【特集:新春対談】 新春対談:歴史が教えるコロナ後の社会 | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:新春対談】新春対談:歴史が教えるコロナ後の社会

三田評論ONLINEより

  • 磯田 道史(いそだ みちふみ)

    国際日本文化研究センター教授。1970年生まれ。96年慶應義塾大学文学部史学科日本史学専攻卒業。99年同大学院文学研究科博士課程修了。博士(史学)。茨城大学准教授、静岡文化芸術大学准教授等を経て現職。専門は日本近世史・日本社会経済史。著書に『近世大名家臣団の社会構造』『感染症の日本史』等多数。NHK BS「英雄たちの選択」で司会を務める。

  • 伊藤 公平(いとう こうへい)

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17年~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。日本学術会議会員。2021年5月慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

歴史学者の物差し

伊藤 明けましておめでとうございます。今日は宜しくお願い致します。磯田さんとの対談を楽しみにしてまいりました。

磯田 こちらこそ、どうぞ宜しくお願い致します。

伊藤 さて、2020年3月以降、慶應義塾も新型コロナウイルスのパンデミックへの対応に終始してきました。慶應病院においても、対応に苦慮してきたわけですが、その中で、初代医学部長北里柴三郎博士が「雷親父」と言われたことから名付けられた「慶應ドンネルプロジェクト」(ドンネル=ドイツ語で雷)により、2020年4月からCOVID‑19の研究を始め、高い評価を得ています。

また、2021年6月から三田キャンパスにおいて、慶應義塾は5万人を対象にした職域集団ワクチン接種を行ってきました。今回、新型コロナウイルスに対するワクチンがこんなにも早く、発生から1年余りでできたということは、「現代医学はすごい」の一言に尽きると思うのです。

ただその一方で、京都大学の歴史学者、藤原辰史さんが2020年4月の時点で「長期戦に備えよ」と言われました(2020年4月26日付「朝日新聞」)。ここまで医学が進歩して、公衆衛生に対する知識も意識も進んでいる中において、「歴史はウイルスとの戦いは長期戦になると教えている」とおっしゃったことに、私は衝撃を受けました。私が新聞でそれを知ったのは藤原さんの記事が初めてですが、磯田さんもその前から新聞紙上などで、同じような趣旨のご発言をされていたということですね。

磯田さんはご著書『感染症の日本史』(2020年9月、文春新書)等でも、この感染症は第一波、第二波、第三波と波状攻撃が来ると初期の段階から言われていた。2年近くが経ち、第五波まで経験して初めて「ああ、こういうことだったんだ」とわれわれはわかったわけです。例えばレストランでメニューを選ぶ際、個人的な経験に基づいて選ぶわけですが、歴史学者の方々は、人類の経験というものを歴史として、それを基に判断されている。このすごさに私は圧倒され、歴史というものが1つの指針になることを実感しました。

まず歴史学者として、これからの社会で生きていく上で、磯田さんの考える「歴史」の位置付けというものを教えていただけますか。

磯田 今回のパンデミックについて言及するにあたっては、正直なところ躊躇もありました。しかし過去の感染症の歴史に触れたことのある歴史家としては、この先、この感染症がどういう経緯を辿りやすいのか、歴史的知識から、イメージがあったのです。

私は2020年3月6日付『朝日新聞』「耕論」に、取材を受け、記事を載せました。取材自体は2月だったと思います。その時点で世間が思っているよりも、この事態が長引く可能性がある、と警鐘を鳴らしました。ウイルスは変異して波状的にわれわれを襲ってくるのが過去のパターンでした。また、コロナウイルスの場合は、はしかのように一生持続する強い免疫持続性はないと見るべきで、安易に集団免疫戦略をとるのは危ないと、訴えることにしました。

このようなパンデミックは100年に一度起きるかどうかなので、やはり歴史学者しか見ていない遠い視野で眺めていないと言えないこともあると思ったのです。そこで私や藤原先生などが、「このウイルスは思ったより長く暴れる」という警鐘を鳴らしたのです。だから移動の自由を一時我慢する必要があるのだとも発信しました。

その時に背中を押してくれたのは、実は福澤先生の言葉でした。『民間雑誌』第三編に明治7年に書いた「学者は国の奴雁(どがん)なり」という言葉です。福澤先生に興味のある方には有名な言葉ですね。

伊藤 そうですね。清家篤元塾長がよく使われました。

磯田 私もこの言葉が非常に好きなのです。雁の群れが野にいて餌をついばんでいる時、その中に必ず一羽だけ首をぴょんと上げて四方の様子をうかがって、不意に難が降りかからないか番をするものがいる。これを「奴雁」というのであると。一羽だけは、目先の餌の御馳走を我慢して、ひたすら遠くを眺めて警戒している。そういう一羽の雁が大切であり、学者の役割もまたこういうものなんだと。

