞよろしくお願い致します。

福澤 おめでとうございます。こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。

長谷山 福澤さんといえば、今や押しも押されもせぬテレビドラマのディレクター、演出家として有名ですが、それに加えて慶應時代、ラグビー日本一に輝いた時の選手だったということもよく知られています。

つい先日まで、日本はワールドカップラグビーで大変な盛り上がりを見せましたが、私が感じるに、今回のワールドカップがこれほどの盛り上がりを見せた背景には、その直前に放映された、福澤さん演出のテレビドラマ『ノーサイド・ゲーム』の影響があるように思うのです。ワールドカップではルールはよく分からないけど、とてもおもしろくて興奮したというファンが、私の周りでも多かったのですが、その人たちは大抵『ノーサイド・ゲーム』を見ていました。

そして、何より慶應義塾の後輩である元日本代表主将の廣瀬俊朗さんを俳優に起用し、番組の中で現役の日本代表経験のあるラグビー選手が、迫真のプレーを見せてくれたことも、この非常なラグビーの盛り上がりに一役買ったと思います。そのあたりは、ドラマの企画段階で狙いはあったのですか。

福澤 『ノーサイド・ゲーム』のきっかけは、4年前のワールドカップ・イングランド大会日本代表チーム「エディージャパン」の団長だった稲垣純一さんとお話ししたことから始まります。

稲垣さんは中等部から塾でラグビーを始め、サントリーにラグビーチーム(サンゴリアス)をつくった方で、僕も慶應高校や大学の時にコーチをしていただきました。その稲垣さんからイングランド大会後に、「ちょっと会わないか」と言われたのです。

イングランド大会は、ウルグアイ、アルゼンチン、ジョージアといった、それほど有名なチーム同士ではない試合もすべて満員だった。ところが、日本ラグビー協会のリサーチでは、今度の日本開催のワールドカップでは、こういった国々の試合は、スタジアムの半分も埋まらない危機的な状態なんだ、という話でした。そこで、「どうにかならないか?」と相談されたのです。でも僕は正直に言いますと、ラグビーが嫌いで、あまり関わりたくなかった(笑)。

長谷山 そうだったんですか。

福澤 幼稚舎から普通部、高校とずっとラグビーをやってきて、高校まではよかったんです。しかし、大学ではとにかく練習がきつくて、ほとんど鬱病状態の毎日でした。ですので、日本一にはなったんですが、卒業後は「ラグビーはもういいや」という感じでした。

その一方、仕事上、嫌な思いをした時に、精神的に乗り越えていけるのは、「あの時の練習のお蔭」という気もしていました。自分は幼稚舎から塾に入った、はっきり言ってボンボンです。それがなぜ強くなれたのだろうと思うと、やはり、あの強烈な4年間があったお蔭なんだ、という気持ちはあったのですね。

そこで、稲垣さんのお話を聞いて、「ちょっとラグビーのために頑張るか」と思いました。そうしたら、ちょうど池井戸潤先生もラグビーをテーマにした小説執筆の準備を進めていらっしゃっていて、いいタイミングでドラマ化に進んでいったんです。

長谷山 なるほど、そういう経緯でしたか。

福澤 TBS社内には、ワールドカップが始まってから放送するほうがいいのではないか、という声もありましたが、大会前の盛り上がりとともに、ドラマも沢山の方々に見ていただいたほうが良いだろう、という話になりました。

このドラマにはラグビーのおもしろさ、奥深さを伝えるために、どうしても本物の選手が必要でした。また、未経験者ですとケガの心配があります。そこで、普通、ドラマでは役者にラグビーを教えますが、逆にラグビー選手に芝居を教えることにしたんです。原作上、浜畑という廣瀬さんが演じた役は非常に大きいものだったので、あそこに誰を起用するかがカギでした。

僕は原作を読んだ時から、日本代表で、少し苦しんでいたり、クレバーなところなど「どこか廣瀬っぽいな」という感じがしていたんですね。引退して何年か経っていた廣瀬に「君にあっている役があるから、この役をやってくれないか」と言ってリハーサルをしたら、結構いけるなと。それで何カ月か練習をした後、撮影したんです。

長谷山 見事にはまりましたね。

福澤 はまりすぎてしまって、「紅白」に出るのではないかと(笑)。

長谷山 NHKのテレビ解説ものびのびやっていて本当におもしろかったですし。

福澤 頭がいいんですね。セリフも大体忘れない。大したものだと思っています。

原点の幼稚舎時代

長谷山 そういう人材を発掘したところに福澤さんの功績がありますね。慶應は日本で最初にラグビーを始めたルーツ校で名選手もたくさん出て、福澤さんの時代には日本一にも輝いている。ラグビーは人気の点では野球に比べて今一つという面もありましたが、今回でラグビーファンの裾野がかなり広がった。これは一過性のものではないような気がしています。

