【特集:新春対談】 新春対談:ポストコロナへ向けた大学のあり方 | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:新春対談】新春対談:ポストコロナへ向けた大学のあり方

三田評論ONLINEより

  • 中谷 比呂樹(なかたに ひろき)

    慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)特任教授。前WHO(世界保健機関)執行理事会議長。1952年生まれ。77年慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。大学卒業後厚生省(現厚生労働省)入職、医系技官として医政、公衆衛生、科学技術、国際保健分野のポジションを歴任。2007~2015年WHO本部事務局長補として感染症対策部門を牽引。グローバルヘルス技術振興基金(GHIT Fund)代表理事。

  • 長谷山 彰(はせやま あきら)

    1952年生まれ。75年慶應義塾大学法学部卒業。79年同文学部卒業。84年同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。97年慶應義塾大学文学部教授。2001年慶應義塾大学学生総合センター長兼学生部長。07年文学部長・附属研究所斯道文庫長。09年慶應義塾常任理事。2017年慶應義塾長に就任。現在、日本私立大学連盟会長などを兼務。専門は法制史、日本古代史。

新型コロナへの日本の対応

長谷山 新年おめでとうございます。昨年の三田評論新春対談は映画監督の福澤克雄さんに来ていただいて、今年(2020年)は東京オリンピック・パラリンピックの年なので楽しみだ、という話をしたのですが、蓋を開けてみますと、2020年はCOVID-19に席巻され、世界中が鎖国状況に陥るというグローバル化の裏返しの状況になってしまいました。日本でも緊急事態宣言が出たり、大学も非常に大きな影響を受けて、オンライン授業に切り替えたり、キャンパスを閉鎖せざるを得ないということもありました。

また信濃町の病院では本当に命がけで、医療関係者が感染症との闘いを続けました。慶應の特徴である「人間交際(じんかんこうさい)」が影響を受け、「社中協力」の象徴である各地の三田会が1年間まったく開けず、秋の連合三田会大会もとうとう中止になってしまいました。

コロナの終息にはほど遠い状況が続いているのですけれども、中谷さんは医学部をご卒業になって、厚労省からWHOに行かれて、現在は慶應義塾のKGRI(慶應義塾大学グローバルインスティテュート)で特任教授としてご活躍いただいている。そして何といっても、WHOで長年事務局長補として感染症と闘ってこられ、昨年は執行理事会の議長を務められました。日本、また世界のCOVID-19流行状況はどうなっていくのか、ということをご専門のお立場から最初に少しお話しいただければと思います。

中谷 新型コロナウイルスについて、よく言われることは、非常に狡猾なウイルスで人の弱みを突いてくるということです。ただ日本の対応はどうかというと、これは結構驚かれるのですが、先進工業国の死亡率を比較すると断トツで低いのです。人口10万人対死亡者数で見ると一番高いのはベルギー、G7諸国で一番高いのは現在フランスです。だいたい日本の80倍ぐらい亡くなっています。また、今回のコロナは先進国やBRICs諸国が大きく影響を受けて、逆にアフリカは人口構成年齢が若いので影響が大きくないのが特徴です。

さらに、治療がだんだん進化してきて、6月以降の全国登録者データを見ると、日本では70歳以上の方が重症となって入院されると、今でも10%ぐらいの確率で亡くなるのですが、以前と比べると死亡率は半減しています。入院時軽症あるいは中等症であれば70歳以下の方はほとんど亡くならないということもわかってきたわけです。

今までグローバルヘルスというのは途上国を助ける仕組みを一生懸命つくってきたわけですが、今回のコロナで明らかになったのは、先進国と言われるところでも効く薬がない、あるいは医療が逼迫して入院できないという途上国と同じ事態になりうるということです。日本は、高齢化が進んでいますので、そうなりかねないという懸念を持たざるを得ない状況となりました。そうなると今まで「地球の裏側のハナシ」と思ってきたグローバルヘルスへの見方が劇的に変わったと言えるのではないでしょうか。チャリティーとして可哀想な人を助けるのではなく、「私たち自身の問題なんだ」と多くの人が感じたことが大きな変化だと思います。

これは非常に大きなことで、今、私たちは、途上国、先進国にかかわらず、全世界で困っている人を助けるという仕組みを一生懸命つくっているところなのです。

長谷山 高齢化が進んでいる先進国ほどリスクが高いということですね。

中谷 そうです。ただ興味深いのは、日本は、ミラクルと呼ばれる程、不思議なアウトカムを示してきました。ロックダウンも非常にソフトに行ったので、経済の落ち込みも他のG7諸国と比べて低い。ですからコロナ対策で、日本は緩いとか甘いとか酷評されるのですが、客観的に見れば悪くはない。ただ、これは今までの話で、この冬がどうなるか、楽観は戒むべきと考えます。

近頃出た民間の臨調(「新型コロナ対応・民間臨時調査会」)がまとめた報告書がありますが、政府高官の言葉を引用して、「泥縄だったけど結果オーライだった」と非常におもしろい書き方をしているのです。つまり結果はよかったのですが、体系的、政策的な意思が明確でないので、次にこのような幸運がまた訪れるかどうかが私たちの心配の1つです。