天下の人が目先のことに夢中になって、危険に気付かない場合があると、福澤先生は言いたかったのでしょう。「あれは言っておいてくれてよかった」というような、後日役立つ話を学者はするべきだと言った。俗に「親の説教と冷や酒は後になって効いてくる」と言います。そういう後で後ろ姿を拝まれるような早めの警告を学者は発すべきだ、という福澤先生の実学思想に勇気付けられ、「今言わなかったらいつ言うんだ」と思ったのです。

速水融先生の言葉

伊藤 なるほど。また、磯田さんは、学生時代より速水融先生のもとに通われていたのですよね。

磯田 私は経済学部ではないのですが、学生時代から私淑する形で速水融先生を追いかけ回しました。速水先生が最後に取り組んだ大きな仕事にスペイン風邪の研究があります(『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』、2006年、藤原書店)。速水先生は「磯田君、パンデミックは必ず来る」と言うのです。今でも耳底にそのイントネーションまで残っています。慶應の東門の横の建物に部屋を借りて、当時の新聞をひたすら集め、スペイン・インフルエンザの研究をされていたのです。

その時、ウイルスは波で襲って来るのだともよく語っておられた。しかも、その襲い方は、最初は先ぶれのような弱毒のウイルスが来る。そのうちに変異してすごい感染力になり毒性も強まって、これまで流行がなかった郡部に住む人や、丈夫な若者まで罹患する。速水先生は茶飲み話でもそんな話をされた。でも、そうなると、国民の大多数が免疫や抗体をもち、パンデミックは終息に向かっていくわけです。

速水先生が2019年の12月にお亡くなりになった直後にこのパンデミックが来たものですから、余計に福澤先生の言葉と併せて、差し出がましいとは思いつつも発言しようと思いました。

伊藤 磯田さんが出席された速水先生の文化勲章受章時の12年前の『三田評論』座談会(2010年2月号)でも、磯田さんは、「冷静に考えると、この日本列島で何十万もの単位で人が死ぬ可能性があるのがインフルエンザです」と言及されていますね。

速水先生の仕事は、数値を入力したり、ものすごい数の人が動員される巨大実験室だったということですね。

磯田 もう膨大な労力で、舞台裏は本当に大変でした。まず江戸時代の住民台帳に当たる宗門人別帳(宗門帳)を撮影してくる。この帳簿を解読して何歳で死んだとか奉公に出たとかその情報を電子データ化する。古文書を解読して情報シートに記入し、それをデータ入力してデータ・ベースをつくる。それができたら、しっかりデータクリーニングをやって分析する。江戸人の生存曲線を描き、平均寿命や乳幼児死亡率をはじき出す。男女や階層別の結婚年齢なども出します。何万何十万という数字を集計した結果、ようやく必要な数表が一枚得られるというような研究です。もう本当に砂を嚙むような作業から生まれてくるのですね。

伊藤 それは結果に意義を見出せないとできないですね。

磯田 ええ、やれないですね。私は、やはり江戸社会を見る時に、何歳で江戸人は死んで、何歳で結婚して、何歳で働きに出てという基礎データを重視していました。基礎データもなしに、その社会についてわかった顔をしてはいけない。だから江戸社会の分析の基礎工事に意義を見出していて携わりたかった。それが私が速水研の「下働き」に耐えられた理由でした。

伊藤 でも、その過程で、「何歳でこの人たちは死んで、このぐらいの人たちがこんなに生きてたんだ」とか小さな発見があると、私たち技術者にとっての「探していた部品が見つかった!」みたいな喜びがあるわけですね。

磯田 そうですね。滅多にありませんが、双子が生まれている事例があったりして、育つのかどうかがわかります。そういったことが生のデータを見ているとちらほら見えるのが楽しみでした。

「国民安全保障」という考え方

伊藤 今回のパンデミックに関して、磯田さんが、NHK BSの「英雄たちの選択」の中で、「今後は国家安全保障ではなく、民の命を守る〝国民安全保障〟が国家の目標にならなければならない」とズバリとおっしゃった。こういったお考えはどのような経緯で出てきたのでしょうか。

磯田 慶應義塾を歴史の中において眺めて考えていて、国民安全保障ということを考えるようになりました。福澤先生たちが慶應義塾を創ったのは19世紀で、西洋を範に近代化をして国民国家をつくり強国化しないと日本列島の人々の生存自体が難しいと考えられていた時代です。要するに西洋をキャッチアップして国を強くしないと、生き残れないという時代でした。