社会人になる時には、「もうラグビーはいいや」ということでしたが、ラグビーをやっていたことが福澤さんの1つの強烈な個性になっているのではないかと思うのですが。

福澤 それは確かにそうですね。TBSへの就職もたぶん慶應の蹴球部で優勝をしたことが、有利に働いたような気がします。

長谷山 そういった自分の「売り」というか、「個性を持っている」ことは、組織の中で生きていく上でも強みですね。今はなかなかオールラウンドプレーヤーとして、浅く広くで生きていける時代ではなく、何か1つ自分の特技や武器を持っていないと成功しにくい時代だと思うのです。

ラグビーを始められたのは幼稚舎からですね。担任だった中川真弥先生から「好きなことを見つけろ」と言われたそうですね。

福澤 幼稚舎の6年間がなかったら自分はどうなっていたのだろうと思います。不思議な教育というか、いいのか悪いのか分かりませんが、「勉強をしろ」とは全く言われませんでした。

非常によく覚えているのは、小学校2年生ぐらいの時、給食で中華丼みたいなものが出たんです。たぶん給食を作る人が失敗して、片栗粉が固まって「ダマ」になってしまったものが多く、はっきり言っておいしくなかった。それで、クラスの皆がたくさん給食を残したら中川先生が怒ってしまったんですね。

「椅子に座れ」と言って、もう1回残った物を全員に配って、「全員が食べるまで帰さない」と言った。女の子はギャーギャー泣いて、放課後遅くまで帰れなかったのです。「この給食を作った人たちはお前たちに健康な体になってほしいと思って作ったんだ。ちょっとまずいぐらいで、この残飯を持って帰られたらどう思う? そういう気持ちは考えられないのか。全員食べないと帰さない」とすごく怒られた。先生が体験された戦争の時のお話もされました。そういう教育は非常に記憶に残っていますね。

「簡単に噓をつくな」ともよく言われましたし、2、3年生の時から、「仕事とはどういうものか」とよく話されました。小学生でも分かる事件の新聞記事を何枚か貼って、「この事件もあの事件も起こした人は無職だ。職を持っていないと、人間というのは非常に弱い。私だって今は幼稚舎の先生で家族もいるけど、幼稚舎を辞めて、家族もいなくなって独りぼっちになった時には何をするか分からない。人間は弱いものなんだぞ」と説くのです。そして、「だから、とにかくこれをやりたいというものを早く見つけなさい」と言われました。

でも、「何かやりたいことを見つけなければ」と思ってもそう簡単には見つからなかった。皆がやるからとラグビーを幼稚舎5年生から始めたんですが、普通部2年生の時に『スター・ウォーズ』を見て、これだと思って映画監督になろうと誓ったのです。そういう幼稚舎の教育があったことは自分にとって、とても大きかったです。

長谷山 今の幼稚舎でも、舎長が最初に入学式で、「噓をつかない」ということと、「人として恥ずかしいことはしてはいけない」ということを言われていますね。私の子供も幼稚舎を卒業したのですが、その頃もやはり「勉強しろ」とは言われずに、「好きなことを見つけよう」とか「人としてやってはいけないことをしてはいけない」ということが重視されていた。これは今の世の中では守るべき貴重な教育なのではないかと思います。

福澤 幼稚舎時代は本当に勉強をしないのですが、普通部に進むと、あまりにも外から頭のいい連中が入ってくるので、ギャップを感じて落ち込むんです。

申し訳ありませんが、私も勉強はしなかったです。普通部はどうにかなりましたが、高校1年でやはりスコーンと落第しまして(笑)。

長谷山 落第にまつわることで、母上の有名な言葉があったとか。

福澤 塾高で落第しそうになった時に、先生が「このままでは確実に落第します。福澤家のお子さんだし、1回ラグビーをやめて勉強をしたほうがよろしいのではないですか」と言ったそうです。そうしたら、母が「落ちるか、落ちないかぐらいの勉強をするよりもラグビーをやっていたほうが、絶対に社会で使える強い人間になるから、うちの息子にはやらせます!」とバシッと言って、僕は落第しました(笑)。