さらに世界を見渡せば、人口100万人単位の死亡率で見ると、ゼロという国があるのです。モンゴル、台湾、ベトナムなどです。韓国も日本の死亡率の半分ぐらいです。

やはり福澤先生の言われる「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」というか、自分の地頭で考えて対策を一生懸命やった国というのはいい成果を出していると考えます。

長谷山 よくわかりました。中谷さんはいろいろなタイプの感染症の拡がりがどのように人間社会に影響を与えているかを見てこられたわけですが、そういったご経験からすると、今回のCOVID-19 は、どうも完全な終息というのは難しく、ポストコロナではなく、ウィズコロナの状態がしばらく続いていくのでしょうか。

中谷 まさにおっしゃるとおりだと思います。このCOVID-19は人間のビヘイビア(行動)に密接に結び付いて感染していくところが厄介です。人と会いたい、話したい。交流をしたい。こういう基本的な欲求と結びついているのでなかなか感染制圧が難しい。ですからコロナと折り合いをつけて生きていく必要があります。

例えば若い方は軽症で済む方が多いし、無症状の方も多い一方、高齢者は重症化リスクも高い。その中で経済と感染症対策とをどうバランスをとって進めていくかが難しいのです。

それからもう1つ出てきた課題が、国の情報管理のあり方です。例えば中国は典型で、感染者が出たら徹底的に封じ込めをして、接触をモニタリングするわけですよね。街の至るところにカメラがあって、接触者が外出すると当局に通報されて注意される。またドローンが飛んでいたり、GPSで個人の動きがわかってしまう。韓国もGPSを使って感染者がどのように行動していたかを把握しています。

このように、経済と公衆衛生との両立の他に、ある意味で自由や人権の制限をどのように考えるのかということが問われる軸が出てきてしまった。ここが、先進諸国がコロナの制圧に苦労する1つの理由でもあるのではないかと思います。

「人間交際」の回復という課題

長谷山 今、お話があったように人間の行動に根ざして感染が拡がっている。ところが慶應義塾は、創立者・福澤諭吉が「人間交際」を重視し、「世の中で最も大切なものは人と人との交わり付き合いなり。これすなわち1つの学問なり」という言葉を残している。そういう発想が慶應義塾の発展の基礎にもなっていると思うのです。学問を修め、独立した個人が、主体性を持って、世の中の流行とかデマに惑わされずに進むべき方向を考えていく。そして自律した個人が「人間交際」でつながって、自由で平等な社会をつくっていくという発想が慶應義塾の根本だと思います。

その「人間交際」の部分がコロナによって大きな影響を受けている。そこで独立自尊というもう1つの慶應義塾の軸、つまり、自律的な精神や行動が重要になってくると思います。要は感染症に対しても、究極には個人の自覚と良識ある行動の2つが対策の基本になると思いますので、これを徹底した上で、人間交際という部分を新しい形でどう回復していくかということが社中にとって課題になっていくのではないかという気がしています。

中谷 極めて大切な問題です。

長谷山 ご承知の通り、もともと慶應義塾の歴史というのは感染症ととても関係が深い。幕末に大坂の緒方洪庵の適塾で福澤諭吉が学んでいた頃に、コレラが流行り、恩師洪庵が一生懸命治療に奔走します。また福澤先生が江戸に出てきた慶應義塾創立の1858年という年は江戸でもコレラが流行りましたが、この年はいわゆる不平等条約と呼ばれた安政の5ヶ国条約が結ばれた年でもあり、外国からコレラが持ち込まれたのではないかと攘夷運動が盛んになる一因になったりしました。

それから福澤先生自身も2度腸チフスにかかったりして、何とか医師の養成をしたいということで明治6年には慶應義塾医学所をつくる(明治13年閉鎖)。

その遺志を大正時代になって、北里柴三郎が受け継いで、慶應が医学部・病院をつくりたいというときに手弁当で馳せ参じ、初代の学部長として病院をつくった。北里博士自身、破傷風菌の特定と治療法の開発、ペスト菌の発見などの業績から「日本細菌学の父」と呼ばれていますし、生涯感染症と闘ってきたような人ですね。

やはり慶應義塾というのは、感染症との闘いと非常に関係の深い大学であると思うのです。中谷さんも医学部をご卒業になって、やがてWHOに行かれて感染症対策に奮闘される。慶應の歴史と何か重なっている感じがします。

中谷 ちょうど60年前の1961年は、私たちの間では、国民皆保険ができた年ということで記憶されています。今回コロナが日本で死亡率が低かったのは、クラスターアプローチや3密回避というシンプルなメッセージで国民の自発的行動変容を求めたというユニークな公衆衛生対策の他に、国民全てが医療を安心して受けられる国民皆保険があったことも非常に大きかったと思います。