でも、近代から現代になり、国家をこえた人流・物流が激しくなってくると、その様相も変わってきます。19世紀は国家や民族のところに命を守る防衛ラインが引かれていました。しかし、21世紀半ばに入った現在の状況を見ると、やはり個体としての人間のところにも、しっかり防衛ラインが引かれる必要があるのです。

その防衛ラインは、もはや複雑で多層的です。旧来の軍事的な安全もあれば、放射能や病原体の侵入を防ぐ健康面の防護もあります。経済的、精神的な安心もあると思います。個体としての命への共感なくしては、やはりこの21世紀に、人類が幸せに生きていくのは難しいと思うのです。

でも振り返って考えてみると、福澤先生が慶應義塾を創った頃の時代もそうは違わないとも言えます。幕末から明治にかけて、2つのリスクを日本人は抱えていました。1つはもちろん砲艦外交をしてくる西洋列強です。もう1つが、ウイルスと細菌です。特に疱瘡(天然痘)とコレラという、人間にとっては非常に厄介な2つの相手がいて、これは1回流行すると10万人以上死ぬこともあった。

ところが、この西洋列強とウイルス・細菌という厄介な2つを、幕末に適塾に集まった蘭学者たちが両方とも解決してしまうわけですね。大村益次郎は陸軍を造り、西洋型の軍事力を増強し、列強に立ち向かう基礎をつくった。一方、緒方洪庵や長與專齋はウイルス・細菌のほうに立ち向かう基礎をつくった。

伊藤 長與は「衛生」の語を採用し、衛生行政の基礎をつくっていますね。

磯田 そのように適塾に集まった蘭学者たちがリスクの解決をやっている。もう少し古い時代には高野長英が蛮社の獄で弾圧されますが、その家系から後藤新平が出てくる。そのように、蘭学者、英学者の学問が実学として信用を得たのは、この2つのリスクを彼らが解決したからです。ですから極めて強い信用を得て公共に関わっていくようになったわけです。

福澤諭吉の思想はなぜ古びないか

伊藤 しかし、そうは言っても、時代が下ると、慶應義塾にとっては、1890(明治23)年の「教育勅語」が大きな転機になるわけですね。明治政府はやはり天皇を中心とした国をつくりたかった。これも外敵と戦うためということなのでしょうけれども。

それに対して慶應義塾の独立自尊は一人一人の人権、個の尊厳を大事にし、段々と国の考え方と対立してくる。福澤諭吉の亡くなる1年前に発表された「修身要領」は「教育勅語」に反するものということになり、個のためではなく、やはり国のため、天皇陛下のためというようなことに日本が向かっていくわけです。〝洋学と言えば慶應義塾〟という地位ができても常に少数派だった。もし「修身要領」的な考え方が日本の主流になれば、第二次世界大戦への参戦はなかったのではないか、ということも慶應義塾では議論した人がいます。

磯田 全社会の先導者を目指す慶應義塾という点は、私も21世紀半ばの今、非常に大事な視点だと思っています。福澤諭吉の思想が古びないのは、2つの理由があると思うのです。

1つは、知識を世界に向けるか、国内に向けるかということですが、国学というものがものすごい勢いで幕末、明治にかけて非常に流行る中、福澤諭吉の眼は内向きの神道・国学には向かず、外へ向く。それで世界の知識を入手して一番いいものを使う。別に日本を否定しているわけではありません。世界の中で日本を位置付けるという広い視点ですね。

もう1つが、国家に象徴される集団へ立脚点を置くか、個に置くかという点です。その時代はやはり集団主義が多かったわけです。藩も忠義ということで個人が藩や国家に結び付いて、親孝行の「孝」ということで家制度、家族に結び付けられていた。

ところが福澤先生は学問によって涵養される知の働き、知識、見識による個の判断を重視する。これがないとやはり何をやっても始まらない。それこそが国や家庭をしっかりしていくものの基本であると、個を根本、立脚点としたところが福澤諭吉の素晴らしさだったと思います。これは私は150年経ってもなお有効な思想だと思うのです。

伊藤 そうですね。福澤先生の言葉は当時の最先端の洋学を土台にしたのですが、これを今読むと、「普通の西洋の考えじゃないか」と言われることがある。しかし、それはその時の日本が置かれた状況という文脈に照らし合わせると画期的なことなのです。誰も世界に目を向けていなかった時に、世界から様々な知識を取り入れた。しかも大変な愛国者だったわけです。