2年連続で落第すると、オッポリ(退学)になるんです。「オッポリだけはやめなさいよ!」ときつく言われて。それから勉強しました。どうにかオッポリは免れましたが、それからはもうぎりぎりの人生です(笑)。

組織の中で生きていく力

長谷山 以前、トヨタ社長の豊田章男さんが、慶應に講演に来てくださった際、冒頭で、実は自分はグラウンドホッケー部で学生時代の4年間、365日、日吉裏(ヒヨウラ)にいたから、大学のことはあまり知らないとおっしゃった。

おもしろいと思うのは、365日スポーツをやっていたという人が、世界的な企業をきちんと運営していけるということです。このように組織の中で生きていく力を育むことは慶應義塾の教育の特色の1つです。就職情報誌が実施する就職力の大学ランキングでは、慶應はいつもナンバーワンです。これはなぜかというと、学生のコミュニケーション能力が高い、社会性が高いということが評価されているようです。

体育会の部員もそうですが、おそらく学生時代から、社会人である先輩との付き合いがあり、ゼミやサークルでも企業や自治体と交渉したり、社会の中で活動していることが影響していると思うのです。組織の中で自分の立ち位置を見つけ、どうしたらその中で自分のアイデアを生かしていけるかということについて、学生時代から揉まれているところがあるのではないか。そういったものを全部含めたものが、教育、学問なのであれば、慶應の学生というのはやはり勉強しているのだろうと思うのですね。

福澤 幼稚舎の時、校内大会の競技で1軍、2軍、3軍とチーム編成を決めていったのですが、先生が決めるのではなく、クラスの皆でキャプテンやリーダーを決めていくんですね。そういう中で大会に向けて練習して、負けたら泣くし、勝ったら喜ぶ。皆でどうやって協力して練習するかということを、不思議と教わったような気がします。

担任の中川先生もなぜか「ラグビーをやれ」と言うのです。イギリスのケンブリッジ、オックスフォードといった学校はエリートにラグビーをやらせる。ラグビーは人に直接ぶつかる反面、礼儀やマナーにはすごく厳しいので、ラグビーを通じてそれを教えていく。だからラグビーをやっていれば、君たちの人生の役に立つ、としつこく言われました。

野球は投げる、打つという特別な才能が必要ですが、ラグビーは大きければ大きいなりに役に立つし、足が速かったら速かったで役に立つ。いろいろな体型の人たちそれぞれの役割がある。1回、2回落第しても、同期の友達が増えるし、とにかくやりなさい、と言われましたね(笑)。その選手たちが上にきて強くなり、大学で優勝できたということなんです。

正直に言うと、この歳になると試合で「勝った、負けた」の印象はあまりないのですね。思い出すのは、夏合宿の厳しい練習とか、夜中にボールを探してずっとグラウンドに仲間と一緒にいたことです。ボールが1個グラウンドに残っていたら大変な練習になるので、1、2年生が、延々夜中まで皆でボールを探すんです。そういったことは非常に覚えています。

でも、6万5千人の観衆の前の、あの日本選手権で優勝した時の瞬間というのは、それほど印象に残っていないのが不思議です。もちろん現役引退したばかりの時はよく覚えていましたが、歳を取るにつれ、試合の印象は薄れてくる。

長谷山 そうですか。それはおもしろいですね。今回の日本代表チームは「ONE TEAM」をスローガンにしていましたね。グラウンドだけではなく、出ていない選手も、サポーターやトレーナーも、いろいろ含めての「ONE TEAM」だと思うのです。

ラグビーではよく「One For All, All For One」と言われますが、ラグビーというのはそれぞれが自分の役割をきっちりこなしていけば上手くいくはずだけど、その通りにはプレーが進まない時は、誰かがカバーする。チームが精密機械のようにそれぞれの役割を持った歯車が上手く嚙み合っている。

野球の話ですが、慶應野球は「エンジョイ・ベースボール」とよく言われますが、最初にこれを言い出した、早慶6連戦で有名な前田祐吉監督は「試合を楽しめ」と言ったつもりではないのだ、ということでした。地獄のように苦しい練習をする。何のためにそれをするかと言えば、勝つと嬉しい、そう思うと練習も耐えられる。そこに楽しみ、エンジョイというものがある。それが「エンジョイ・ベースボール」の原点だというのです。

確かに試合に勝った、負けたというのは一瞬の結果であって、そこまでに自分は何をしたかとか、あの時に何をしたから勝てたのか、という部分が一番強烈な印象として甦ってくるというのは、分かるような気がします。