もう1つ、私は60年前のことで忘れてはならないと思っているのはポリオ(小児麻痺)の流行です。1960年からポリオが北海道を中心に流行ってきて翌年全国的な流行となりました。ワクチンも日本では十分につくれず、今と同じような状況になったのです。そのため、ロシアから生ワクチンの緊急輸入を超法規的に認めて接種したことで急速に制圧したのです。そのときの厚生大臣が古井喜実さん。そして公衆衛生局長が尾村偉久さんという慶應の卒業生でした。その2人のコンビでポリオを制圧したのです。

ですから、私はコロナに対しても、治療もかなり進化してきましたし、ワクチン開発についても素晴らしい進展が見られますので、ぜひ今年はウィズコロナであっても安心して生活ができるようになればと期待しています。

コロナ対策への慶應の貢献

長谷山 今、慶應の卒業生の話が出ましたが、渦中で頑張っておられる慶應の卒業生と言えば、葛西健(かさいたけし)さんがちょうどこの時期にWHO西太平洋地域事務局長の任にあって、奮闘されていますね。その様子をお聞きになることはありますか。

中谷 葛西さんとはよく話をします。WHOには6つの地域があるのですが、西太平洋地域というのは人口が19億人いるにもかかわらず、コロナによる死亡者数が一番少ないのです。

葛西さんは、ずっと感染症対策に取り組んでいまして私が厚生省の結核感染症課長になった時、課長補佐でした。その時、香港で鳥インフルエンザが起こったのです。後にWHO本部の事務局長となり私もお仕えしたマーガレット・チャンさんが香港の衛生局長でした。彼女に電話をかけて、うちの若い技官を送るから現場を見せてくれないかということで彼が行きました。それから葛西さんはWHOに転職して、様々なポジションを経て今に至っていますが、感染症対策のプロ中のプロで、21世紀のアジアの主だった感染症流行対策の陣頭指揮をとってきました。「タケシがいて良かった」と海外の政府高官に言われるたびに誇らしく思います。

また、私と同じ志木高の卒業でもあり、お嬢さんが昨年、インターナショナルスクールから慶應の医学部に無事入られました。

長谷山 そうですか。親子二代で慶應医学部なんですね。医学部で今、北里博士のあだ名「ドンネル(=ドイツ語で雷の意)」からとった「慶應ドンネルプロジェクト」というものがあり、これも大変大きなプロジェクトに発展していますね。

中谷 私は今、慶應でアジア環太平洋大学協会(APRU)の仕事をしていますが、そこのインターナショナルセミナーで「ドンネルプロジェクト」の一端を発表させていただきました。「ファクターX」と言われる、なぜ日本人の死亡率が低いのかの究明を始め、まさに基礎・臨床医学が一緒になって研究を進められているのは素晴らしいことだと思います。

長谷山 「ドンネルプロジェクト」の概要を拝見しますと、1つのプロジェクトがウイルスを解明しようとする一方で、少し違った観点から違った専門の研究者が、こちらはこちらでつくってみようとやっている。それらが今度は一緒にやろうじゃないかと研究者・医師の皆さんが頑張っていることを支援していく。そういった複合的で大変大きなプロジェクトになっている。

このように、一部の専門の研究者だけが取り組むのではなくて、周辺のいろいろな研究者が参加して、大きなプロジェクトに成長していくというところが慶應義塾らしいなと思うのです。

中谷 総合的な課題解決について、慶應は、特別な伝統と潜在能力を持っていると思います。それぞれの時代の課題を解決する。これは文明を開くという福澤精神、我々のDNAだと思います。コロナに対しては、まさにそういう総合力といいますか、違う分野の力を融合することが非常に重要になってくると思うので、社会が慶應に期待するところは大きいのではないでしょうか。

また、慶應の影響力は国際的にも大きなものがあります。韓国が非常に上手な対策を行い、さらに情報、感染症対策と研究開発を統合するような組織改革をしようとしていす。このようなお話を聞きに行くと、スピーカーが慶應と長い交流を持っている延世大学卒業生で、「あなたは慶應ですか」といってすぐに打ち解けた関係を築けたことが1度ならずあります。WHOの韓国選出の執行理事の方もそうですし、在京韓国大使館保健担当公使は、慶應に留学した時の話を懐かしくされていました。

長谷山 それはうれしい話ですね。

中谷 また、葛西さんが西太平洋地域事務局長になる時、太平洋の島嶼国に選挙活動の一環として一緒に訪したことがあります。すると、小さな南の島の大使館にも塾員の女性がいて大いに助けていただきました。なぜここにいるのかと聞くと、自分は外資系の銀行で生き馬の目を抜くような仕事をしていたけれど、そうではなくて、人間の価値とは何なのかを見つめ直すためにここに来ているんですと目を輝かせて言うのです。伝統に加えて、多くの仲間が世界中にいるということに何度も感動しています。

ネットワークの強み

長谷山 塾員のネットワークがあるだけではなく、塾員それぞれが、慶應の卒業生ではなくても、いろいろな方とつながりをつくり、そこでまた周辺に新しいネットワークができて新しいことを実現しているのが慶應の強みだなと思います。