ですから、福澤諭吉が今もわれわれの心の中で生きているというすごさを、どうやって慶應義塾の塾生たちに伝え、全社会の先導を目指すべきか、ということがわれわれの大きな課題です。

そして無駄を省いて要点をスパッと書かれる。磯田さんもスパッと竹を割ったような文章を書かれますね。回りくどい表現というのは、福澤先生のおっしゃった演説の美学に全くもってつながらないと感じます。今、遠回しに話す人が多いので。

磯田 「わかりやすく話す」ということですよね。僕は近代史の先生から「福澤先生は、文章を書いたらまず音読して、家の女中さんがわかるかどうか確認していたらしいよ」と言われ、目から鱗が落ちました。この話が、最初の著作の『武士の家計簿』を書く時から頭にあって、リズムのよい、中学生が聞いてもわかるような文章を目指しました。

あれだけわかりやすさにこだわるというのは、福澤諭吉が、西洋の近代市民社会のモデルを日本に入れる時に、いい道具立てを2つ重視していたことに象徴されていると思うのです。

それは学校と新聞です。まず学校で人を育てる。それとともに、分厚く広がった地方にいる人たちへ『時事新報』などで世界知識を素早く注入する。そうやって世界の情報の融通をやり、産業立国を目指すという考えです。ものを生み出す力を津々浦々まで新聞という送信装置が与えて、人間を頭の中から、しっかりさせていく。手間はかかるけれど、このやり方が社会改良の王道です。後になって効果が出ます。

日本は武士の時代が長かったから、上から価値や知識や情報を落とすやり方が得意です。権威主義的な縦型社会になりやすい。これは近代化のスピードの点では効率がいいかもしれませんが、そうしている限りは変化への対応や個人の幸せ追求といった考えは出てきづらい。やはり新聞と学校を重視しながら、しっかりと責任ある公共性を持った人々をつくって産業力を高めていくという、遠回りでもまっとうな国や社会のつくり方を提言したことが、私は福澤の優れていたところだと思います。

伊藤 そうですね。慶應義塾という命名も、慶應はたまたま時の年号を取ったわけですが、「義塾」は英国のパブリックスクールから取ったということです。パブリックスクールというのは必ずしも公立ではなく、私立でありながら、公共団体ではない形で公の発展を考えるわけです。さらに、独立自尊で一人一人の個に重点を置き、一身独立という、まさに今危機にさらされている民主主義の基本を重視する。ですので、私どもの一つの任務というのは、今、民主主義を健全にどう発展させるかということなのかと思っているのです。

どのように情報を読むかというリテラシー

伊藤 民主主義の健全な発展のためには歴史研究における一次資料が大切で、さらにファクトチェックが大切だと磯田さんはおっしゃっていますね。

磯田 ファクトチェックはとても大事だと思います。なぜかと言うと、基本的に発信手段が私の学生時代とまったく違うからです。私が学生の時、『第三の波』を書いたアルビン・トフラーが三田に講演に来ました。彼は、これからはコンピュータなどの情報機器が発達し、発信の主体が多極分散型になると言っていた。そして一般の大衆が何でも発言するようになるから、大新聞社や放送局、学者の言説といったものは力を持たなくなってくる、ということでした。

彼が言うことは結構当たるのです。現在はスマートフォンなどで実に様々な情報を皆が各々発信している。その中には、真実かどうかよりも、そうだったらいいのに、という願望、信じたいものがかなり含まれている。それは事実かどうかをチェックしないと、あらぬ方向に物事は向かってしまう。人間はいろいろなバイアスにとらわれていて、自分の所属している集団が褒められている情報は耳に入りやすいので、それをチェックしなかったら、誤った情報のまま先に進んでいってしまいます。やはり事実のチェック、一次資料に戻るということが大事だと思います。

伊藤 ただ、一次資料の見方も、その分野に優れた専門家の中でも意見が違うこともある。福澤諭吉が言った多事争論ですが、ああいうスタイルがやはり大切なんでしょうね。

磯田 その通りですね。一次資料だから正しいということは絶対にないわけです。例えば本能寺の変が起きた時、豊臣秀吉が発信した手紙は一次資料ですが、信長公は脱出できた、まだ生きているという偽手紙を出しています。そうすると、むしろ大事なのは、どのように情報を読むかというリテラシーなのだと思います。

この情報は何のために出ているか、どういう目的で、どのような状況下で発信されているから、正しいのかという判断できる訓練が必要だと思います。

伊藤 磯田さんが近衛文麿や松岡洋右のいわゆるポピュリズムを取り上げた番組の中で、「ポピュリズムの熱狂というのは必ず単純化が起き、気持ちのよいものに飛びつき、敵味方、善悪にはっきり分かれて相手を攻撃する。ポピュリズムの罠に陥らないために必要なのがファクトチェックだ」とおっしゃっていた。まさにファクトというのは、何人かで検証して初めて出てくるということですね。