昨年、蹴球部が創立120年を祝いましたが、その折に創立100周年記念誌を拝見していたら、1985年度、トヨタを破って日本一になった時の中野忠幸主将が、「なぜ日本一になれたかと問われれば、チーム全員が勝利のために常に何をすべきか考え、行動したこと」と振り返っていたことが印象的でした。

山崎豊子先生の言葉

長谷山 福澤さんの代表的な作品というと、やはり『半沢直樹』ですね。そのドラマができるまでの経緯を教えていただけますか。

福澤 僕は『華麗なる一族』の原作者・山崎豊子先生とお話しした時に怒られたことがあるんですね。「あなたたち、テレビドラマをつくるのはいいけど、日本を支えているのは誰だと思っているの?」とすごい勢いで聞くのです。「経団連の会長ですかね」とか言ったら、「違うわよ! 製造業よ。ものをつくる人たちよ」と言われました。

資源も何もない国が何で先進国でいられるの? それはものづくりの人たちのお蔭だと。「そのものづくりの人たちに、あなたたちは何か応援するようなことをやったの? 何かと言えば医者、刑事、弁護士のドラマばかりつくって」と。こういうものづくりの人たちを応援して、明日も頑張ろうと思わせるようなものをつくりなさい、と言われました。

「確かに」と思い、ガクッときました。ではものづくりの人たちを応援できるようなドラマをつくろうと思い、何かいい原作はないかなと探していたら『半沢直樹』の原作に出会ったのです。『オレたちバブル入行組』、『オレたち花のバブル組』というのが原題で、どんな内容かは分からなかったのですが、読んだらおもしろい。池井戸先生にお願いに行ったら、運よく原作権を誰にも渡していなかったので、ご許可いただけました。

長谷山 そんな経緯があったのですね。

福澤 テレビドラマのファンは女性が多いのです。医者もの、刑事もの、恋愛ものが人気があって、企業もののドラマは大体失敗している。だから銀行のお金に関する話など誰も見やしない、と大反対を食らいました。ですが、企画を出し続けたら、「そこまで言うならやってみようか」となった。ここはTBSのいいところですが、新しい試みに対して割と寛容なのです。それで始めたら、火がついたんです。

長谷山 私もこだわりがあるのは、どんなことにしても、組織の中でどう生きていくか、チームをどう立て直すか、どういうふうに組織の中で戦っていくかということです。上手くいかないからといって組織から飛び出すのではなく、その中で工夫していく。これは無理だと思うようなことも、なんとかできるようにと努力していると、要所要所で助けてくれる人が現れる。

私も『半沢直樹』は全部見ていますが、主人公がどこまでも組織の中で頑張っていく姿と、人間関係の妙味が印象的でした。それに途中ハラハラしながらも、江戸時代の芝居のような勧善懲悪、「正義は必ず勝つ」というところを信じながら見ることができる。これが受けたのではないかなと。

今、女性も組織の中で生きている人が増えているので、そういった社会の転換期に、組織の中で苦闘していく主人公像に対しては女性の間でも共鳴が広がったのではないかという気もしました。

福澤 僕も「正義は勝つ」は大好きです。夢でもいいからこうなってほしいというものを見てもらいたい。そこに至るまではきついことがあっても、「最後は正義が勝つ」のは、やはりいいですよね。よく、「世の中はこんなに甘くないよ」と言われるのですが、「ドラマや映画はそれでいいじゃないか」と思うのです。その時だけでも楽しんでほしいと思います。

また、僕も組織というのは非常に大切なものだと思っています。半沢はあんなに仕事ができるのだったら、組織から出てしまえばいいじゃないか、とも思うのですが、「ここから出ると負け」というような、何とも言えない侍魂があるのではないかと思うのです。

ドラマも、自分だけができても駄目で、カメラマンも必要だし、優秀な美術も宣伝マンも必要です。いろいろな分野の優秀な人が集まっていいものができるんですね。「フリーになったらすごく儲かるんじゃないの?」とよく言われますが、そう簡単なものではない。組織の中で頑張っていくことがいかに大切か。チームワークは大切にしたいと思っています。

「ONE TEAM」をつくる

福澤 ワールドカップはご覧になりましたか。

長谷山 日本vs南アフリカ戦をスタジアムで見ました。負けたけれど、いい試合でしたし、日本チームはここまでできるのかと興奮しましたね。現場で見ていると伝わり方が違いますね。