中谷 そうですね。私の祖父は東大の法学部を出たキャリア官僚だったのですが、ものすごく福澤思想に影響を受けているのです。上司が慶應の普通部から帝大の法学部を卒業した方だったので、その影響ではないかと思います。ですから私の家には「福澤全集・著作集」が3セットもあります。祖父のライブラリーから遺産として引き継いだ『大正版福澤全集』、私の母親(中谷瑾子元塾法学部教授)が購入した昭和版の『福澤諭吉全集』、それから私の買った『福澤諭吉著作集』です。

今、コロナでできるだけ公共交通機関を使わないようにして車で動いているのですが、運動不足にならないよう、毎晩散歩しています。ただ散歩をするだけではつまらないので、オーディオブックになっている『学問のすゝめ』や『文明論之概略』を聞きながら歩くと福澤先生のお考えというのは、今日的価値を持って21世紀に生きる私たちに語り掛けてくれるとつくづく感じます。

長谷山 慶應出身ではない方の中にも慶應ファンがいるという話は随所で聞きますね。いろいろな方にご挨拶をしたりすると、実は子どもが慶應でお世話になりましたという方も多いですね。

例えば、現在の駐日中国大使孔鉉佑さんの就任時にお会いしたら、お嬢さんはSFCへの留学経験があり、慶應のことはよく知っていますと。

このたび海上自衛隊の海将だった大塚海夫さんという方が、退官されたあとに駐ジブチ共和国特命全権大使になられた。自衛官出身で初めての大使だそうです。その方が慶應に表敬訪問に来られたんです。以前、海賊対策で自衛艦が派遣されたことはニュースでみていましたが、義塾とどういうご関係があるのかなと思ったら、ジブチには1995年に日本の援助でつくられた「フクザワ中学校」という学校があるので赴任前に慶應義塾を訪問したいということでした。

「フクザワ」の名前の由来は、中学校の着工前、ジブチの教育大臣が来日した際に、「日本の近代化は我が国の手本だ、ぜひ学校名に日本の教育者の名前をいただきたい」と、大臣自らが福澤諭吉の名前を挙げたことに由来しているそうです。また、ジブチで話されているアラビア語方言の、「Fouko-Sawa(ともに開く)」という語にも由来しているとのこと。ではフクザワ中学校にぜひ何か慶應から図書をお送りしましょうかと話をしたら、最後に、実は子どもは慶應ですとおっしゃる。

皆さん、本当にうれしそうに自分のご家族の誰かが慶應の関係者だと言い、慶應には親近感を持って下さる。そこでまた新しい人間のネットワークが広がる。これは慶應義塾にとって貴重な財産だなと思います。

中谷 今おっしゃったアフリカで言えば、故・岩男寿美子名誉教授が中心となって、タンザニアのアルーシャにつくった「さくら女子中学校」という学校があります。ちょうど岩男先生が亡くなる前の夏に、そこで学校保健のモデル的なことをやりたいのだが一緒に行かないかと誘われたのです。

その時は、WHO緊急援助プログラムの監査の出張が入ったので行けなくなりました。アルーシャには、昔の同僚のタンザニア人が2人リタイアしているので、どちらかを校医さんになってもらうよう交渉してあげると言いましたが、岩男先生が亡くなってしまいそれが果たせぬ約束となっています。ですから国境が開かれたら、アルーシャに行って約束を果たさなければと思っています。

慶應ファミリーという思い

長谷山 中谷さんは幼稚舎から慶應でいらっしゃる。慶應の一貫教育というのは、日本でも、またおそらく世界の中でも珍しい特色のある教育システムです。その中で育ち、そして国際機関のお仕事をされてきた中谷さんご自身が振り返ってみて、一貫教育に対する評価はいかがですか。

中谷 娘も慶應の一貫教育を受けました。私は、一貫教育に対して非常によい思いしかないのです。それぞれの時期にタイムリーなことを強制ではなくホワッと教えていただいたような気がします。

幼稚舎の時は、率直に言ってあまり勉強もせずに、ともかく走り回っていました。放課後になると、クラブ活動もやったけれど、それだけでは遊び足りなくて、校地の奥の原っぱで、缶蹴りをして、用務員さんに追い出され、目黒まで缶を蹴りながら帰ったり。やはり「先ず獣身を成し、後に人心を養う」というか、仕事をさせていただくための健康、身体づくりという意味で本当にいい体験をさせてもらったと思います。

幼稚舎時代、土曜日は三田に寄って、塾法学部の教員をしていた母と一緒に帰宅することがありました。子供の目には三田の山というのは、まさに東京湾が見える「山」でした。高橋誠一郎先生が和服で歩いているのをお見かけしました。それから幼稚舎には今でもやっている1000メートル水泳というのがありますが、小泉信三先生がそれを見ておられました。戦災で負傷され、何かでっかくて怖い先生だなと思いました。でも優しい感じはしたのです。そんな思い出があります。