磯田 そういうことですね。世の中というのは本当に複雑にできていますから、複雑にできている世界を複雑なままに理解しようと思うと、ある程度の情報やファクトが必要になってくる。あまりにも単純に理解できてわかりやすいと思う時は、やはり少し疑ってみることが大事だと思います。

AI時代に人間が担うべき役割

伊藤 そうなってくると、学校という教育機関において未来社会デザイン拠点をつくっていくという意味では、どういう教育をすればいいのでしょうか。

磯田 以前と比べて、意味や本質を深く考える力を養う教育が必要になってくると私は思っています。よく科学と「人文知」の結合ということが叫ばれている。その通りなのですが、しかし、人文知と言われているわれわれの分野も、放っておくと基本的に文字を読むだけに終わってしまうこともあるのです。

昔から「論語読みの論語知らず」という言葉があります。つまり、文字の読み方を教えるだけが人文学の仕事になりがちなのです。しかし、文字の彼方にある意味や本質を深く考えることが大切です。それこそ伊藤さんの分野に近いのかもしれませんが、量子コンピュータやAIなどがどんどん発達してくると、アルゴリズムが決まっていて、かつ目標が決まっているものであれば、かなりのものは人間よりもコンピュータのほうが早く解けるようになり得るし、もう実際になっていると思うのです。

こういう時代に、では人間の担うべき役割とは何かということだと思います。例えば慶應義塾のような大学がどういう人材を育成すべきかを考えると、私は抽象度の高い課題を総合的に考えることかもしれないと思うのです。抽象度が低い課題、例えば慶應義塾から三田駅まで人を車で送れ、というようなものはAIによる自動運転で解決される問題だと思いますが、伊藤さんが塾長としてなさっているように、慶應義塾を活用して日本社会に役立てるにはどうしたらいいかという課題はきわめて抽象度が高いですよね。

会社を経営して社員を幸せにしろと言われても、それは賃金なのか、福利厚生なのか、やり甲斐なのか。こういったことはやはり意味が重要なのです。これからは、そういった抽象度の高い課題を考え、それを実現できるような人を育てることを目標にせざるを得ないと思うのです。

伊藤 そうですね。磯田さんは発想結合という言葉を使われていますね。発想を結合していくということは、つまりただの博学では駄目で、発想という想像力を豊かにして、それを結合していく力が必要なわけですね。結局AIにしても、機械学習というような形で学習している限り、今ある中の組み合わせで過去の経験に基づいて学習するので、その枠を超えることはなかなかできないわけです。

磯田 それは難しいのでしょうね。

伊藤 ですから、これから人間にできるところは何かと、皆、期待するのですね。

磯田 そうですね。福澤先生の時代のほうが、教育の目的がわかりやすかった。あの時代はcivilization、文明を教育する時代でした。文明に似ていますが全く違う言葉に文化、cultureがあります。文明と文化はどこが違うかと言えば、例えば、「火事を消す」というタスクがある場合、「文明」では消火器で消す。文明の利器です。地球上どこの社会でも火は消火器で消せます。文明は普遍的です。しかし、「文化」の火の消し方というのは特異的です。例えばお城の屋根の上に「しゃちほこ」を載せます。しゃちほこは水を呼ぶから防火の対策になると思ってやっているのですが、実際には火は消えません。

しかし、しゃちほこを屋根に載せることと「火が消える」ことを脳内で結び付けている集団が日本列島にたしかにいた(いる)。この不思議な意味の結びつけ状態こそが「文化」です。よその集団からすると、まことに奇怪な意味の結び付けですが。馬鹿にできません。これが面白がられる。お城の屋根に消火器を置いても観光客は来ない(笑)。ところが「水をよび火を消す意味で城の屋根には、しゃちを載せてあります」と言うと、面白いと感じて、世界中から見に来る。ホモサピエンスは意味のこじつけでできた文化を面白がる動物なんですね。人文知はこの「文化」を扱います。今世紀の経済は脳内を喜ばせる消費の割合が増大します。意味や価値をさぐる人文知の意義が大きくなるわけです。

今、なぜ屋根の、しゃちほこを見るために、何万円も交通費を払って来る観光客がいるのか。文明化だけでなく文化化の時代になっているわけです。こういう人間の持つ幅広さ、古今東西の時間、空間を乗り越えて、いろいろな情報に接することを面白がる性質が重要になってくるかと思います。江戸社会には道楽という、無償の遊戯性と呼ばれるものもすでにありました。そういうホモサピエンスの性質そのものについて考えることも、これからの教育には必要な気がします。