福澤 「ONE TEAM」と言いますが、ラグビーチームは家族にならなければいけないので、合宿を行うのです。ラインアウトやスクラムはサインを出しますが、サインが通じるのは3次攻撃ぐらいまでです。そのあとはどうなるかは分からないので、1人のボールを持った人がどう動くかを、皆がテレパシーを使っているかのように察知する。あれがおもしろいのです。

アメリカとアルゼンチンの試合を見たのですが、アメリカチームはフェーズの4次攻撃ぐらいからバラバラになって、何をしているかがお互いに分からなくなってしまっていた。だから、すごい体格をしていても勝てない。こいつだったら絶対に捕ってくれると信じて、見ないでパスをしないと勝てない。合宿をしていろいろな悩みを共有し、テレパシー同士で通じ合うような関係にならないと、ああいう大舞台では活躍できないんです。

長谷山 決勝のイングランドと南アフリカの試合はどのように評価されますか。

福澤 南アフリカのつらかった歴史みたいなもの、イングランドには負けるか、という魂は感じました。あとは、やはりラグビーというのはフォワードだなと。日本戦もそうでしたが、どんなに足が速い人がいてもあの押し合いに負けると、勝てないのですね。

長谷山 ラグビーの原点はフォワードにあると。

福澤 そうですね。だから地獄のようにスクラムをやらされるのです。慶應時代、2、3時間ぶっ続けでやらされましたが、やればやるほど強くなるんです。そうやって本当に苦労したところは押せるのです。

ちょっと押されたぐらい大したことないだろう、と思うかもしれませんが、最初のスクラムでグッと押されてしまうと、「この試合はやばい」と焦り出すのです。押し合い、スクラムはいかに大事かということです。

長谷山 もともと慶應のラグビーは、伝統的にフォワードを重視していましたよね。一昔前、同志社や早稲田のバックスが華麗にパスを回す一方で、慶應は愚直にとにかくフォワードで、スクラムを押していたと思います。そう考えると、実はフォワードを起点にしていた慶應は一番世界のラグビーに近かったんじゃないかと思うのですが。

福澤 そういうことです。全く才能がない人たちでも、押し合いは練習すればするほど強くなるのです。バックスのパスのセンスは、生まれ持った才能が必要だと思いますが、慶應はそれほどいい選手は入ってきませんでしたから、とにかくフォワードを鍛えてどうにかしていたのです。これは非常に大切なことで、フォワードが強いとそう簡単に負けないのです。

長谷山 当時は相撲部屋に出稽古に行ったりしたのですか。

福澤 相撲部屋はよく行きました。

長谷山 私は20年間、体育会相撲部の部長をしていましたが、慶應は春日野部屋と仲がよくて、引退した関取が師範をしてくださったり、幼稚舎のちびっ子相撲も毎年、春日野部屋でお世話になっています。そこで聞いたのですが、アメリカからアメフトの選手が相撲部屋に来た時、ものすごい体格の人が「ぶつかり」をやっても、力士には全く通用しない。ポンポンはじかれてしまうそうです。力士と練習したらスクラムが強くなる、という発想は、慶應の蹴球部は目の付け所がよかったなと。

福澤 『ノーサイド・ゲーム』でもフォワードが春日野部屋に出稽古に行きました。でも、現役に近いフォワードも全く歯が立たなかった。僕らも学生時代に行きましたが、やはり「押す」ということに関しては、相撲が世界一だなと思います。

橋本忍氏の教え

長谷山 福澤さんのドラマは池井戸さんとの慶應出身コンビの痛快なものもある一方、歴史もの、特に戦争の時期を扱った重いテーマのものもつくられていますね。2003年の『さとうきび畑の唄』は沖縄戦、それからリメイク版の『私は貝になりたい』、『レッドクロス〜女たちの赤紙〜』など、こういった作品に取り組んでいこうという気持ちはどこから湧いてきたのでしょうか。

福澤 僕の母親は戦争体験者で、小さい時に戦争で疎開してどんなにつらい思いをしたか、とよく話していました。うちは福澤捨次郎の家系ですが、戦後になっていろいろなものを取られたとか、GHQの人たちには逆らえないとか、延々と聞かされたのです。そうやって欧米には敵わないという意識を植え付けられた。

ところが、金八先生をやった時に若い子たちと接すると、彼らはあまりそういうことにこだわらないのです。それはすごくいいのですが、話をしていると、このままこの人たちが成長したら、平気で戦争をしそうだなという気がふとしたのです。親などに戦争の怖さもまったく聞いていないのですね。