普通部を経て、高校は志木に進学しました。その理由は、商学部の和田木松太郎先生が当時校長をされていて、母が海外留学に出していただく時期だったものですから、生活指導も含めて信頼できる先生のところに置きたいという希望があったようです。ここでも非常に充実した青春を謳歌できました。

長谷山 私も最初は法学部でしたので中谷瑾子先生に教わりました。私の思い出の中の中谷先生はとても品のいい優しい先生でした。試験前に今期やったことをポイントはどこだときっちり振り返り、その上で試験をされるのでよく理解できるのです。そういう丁寧な教え方をされていました。当時は多くの先生がいかにも大教授で板書もあまりなく、テキストを手元に置いて淡々と講義をされていましたが、中谷先生は、教授法といいますか、教育にも力を入れる方で、大変丁寧に教えていただいた記憶があります。

私の師匠に当たる法制史の利光三津夫とは仲良しで、利光先生が家の建て替え先を探している時に、「利光さん、うちにいらっしゃいよ」と哲学堂の近くのお宅の敷地にあった離れを紹介され、そこにわれわれは荷物を運んでいったことを覚えています。

そういえば、私の記憶では当時から法学部は女性の先生が多いなという印象でした。後から知ったのですが、新制大学になって慶應にも女子学生が入ってきた時、後に慶應の教員になる女子学生が固まって入っているのです。昭和21年に文学部に伊丹レイ子先生、法学部には22年に人見康子先生、23年に中谷先生と米津昭子先生が入った。その方たちが同時期に女性教員として学部を引っ張っていく。

これは実は偶然ではないと思うのです。福澤諭吉は、当時としては非常に開明的な考え方の持ち主で、男女平等の女性論を説きました。また、今でも慶應は大学の中で女性教員の数でいうと日本一なのです。ですから、女性が社会で活躍できるような教育を意識して、一貫してやってきたのではないかと思います。

中谷 母の話をしていただいたのですが、優しい先生だとお聞きしたのは初めてです。橋本龍太郎先生に会うと、いつも「お前のお袋にひどい目にあって落第しそうになった」と聞かされていました。ただ慶應の先生でいて非常に幸せな人生だっただろうと思うのは、ゼミの学生さんたちと生涯、良い関係が続いていたことです。慶應を退職した後も特に親しかったゼミの方が家に来られて本を一緒に読んだり。母はそれを非常に楽しみにしていました。

特にゼミの最初の時期の女性のメンバーとは親密で、よく来られた3名の方を、我々夫婦は敬愛を込めて「3ババさん」と言っていたのですが、家内は結婚した当初、「姑さんが4人いる大変な家にお嫁にきてしまった」と言っていました(笑)。非常にいい関係を一生の間持ち続けることができ、3ババさんに感謝するとともに、大学の先生というのは、素晴らしい職業だと深く感じました。

また、私は英語を使って仕事をする時に、バックボーンとしてよかったなと思うのは、刑法の宮澤浩一先生の奥様がとても英語がお得意だったものですから、土曜日になると宮澤邸に行って丸善の文法書を勉強したことです。本当にそういう意味で私も慶應のファミリーの中で育ってきました。

私は社会に出てから厚生省に入って慶應義塾とはほぼ関係のないような道を歩んできました。基本的に東大法学部の人が多い世界でしたが、節目、節目で塾の先輩に助けていただきました。役所では、塾医学部の卒業生、WHO事務局長補になった時は、ジュネーブにいる大使が藤崎一郎さん(後に米国大使)だったのです。次が北島信一さんで両大使とも塾員で、本当によくご指導いただきました。

長谷山 藤崎さんには、この数年、慶應の外部委員として認証評価に加わっていただいていました。教育にも非常に造詣が深く関心がある方ですね。北鎌倉女子学園で長く理事長もされている。

中谷 上智大学の顧問をされていた時にご挨拶に行った際、ご自分も写っておられる歴代の米国大統領の写真をお見せいただきました。「これはどこのマダム・タッソーで撮られたのですか」と聞こうと思った矢先に、機先を制するように「これは全員本物だよ」と言われて大笑いとなりました。

国際保健の道を歩むきっかけとなったハンセン病

長谷山 以前、中谷さんからハンセン病との闘いを記録したご本を頂戴しましたが、非常に印象深い話でした。ハンセン病に対する取り組みについても少し触れていただけますでしょうか。

中谷 私が国際保健の道に入るきっかけとなったのが、実はハンセン病だったのです。医学部を出て研修医になった時、夏休みにたまたま瀬戸内海にある長島愛生園でハンセン病のセミナーがあるというポスターを見て、このセミナーに行ったのです。当時の長島愛生園の所長は、高島重孝先生という慶應医学部の卒業生で公衆衛生の講義でお話を聞いていました。それ以上に、長島愛生園には神谷美恵子さんという精神科医でマルクス・アウレリウス帝の『自省録』の翻訳者の方がいらしたことが大きかったのです。医学部ではラテン語が必修で、マルクス・アウレリウスがテキストの一部に使われていました。あのような名訳がどのような環境で生み出されたのか興味があったのです。