先導者としての使命

伊藤 なるほど、面白いですね。私なども量子の研究が好きで、基礎研究として没頭しているうちに、量子コンピュータというものが、ものすごい勢いで現実化してきたわけです。この好奇心に基づく現代科学の発展は破竹の勢いです。がん治療でも、患者さん個体のがんのゲノム情報を取って、このゲノム情報だったらこの薬だと決められるようになっている。普通の計算機ではできない計算が量子コンピュータでできるようになり、それによって不治のがんが治るようになるかもしれない。

これは素晴らしいことですが、その一方で、ゲノム編集によって、例えば背の高い人、鼻が高い、見栄えのいい人が自在につくれるようになると、やはりわれわれ慶應義塾としても、やっていいことといけないことを、人文知、総合知を併せて考えなければならなくなる。哲学、倫理学の出番とも言えるでしょう。さらにその上で、「名古屋城のしゃちほこは見事!」と楽しめるような豊かな感性を大切にする世界をつくっていかないと、逆に文化が死んでしまう可能性があると思うのです。

磯田 そうですね。目標さえ決めてしまえばその山は登れてしまうんだけれど、それを達成した状態が誰の幸せか、どのような意味を持つのかということ自体を考えないといけなくなりつつありますよね。

伊藤 そのようなことを含めて、これから10年、30年、50年後の全社会の先導者をつくっていくことが慶應義塾の使命です。平和で健全な社会の発展のためには、やはり過去を教訓として気を付けていかなければいけないということが多々あると思います。どのようにすればよいとお考えになりますか。

磯田 僕は日本の役割、ひいては慶應義塾の役割は、やはり、これからも大きい気がします。この21世紀の半ばという時代は、昔は、西洋キャッチアップ型で済んでいたのが、そうではないところにわれわれ人類は入っています。しかも、体制や価値観の相違が世界でも露わになり始めている。昔は西洋の民主主義や自由主義、人権尊重といった考え方がないと経済発展はないと無邪気に信じていたのですが、今や必ずしもそうでなくとも経済発展をして大国化する国々が現れています。この地球上で、さまざまな相違がある中、われわれはどう生きていくべきかを論じて、モデルや仮説を提示すべき時代になっていると思うのです。

私は、日本社会は、あらゆる面でどっぷり西洋でもないし、どっぷり東洋の古代文明からつながる社会でもない。そして、文明文化の激突や混じり合いを先行的に経験させられてきた「モルモット的」社会だと思うのです。例えばナショナリズムが行きすぎて失敗するとか、工業化を進めすぎて環境問題、公害を経験するとか、西洋化を推し進めすぎて自己のアイデンティティについて悩みを深めるといったことを真っ先に経験してきた。

こういう国家こそがはっきりした答えがない時代に、世界に対して何か現実的な対応の範になるのではないか。そして慶應義塾は、体制や価値観の相違があったとしても、「現実的な対応とは何か」ということをひたすら模索していくのに非常に優れた面を持った学風を持っているのだと思います。それが、われわれ塾員の役割ではないかと思いますし、変化する時代に、変わっていくものに対応するというよりも、情報を発信しながら変えていく主体になれると思うのです。

演説館がそうですよね。時代が変わっていくことを受け身になるのではなく、変わっていく世の中であるならば、こっちに行ったほうがいいよ、と変える主体をつくったという点で、やはり大事な場所だと思っています。

学びの場をつくるために

伊藤 慶應讃歌の2番に、「意気と力と熱情の 血潮に燃ゆる男(お)の子(こ)等が」という歌詞があります。現代的には「男の子」ではなく「若人」とでも読み替えるべきでしょうが(笑)。私たちは、これからの社会を生きていく若人たちが、自分たちの社会をつくっていくんだという場をつくらなければいけない。それが今、日本で失われつつあるところだと思うのです。

とりあえず今が平和で不満が少ないと、私たちにはその先を考えない傾向があります。今回の選挙での投票率の低さもそれを表している。ただ、今の若者たちの一部はすごい能力を持っています。AIにしても、若者たちのほうがよほどできるのです。ツールの使いこなしや情報に対する感度といったものは若者たちのほうが優れている。また、サステナビリティ・ネイティブと言われているような子供たちは、地球環境保護と経済発展は不可分なものだと心から感じている。