歴史を見ると、50年、100年して戦争の悲惨さを味わった人が皆死んで、それを知らない人たちが権力を持つと、また戦争を始めることがある。数字はとれないかもしれないけれど、戦争をテーマにしたドラマはやるべきことかなという気がしたんですね。

長谷山 『さとうきび畑の唄』も文化庁芸術祭最優秀作品賞やアジアのテレビアワードでドラマ部門最優秀賞を取るなど、すごく評価されています。

また映画『私は貝になりたい』は25億近くの興行収入をあげている。かなり重いテーマでどれぐらいの人が見てくれるか分からないものに取り組んでも成功されていますよね。

福澤 映画の師匠は脚本家の橋本忍先生という、黒澤明監督の『七人の侍』を書いた方なんです。橋本さんは1959年に『私は貝になりたい』が最初に映画化された時の脚本を書かれていますが、リメイク版をつくるにあたり、もう1回書いてくださった。撮影中も編集中もよく来られて、映画とは何かということを非常によく教わりました。

黒澤監督は、ある時リハーサルを1日に50回やったことがあるそうです。そして、次の日も50回やり、2日間の撮影が飛んでしまった。橋本先生が「確かに1回目と50回目では50回目のほうがよかったけれど、昨日の最後と今日の最後は差が分かりません」と言ったら、「いや、2秒短くなったよ」と。

とにかく「映画はテンポだよ」と黒澤監督は言ったそうです。真っ暗な部屋の中に入れられて、ダラダラと全然話が進まないものを見せられてお金を払うと思うのか。話はとにかくテンポよく見せなさいと。だから、「いかに早くするか」のために100回もリハーサルをやったんです。「君もこれからの作品はなるべく早くしなさい」と橋本先生に言われたので、『半沢直樹』のテンポは早くなりました。

ですから僕の信条として、テンポがよくて、「この次はどうなるんだろう」とずっと視聴者が興味を持てるようなつくり方を心がけています。

長谷山 福澤さんがテレビドラマでリメイクしている『砂の器』の映画(1974年、野村芳太郎監督)も橋本忍さんの脚本でしたね。これも直接戦争の時代を扱った映画ではないけれど、空襲で戸籍の原本が消えてしまったことがポイントになるなど戦争の影がある。一昨年、福澤さんは東野圭吾さんの『祈りの幕が下りる時』の映画化で監督をされていますが、これは世間では東野版『砂の器』だと言われている。これはどういう経緯だったのですか。

福澤 原作を読んでみると、確かに『砂の器』みたいだなと思いました。『砂の器』は僕の映画のバイブルの1つですので、これはいけるかもしれないなと思ってお受けしたのです。

長谷山 日曜の夜に見た人がスカッとして月曜からまた頑張ろうと思えるような痛快なドラマと、こういう社会性の高いテーマが1人の演出家、監督の中に同居しているのが、とてもおもしろいですね。

人を育てるシステム

福澤 テレビドラマの監督はいろいろなものをやらなければいけないので結構大変です。私は本来、映画監督になりたかったのですが、どうも最近、映画自体にそれほど魅力を感じなくなってきました。テレビドラマは見る人数が映画の10倍近いので、ヒットした時の反応は破壊力がものすごい。映画で大ヒットといってもせいぜい2、300万人ですが、ドラマで視聴率20%をとると2000万人以上が見ている。

テレビ制作はまだ人気の職業で、テレビ局には、それなりの学歴の人が集まって、厳しい選別を受けて、何百倍の倍率で選ばれて入ってくる。入ったら全員制作ができるかというとそれは分からない。営業や総務みたいな仕事も重要です。

それでも、そこには、東大、京大、早慶といった優秀な学生たちが集まってやっている。運もあるとは思いますが、そこで制作をすることのできる人の数には制限があって、大変ではありますがいろいろな経験ができるんです。だから、優秀な人材が必要な職業ということになります。

長谷山 広い意味での教育というか、人を育てていくシステムをきちんと持っているということですね。人材が集まり才能がぶつかり合って、その中からいろいろなものが生まれるような空間になっていると。

学校も同じで、上から教えるだけではなく、人が集まってきてぶつかり合って、その中から才能が開花していく場なのだと思います。ただ、人が育っていくためのシステムはつくっておかなければいけない。幼稚舎はまさにそうですよね。手取り足取りいろいろ詰め込むのではなく、場をつくって、そこで育っていくことが大事なのでしょう。