当時の医学部では、ハンセン病は難治性の感染症だから、患者は国立療養所に隔離されると教わりました。しかし、セミナーで私たちが知ったのは、WHOの調整の下に外来でハンセン病が治療できるような複合剤の研究開発が進んでいるということでした。このような話を聞いて国際保健は非常に面白い刺激に満ちた分野だなと思い、気が付けば40年国内外を行ったり来たりして活動することになる最初の鮮烈な経験でした。

それから、母は法学者として「らい予防法」の非人道性を強く認識していました。一方、公衆衛生の人間というのは、公益と人権抑制とのバランスの中で、どちらかというと公益と言いますか一般性を考えるわけで、それが結果として人間の尊厳を犯す危険があり常に自省を怠ってはならない分野だと思います。今ではこのような成熟した物言いができますが、30年前は若気の至りで、母とはすれ違いが生じたこともあり、個人的にも思い出が深い分野です。

長谷山 そういえば、私も思い出したことがあります。中谷先生は刑法の大家ですが、実は「尊属殺重罰制度の史的素描」という法制史の分野にわたる優れた論文があるのです。

明治以降、親殺しの尊属殺は普通の殺人よりも刑が重くて刑法の規定では死刑と無期懲役しかなかった。ところが親殺しというのはやむに已まれぬ事情がある悲惨な例が多くて、特に女子の尊属殺は情状酌量の余地が大きい事件があります。昭和48年に、最高裁が、刑法第200条の尊属殺重罰規定は憲法の定める法の下における平等に反し、違憲だという画期的な判決を下しました。そのことを学生時代、憲法と刑法の授業で習いました。

後年、自分が授業で律令法の家制度や刑罰制度について話すようになってから、中谷先生の論文をじっくり読んだのですが、中国律令からはじまって日本律令、鎌倉幕府、徳川幕府の武家法に至るまでの前近代法の中に尊属殺の歴史を辿り、次に明治の新律綱領から改訂律例、旧刑法までの編纂過程を辿って、草案ごとの尊属殺規定の変化まで丹念に分析して、それだけではなく、さらにローマ法から始まる大陸法と英米法、現代の諸外国の法までを詳細に比較するという徹底ぶりです。それまで日本の尊属殺重罰規定は明治におけるフランス刑法など西洋法継受の結果だと言われていたのですが、中谷論文はそうした一面的なとらえ方を正し、律令法に淵源を持つ封建的な家制度の影響が強い、いわば和洋折衷の法だということを明らかにされたのです。

しかも付記に「律令に関する部分は畏友利光三津夫教授の示唆と援助による。友情に感謝する」と、恩師の名があるのに気が付いて、余計うれしくなっことを覚えています。

これからの世界標準の大学の教育・研究

長谷山 コロナの話に戻るのですが、大学もオンライン授業やオンラインの会議を始めて、APRUやWEF(世界経済フォーラム)の学長会議でも何度かZoomによる会議を開き、どのようにこの危機を乗り切っていくかを議論しました。世界の大学のトップとの間で共通認識となったのは、ハイブリッド型の教育研究が今後は主流になっていくだろうということです。上手に使えば、教育・研究にしろ、研究者同士の国際交流にしろ効率的かつ広汎にやっていくことができるだろう。どのようにこの精度を高めるか、どういう共通プラットフォームをつくっていくかが課題になっています。

そのようにしてできあがっていくであろう新しい時代の世界標準にきちんと慶應も適合していく。その上で慶應らしい特色を出していく必要があります。今、慶應義塾の教育研究をご覧になって、今後、何かこうあったほうがよいのではないかというお考えはありま すか。

中谷 コロナは、全ての分野で今までのトレンドを加速し、課題を拡大するであろうと断言できます。教育も含めて、今までもデジタル化が進展してきたわけですが、それが加速・拡大することは明らかです。

今から2年前、シンガポール大学でAPRUの会議をした時に、シンガポール大学に新設された米国デューク大学との共同医学部の講義に参加させていただいたことがあります。それが非常に印象的だったのです。基本的には講義はない。ビデオを事前に見てから教室に来いということで、教室では徹底的に問題解決の知的体力エクササイズなのです。手元にボタンがあってクイズに答えていき、連続して間違えると、こいつは勉強していないと判断される。それに併せて次はこういう課題を考えろとか、これを読めと個別指導をしていくのです。

今、姿を現しつつあるハイブリッド型の講義を、既にシンガポール大学は始めていたわけです。たぶんこれからはこのような授業形態がニュー・ノーマルなものとして進んでいくと思うのですが、大学として大変だろうなと思うのは、教育資源、端的に言えばお金もかかることなので、そういったソフト面の投資がこれからは大きな課題になるのではないかということです。

長谷山 全く同感です。今おっしゃったのは反転授業という形で、十分に予習をしてもらって、教室では議論を中心にすることで、その授業が機能していくということですね。加えて、教室に集まっている学生とZoom等で受けている学生、両方に授業を行うという意味での混合型、ハイブリッドもありますね。