よって、今こそ「半学半教」の緒方洪庵の適塾に戻るべきなのではないかとも思うのです。今は教育改革にしても、国が入学試験のあり方や大学のガバナンスを全て考えるとか、国が考える方向に行くわけですが、本来、20歳の人間が考えたほうがよほど責任感が出るわけです。例えば、模擬国会を演説館で福澤諭吉たちが開いたようなことをこれからやりたいと思っているのです。

磯田 幕末、明治の力はたぶん学びを求める側と、学びを与える側の幸せな関係があったのだと思うのですね。学びを求める側には、とにかく知識に対する渇望がある。どんな山奥でも字を読んで知識を得たいと思っている若者がいたわけです。一方、先生と呼ばれるようになった人は、無料か安い値段で、学びを求めてくる若者たちに、親切に応接するわけです。適塾だったら洪庵先生は多くの若者を家に置いて世話をする。洪庵の奥さんが一番偉い。子沢山さんだったのに。

夏目漱石に「私の個人主義」という文章がありますね。あれは学習院の子供たちを前に漱石が講演しているのですが、最後に、「私の話を聞いて、よくわからないところがあると思った人は、ぜひ私のうちに来てください」とあるのです。ちょっと反省するのですが、今の私は「講演後にわからないことがあったら、私の家に来てください」とは言えていません。

今、渋沢栄一の大河ドラマをやっていますが、渋沢も京都に来た浪人の状態でうろうろしている時に、西郷隆盛のところへ名刺だけ持って会いにいくわけです。西郷は、何者でもない渋沢栄一を何度も豚鍋でもてなして話をしている。それは渋沢だったからやっているのではなく、あの忙しい西郷が、諸国諸藩の若者一人ずつに丁寧に会うのを続けていたわけです。

だから、コロナで対面が阻害されている中、対面でもリモートでもいいけれど、やはり学びを求める人と求められる人が、本当に真剣なまなざしで語り合う場というのは大事です。生きものである以上、何かを解決するには面談が基本になる気がします。

しかし、その場がだんだん壊れてきている。大学の先生の家に学生が上がらなくなって、もう何十年も経ちましたね。「あの先生と話してみたい」という若者が、明治の頃のように、どのぐらいいるのか。それに応じてくれる先生はどのくらいいるのか。先生と呼ばれるようになったら、損でもつらくても、それをするのが先生の義務という、いい時代がかつてありました。慶應義塾も、そういう先生が若者に丁寧に接した時代に、福澤先生がまかれた一粒の種が成長していったものに他なりません。

伊藤 慶應義塾の教員は学生に対する責任感が非常に強いので、一人一人の教員が専門性を高めながら、塾生たちを横につないでくれる可能性は非常に高い。ですから、そういう仕組み、環境をつくっていくのが、今、私の大きな目標の1つになっています。

つまり、ある社会課題を解決したい、自分たちはこういう社会をつくっていくんだ、こういう社会で生きていくんだと想像力豊かに思っている塾生たちが、慶應義塾で、磯田さんが速水さんについたように、どのような学びができるのか。そのような環境をつくっていきたいというのが、今私の一番強い思いです。

磯田 思い起こしてみると、学生時代、商学部の労働経済学の清家篤先生に「文学部なんですけど、取らせてください」と言って、講義でわからないところなど、授業後に教卓の横まで行って、教えてもらった覚えがあります。後年、私が茨城大学の助教授になってから常磐線の中で清家先生を見かけて、「実は先生の授業を取らせていただきました」と言ったら喜んでくださいました。

文学部の先生方には、三田の居酒屋つるの屋でお話を聞きました。僕は指導教授が田代和生先生で、お世話になり、もちろんつるの屋にも連れていっていただきました。当時福澤研究センター所長の坂井達朗先生からも福澤先生についての逸話などをつるの屋で聞いたことも心に残っています。

個人のソリューションとしての歴史

伊藤 これから大学や一貫教育校で取り組むべき歴史教育のスタイルについてお伺いしたいです。歴史というのは型に嵌めることができない、人類のレファレンスとして経験として捉える、ということをどうやって実践するべきでしょうか。

磯田 これからの歴史の教育という点で私が一つ考えているのは、「個人のソリューションとしての歴史」というものです。個人、一身の独立ということが慶應義塾にはあると思うのですが、人はそれぞれいろいろな目標を持っています。例えば保険業に就いた人は、いい保険って何だろうと時空を超えて考えれば、それも歴史学習になる。縄文人はたくさん採れたドングリを土の中に埋めるだろう。それは保険の原点ではないか。こんな視点でもいい。僕は歴史を「靴」と呼んでいます。個人が世の中を安全に面白く歩くためのツールとしての歴史があっていい。