福澤諭吉に学んだ挑戦する気持ち

長谷山 福澤さんは常識にとらわれずに皆が「きっと駄目だよ」というものにもあえて挑戦してきたと思うのです。

福澤諭吉がなぜ「独立自尊」と言ったかというと、封建制というのは皆が上の言うことに従う組織で、自由に発言することが許されない。明治になって、それでは駄目だと、近代化するわけですが、政府はとにかく法律をつくる、制度をつくる、官僚を養成すると、仕組みを強化して近代化しようとした。

その時に福澤はそれでは不十分だと言うわけですね。国民一人一人が近代化しなければ、国全体はどうにもならない。そういう意味で「独立自尊とは何だ」と言えば、まずは「学問のすゝめ」。次に大事なのは、経済的に自立するということで、それは、つまり中川先生の言われた「職業を持て」ということです。人にすがったり、殿様の俸禄で生きていたら自由に行動できない。

学問を修めて、職業を得て自立したら、次に大事なのは、世の中がどういう方向に行くのかに関心を持ち、こういう方向に行くべきだという考えをきちんと持つことです。政治家任せではなく、自分がやるべきだと思ったことをやるし、指示や流行が間違っていれば違うと言い、皆がそれはできないと言っても、ぜひやらなければいけないと思うものはやる。こういうものの総和が独立自尊の精神で、それは慶應の教育にも活かされていると思うのです。

ところで、今日ぜひ伺ってみようと思ったのは、福澤諭吉の玄孫である福澤さんに、家庭内や一族の中で福澤諭吉像はどのように語られていて、どのようなイメージを持たれているのか、ということです。福澤の子孫の方に福澤をどう思うかと聞く機会は、なかなかないのです。

福澤 申し訳ないのですが、福澤諭吉先生について家庭の中で言われていることはそれほどないのです。よく言われたのが、福澤先生は「これから絶対に必要なのは、オランダ語だ」と思い、自分でも辞書をおつくりになって勉強したのに、横浜でオランダ語がまったく通じずに本当に必要なのは英語だと気付いた時、もう1回勉強し直したことだと。そのことを引き合いに出して、「あなたはそういうことできる?」と言われる(笑)。

「それをしたから御曾祖父さんは立派な学校をつくり、あなたが偉そうにいられるのよ」と。どんなことをしたかというより、とにかくこれだと思ったことをやって、それが駄目だったらもう1回チャレンジしなさいということは、ずっと言われていました。

長谷山 それはおもしろい話ですね。なかなかそういうふうに福澤諭吉を使える家庭は、慶應関係者の中にもないと思います(笑)。

福澤 「あなたは英語1つできないのに、英語を全部マスターしたあとに違うことできる?」と、「あなたは国語だってできないでしょう」と怒られて(笑)。

長谷山 私なりに思う、福澤諭吉像は、まず、若い時はすごく好奇心が旺盛な人ですね。エネルギッシュですぐに行動に移し、障害があっても必ずそれをクリアする。人からみれば奇想天外なこともやってのけますね。例えば咸臨丸に乗る時に、下僕の身分なら乗せてやる、と言われれば、結構ですよと、平然として、従僕として乗り込んだ。

『学問のすゝめ』が売れた時、『西洋事情』の偽版が大量に出まわっていたので、自分で出版業をやりたいと言うと、出版問屋に先生はわれわれの仲間の業者ではないのだから困ります、と言われた。すると、今度は前垂れをかけて行って、今日から「福澤諭吉」という屋号で商売をする業界人になったのでやらせてくれと言って、呆れた業者に「しょうがありませんね」と、認めさせた。

オランダ語から英語への転換だけではなく、創意工夫で困難を乗り越えていくという精神、人に無理だよと言われると、逆に「よし挑戦してやろう」という気性の人だったのではないかと、いろいろなエピソードから感じます。

それから、私は、福澤諭吉は本来、世で言われているほど交際上手で明るく闊達な人ではなかったのではないかと思っているのです。3歳で父を亡くして中津へ帰ったけれど、周りは言葉も違うので姉たちと遊んでいたような孤独な幼少期を体験している。だから逆に成長して、適塾や、あるいは渡米した際などに人間のつながりが非常に重要だということに気付いたのではないか。

人間というのは人付き合いをする時には表情を柔らかくして笑顔で接しなければいけない、ということも言っています。これも本人が努力してそうしていたのではないか。1人でいる時の福澤諭吉は意外と内省的で、物事を深く考える人だったのではないかなと思うのですね。

品格を身につける教育

長谷山 いろいろとお話を伺ってきましたが、演出家、監督としての福澤克雄は、これからどこへ向かっていくのでしょうか。

福澤 分かりませんね。僕らの生きているこの場所がどう変わっていくのか、非常に難しい。テレビは確実に縮小していきます。でも、もう1回ラグビーものをやりたいなとは思っています。