もちろん対面型の教室でも質問や議論はできます。しかし、オンライン型でやるとチャットを使うなど同時多発的な議論が生まれるし、いろいろな新しい効果の発見もありました。それを今度はどう対面型とうまく組み合わせて教育の向上につなげるか。それがこれからの大学の方向性になると思います。それには確かにシステムやセキュリティの強化やいろいろなインフラ整備に相当な投資が必要ですね。

私が今、施設関係の方にお願いしているのは意識の切り替えです。デジタルとアナログ融合の時代には、1つの建物を建てると、それと同じぐらいの額のソフト面とかシステムとか、IT系のお金が必要だし、そのぐらいのつもりで施設をつくっていかなければ追いつかない。施設をつくれば、その建設費と同じものを投入する覚悟で教室や研究所をつくっていくつもりでお願いしたいと言っています。

中谷 それは素晴らしいお考えですね。Zoomの会議は楽じゃないかと思う人がおられますが、それは大間違いで、オンラインだからこそ中身を充実させなければいけないし、プレゼンテーションの仕方も工夫しなければいけない。講義をする教員以外のサポートの方々の配置もずいぶん変わるのではないでしょうか。例えば、ビデオの収録をストレスなくサポートしてくれるような技術の方が必要になってくるでしょう。

5月にオンラインで行われたWHOの総会などを見ても、むしろ途上国のほうが先進国よりも一生懸命やるし、きれいに撮るのです。ルワンダとか、デジタル先進国を目指そうという国は非常にきれいな画面で中身もよかったです。日本も中身はとてもよかった一方、画像の質はちょっと残念でしたが、今は大幅な改善がみられています。

先進的な取り組みと伝統のハイブリッドモデル

長谷山 国の政策としてのソサエティ5・0では、サイバー空間とフィジカル空間が融合するような社会で幸福を目指すと言っています。であれば、サイバー空間にもフィジカル空間と同じぐらいの資金を投入して、設備を整備していかなければそれはできないので、やはり国を挙げてやっていく必要があるだろうと思います。

ただ慶應の場合には、そうした先進的な取り組みの一方、今まで伝統の中で培ってきた教育、人材育成も大事です。特に重要なのは、先ほどから申し上げている通り、慶應義塾は人間関係で成り立っていると言ってもいいような大学なので、キャンパスにおける仲間との触れ合いや教職員との交流の機会をどのように再構築していくかです。

「人間交際」を大切にする教育によって、財界、政官界、芸術界、スポーツ界、学界、法曹界、医療界等、社会のあらゆる分野をリードする人材を送り出してきたと思うのです。これが慶應の特徴ですので、これをきちんと守ってさらに発展させるという方向に頑張っていかなければいけないと思います。

中谷 そのモデルができたら素晴らしいですよね。教育論としても素晴らしいし、社会への貢献になります。考えてみると、今、私たちが相手をしている学生は大体20歳ぐらいで、彼らが一番活躍するのは、これから30年後、2050年頃でしょう。だから、そういう方々が活躍する社会、そこで生きて文明を開いていけるように、未来から逆算したバックキャスティング思考で指導をしなければいけないと思います。

2050年と言うと、日本の人口は1億人を切るし、経済規模もたぶんインドネシアより小さくなる。今は太平洋の時代ですが、その頃はインド洋周辺の国、そしてアフリカの人口が増える。このようなシフトの中で慶應義塾がグローバルな大学として発展していくためには、塾長の手腕は今後とても重要ではないかと思います。まさに時代の変わり目だと感じます。

長谷山 そうですね。時代をつくるということですね。「災い転じて福となす」と言いますが、このコロナ禍を逆にチャンスと捉えて、教育や研究や医療に、インフラをきっちりと再構築、土台を強化してさらに発展するということだと思います。

中谷 福澤諭吉先生の『学問のすゝめ』第五編には、「進まざる者は必ず退き、退ざる者は必ず進む」という言葉がありますね。その言葉がまさに今の時代に現実感をもちます。

長谷山 ぜひそういう方向に向かって頑張りたいと思います。

女性活躍をサポートするシステム

長谷山 もう1つ、働き方改革ということが社会で言われています。大学にとっても教職員、特に職員の働き方が大きく変わっていくので、それに向けたいろいろな制度改革をしなければいけないと思っています。女性活躍ということでいうと、慶應義塾は教員も女性が多いですが、職員部門でも幹部に割と女性が多い。しかし、中堅層ぐらいの管理職が少ないので、これはまだ育児支援などいろいろな面で支援策が必要で、女性が力を発揮できるように慶應内部の働き方改革を加速していかなければいけないと思っています。

中谷 ぜひお願いします。そうしなければ、慶應を出た有能な女性が皆外に行ってしまいます。

実際、国際機関で働いている慶應の卒業生は女性が多いのです。例を言えば、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の日本常駐代表、WIPO(世界知的所有権機関)のリーガルオフィサーで日・米両国の弁護士資格も持っている方も女性塾員です。それから先輩としては、国連退職者のOB・OG会があるのですが、会長を文学部社会学科を出られた伊勢桃代さんが長らく務められてきました。

国際機関は日本よりもガラスの天井がない感じで、日本人職員の7割近くが女性ではないでしょうか。国内を改革しないと、海外のほうが働きやすいと感じて、優秀な人材こそどんどんブレーンドレインをしてしまうのではないかと恐れます。

長谷山 本当にそうですね。2017年は世界銀行女性CEOのゲオルギエヴァさんが慶應に来られて講演してくださり、学生にもっと国際機関へいらっしゃいというお話をしてくださった。2019年にはドイツのメルケル首相も来られて学生といろいろな討論をしていただいたのです。

その中で女性が役員とか、リーダーとして活躍する上で何が必要か、とある女子学生がメルケル首相に問いましたら、もし将来管理職やリーダーの話がきたら、とにかくためらわずに引き受けなさいというアドバイスをされていた。この話のポイントは、女性自身の意識をさらに変えていくということもあるけれど、ためらわないですむようなサポートシステムをつくっていかなければいけないということです。

「30%Club」というイギリス発祥で企業の役員の女性を30%にすることを目指している団体があります。日本では「30%Club Japan」がつくられていて、そこのバイスチェアが慶應の卒業生で評議員・理事もお務めいただいている後藤順子さんです。後藤さんが「30%Club Japan」の創業者である只松美智子さんとお2人で私を訪ねてこられ、「30%Club Japan」の中に大学のグループをつくるので、参加してくれないかというお話でした。同じく塾員で義塾常任理事の岩波敦子さんのお勧めもあり、それはぜひということで私も「30%Club Japan」に名前を連ねているのです。

参加した以上は慶應義塾でも30%の目標を達成しなければいけないので、大変なことを引き受けてしまったと思うのですが、慶應卒の女性は皆元気が良いし、いろいろなところで頑張っていますので、塾長としても一緒に頑張っていきたいなという気にさせてくれますね。

中谷 女性の感性はこれから非常に重要になると思います。私自身、ボスはたいてい女性で充実した職業人として活動できました。WHOではマーガレット・チャンさんでしたし、厚生省でも横尾和子さんといって、社会保険庁の長官をしてから最後は最高裁の判事になった方が上司でした。彼女からは本当にいろいろ教えてもらいました。猛烈に仕事をされる方でしたが、いつも葉書を持っていて、少しの隙間時間に、「昨日はありがとうございました」と葉書を書いているのです。非常にヒューマンな方でした。

長谷山 そういう心遣いは本当に心に響きますよね。昨年、連合三田会会長が交代して、医学部出身の菅沼安嬉子さんが会長になられた。就任早々、連合三田会大会も自粛せざるを得なくて大変だったのですが、菅沼会長は、会員を励ますメッセージを発信したり、医療支援や学生支援の募金活動に力を入れて下さっています。今後も三田会をどのように盛り上げるか、いろいろ考えていかれると思うので大変期待しています。

コロナ時代を乗り切る学術の拠点

長谷山 今年は塾生たちも大変な目に遭ったわけですが、1つうれしかったのは、そういう中で塾生がいろいろな工夫をしてくれたことです。SFCでは1、2年生の有志が先端技術を駆使してバーチャル七夕祭を実現した。三田祭も三田のリアルの会場と観客をオンラインでつなぐハイブリッド型で開催されましたし、医学部では学生が大変詳細な感染防止ガイドラインをつくって、それを全塾協議会の学生がウェブ上で公開しました。制約の多い中で体育会の各部も輝かしい戦績をあげてくれました。

ただ大変だ大変だ、と言っているのではなく、いろいろな工夫をしてできることをどんどんやっていく。そういう気風がいろいろなところに見られたのはうれしく思っていますし、そういう塾生がもっと活躍できるようにしていかなければいけないと思います。

最後に1つ、新春ですので景気のいい話をしますと、いろいろな伝統の蓄積の上に次の進化を目指すという意味で、2021年の春には三田キャンパスに2つのミュージアムができます。一つは「福澤諭吉記念慶應義塾史展示館」と言い、慶應が過去に蓄積してきた学術史と、それから創立者福澤諭吉と慶應義塾を日本の近代化の中に正確に位置付けていくことを目指す展示館です。もう1つは「慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)」という、デジタル技術をふんだんに使って、アナログとデジタルの融合した学術コンテンツを展示配信することで、新しい教育、研究発信の拠点にするものです。

慶應義塾の培ってきた広い意味での人文学の蓄積と、先端的な技術、これを人文学か科学かという2項対立ではなく、両者が上手く融合して力を発揮する、新しいタイプの学術の拠点としたい。理系も文系も備えた総合大学として発展していく1つの象徴的な出来事だと思っています。

中谷 ぜひますます発展をされますように。今年はサンフランシスコ平和条約から70年ということで国際協調を回復する年でもありますので、国際的な学塾として激動の日本を先導されることを、OBとして大いに期待しています。

長谷山 本日はお忙しいところをどうも有り難うございました。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2023年1月号