長谷山 来年は2度目の東京オリンピック・パラリンピックがあります。慶應はイギリスのオリンピック・パラリンピックの選手団の事前キャンプを引き受けて、去年から競技チームが日吉に来て交流しています。塾生がオリンピック選手を目の当たりにするということは、その後の人生に非常に大きな影響を与えると思うのです。

古代オリンピックというのは選手が事前にキャンプして、哲学、歴史を学ぶような、学問と一体のものでしたので、大学が学問の府としてオリンピックとどう関わっていくかは重要だと思っています。特に慶應は、それこそ福澤諭吉の教育理念が、「まず獣身を成して後に人心を養え」ですから。

福澤 オリンピックというのは、とてつもない大会ですからね。イギリスの選手が日吉に来て練習をするのですか? 

長谷山 去年から、もうイギリスのオリンピック・パラリンピックのいろいろなチームがやって来て、塾生とも一緒にコラボレーションをしてくれたりしています。特に、パラリンピックのチームは本当に感謝してくださっています。なぜなら、施設を完全にバリアフリーにするため、慶應は要望をよく聞いて大改修をしました。協生館の宿泊施設の部屋を2つぐらいぶち抜いて、バスルームなど全部をバリアフリーにしたのです。

イギリスとはいろいろなご縁があって、BOA(英国オリンピック協会)のCEOだったビル・スウィーニー氏が慶應と事前キャンプの協定を結んだのですが、一昨年イングランドラグビー協会の会長に転出したのです。この間、天皇陛下の即位の礼の時にチャールズ皇太子が来られて、英国大使公邸で開かれたレセプションにお招きいただいたらスウィーニーさんもいて、ラグビーの話で盛り上がりました。

オックスフォードのラグビーチームのクラブハウスには、世界のいろいろなラグビールーツ校のジャージが飾ってあるそうですが、「日本は慶應のジャージが飾ってある」と話してくれました。このようにイギリスのスポーツ関係者は、有り難いことに慶應に対する親近感をかなり昔から持ってくれています。慶應と世界の大学やあるいは組織などと、人的ネットワークをつなげるという意味でとても貴重な財産になっていると思います。

人間関係といえば、120年前に塾生にラグビーを教えてくれたのはケンブリッジ出身の英語教師だったクラーク博士ですが、昨年の蹴球部創立120年記念のイベントには博士のお孫さんのヘザーさんがご高齢にもかかわらず来日して、ラグビー早慶戦を観戦されたり、祝賀会で関係者と懇親してくださいました。少女時代には博士やご家族と神戸に住んでいたそうで、慶應のこともご存じでした。

福澤 そうなんですね。慶應の体育会はとにかく、そんなに強くなくてもいいから一生懸命練習をして、品格や規律を身につけてほしいと思います。特にラグビーは、出身大学がものを言う世界です。おそらくイギリスもそうだと思います。

長谷山 慶應はどの競技でも、卒業したら終わりではなくて、指導者や連盟の幹部人材を、かなり生み出していますよね。スポーツを通じて身につく人格は大切だと思います。

福澤 私の時は、尋常ではない猛練習で、殴ってすむなら殴ってくださいという感じでしたけれど、体罰は一切なかったです(笑)。

長谷山 まさに気品の泉源を目指している大学ですから。どこに行っても、慶應を出た人は一味違うね、と言われる人材を世間にたくさん送り出せば、まさに日本は品格のある近代国家になるという創業者の理想にも適うことです。そういう教育を、これから慶應義塾は頑張ってやっていきたいと思います。

福澤諭吉という人は芝居や相撲、落語というものは若いうちは遠ざけていたのですが、晩年は歌舞伎の改良運動を始めて、自分で歌舞伎の脚本を書いたり、大横綱常陸山と親交を結んで、常陸山も弟子たちに、これからの相撲取りは品格が大事だと説いたりしている。そういうDNAがちょっと福澤さんにもあるのでしょうか。また体格的にも福澤諭吉はあの時代としては大変大きな人だったので、それも継がれているのかなと(笑)。

これからも、福澤さんには「人間って本当にすごいんだな」と思わせるような作品をつくっていただければと、大いに期待しています。

福澤 有り難うございます。また今年の春から『半沢直樹』の続編が始まりますので。

長谷山 楽しみにしております。本日は有り難うございました。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2023年1月号