これまでの日本は、国民として標準的な知識が必要ということで刷り込まれる教科書の歴史を学んでいました。これは修学旅行型の歴史です。修学旅行で名所旧跡を回っていくのと一緒で、偉大な政治家や武将、偉大な芸術作品などを学んで終わる。ひなびた温泉場のちょっとくだけた場所なんてところには絶対寄らないのです。でも人間の本性としては、実はそういうところも存在して、複雑な社会ができあがっているわけです。

最近個人旅行が流行っているように、歴史もそのように捉えればいいのではないかと思うのです。「ファミリーヒストリー」という番組をNHKで放送していますが、自分の家の歴史をまず見てみる発想から歴史を見ても、だいぶ違う世界像が持てると思います。

私は、今回、手術で首の瘤を取りましたが、徳川家康も浜松城に在城していた時に背中にできものができて、おそらく粉瘤だと思いますけど、それを明の技術で薬を塗って切除することに非常にためらっている。自分が直面している、瘤とりの手術の際にそれを参照すると、やはり家康のような武将でも手術が怖いんだとか、外国の技術を、どうやってこの時代に入手しているのだろうとか、歴史が身近に感じられる。

伊藤 向きあい方や立ち居振る舞いを考える上で参考になるということですね。

磯田 やはり時空を超えていくというのは大事で、地域研究と歴史研究は、狭い時間、空間に閉じ込められている人の精神を解放して、いろいろな発想に触れることができることが大事だと思います。

伊藤 でもやはり、「あなた、歴史好きですか」「いや、嫌いです」ということで終わってしまう人も多いですね。特に高校の近現代史は、日本では結局行き着かないというのがよくあるパターンです。先生方が教えづらいというのもあるのかもしれませんが、近現代史から学ぶことはたくさんあると思うのです。

磯田 そうですね。近いものほど複雑になっているのでなかなか分析が難しいのですが、学ぶものは多いです。だけど、おっしゃる通りあまりちゃんとやっていませんよね。

伊藤 例えばこれだけオンラインで様々な資料が見られるようになったら、高校段階の歴史でもレポートで調べてそれぞれの意見を述べなさい、という教育になると、全く違う見方ができると思うんですね。

磯田 そうですね。だからやはり資料はたくさん残し、並べて比較するという視点が非常に大事だと思います。教科書だって各国並べて読んでみたら面白いのです。同じ事件でも、韓国の教科書と日本の教科書では全然違うことを書いていますし、どれが正しいというより、人はどういう見方をするのかを知ることのほうが、事実を突き詰めることより価値がある場合もあります。

伊藤 そうなると、やはり教師という立場の人たちの広い意味での実力が問われるようになりますね。

磯田 そうですね。産婆さんのようになってくるというか。昔、ギリシャの哲学者ソクラテスが問答について産婆術と言ったというのは非常に参考になる話です。答えを教えて暗記させるというよりは、教師がどのように真実に迫るか、どのように比較するか、どのように世界には多様な考えがあり、溢れている情報がどのように伝わっていくかと、産婆さんや案内人のような役割になっていくのかもしれません。

研究の現場の風景を見せる

伊藤 私が慶應高校の生徒だった時、たまたまですが、地学担当の先生が、他大学の大学院生で、自分で掘ってきた化石などを持ち込んで、その解析や分類をわれわれに実践してくれました。

磯田 それはいい教育ですね。

伊藤 葉っぱの化石を図鑑が教えることに沿って分類して、どの時代のどの葉っぱと同定して石膏で型を作り、化石のレプリカを作ったんですね。その過程が面白くて、「ああ、こういうプロセスで調べていくんだ」ということが自然にわかるようになっていた。そういう人たちが慶應の一貫教育にいてくれることが大切なのかなという気はしています。

磯田 なぜその知識が得られるのか、なぜ教科書に載っている一行を書けたのか。その過程がわかる授業というのは面白いですよね。研究の現場の風景というのも、早い段階である程度見ておいて、予定調和を壊して新しい知識を得ていくことも大切だと思います。もう情報生産の時代になったら、どこにでもある同じものを2個生産しても駄目な時代ですから。

伊藤 そうですね。私がカリフォルニア大学バークレー校にいた時、「暗黒物質(ダークマター)」というまだ見つかっていない素粒子を探す研究をやっていたのです。ダークマターとは何かに関する議論も熱く、バークレーはある種類のダークマターを推していたのですが、シカゴ大学はまた違うダークマターを推していた。誰も知らない理論上の仮想粒子ですから、2つの派閥に分かれてえらく揉めていたんですね。

いわゆる世の中が考えている物理学者の美しい世界とは違う生々しい世界でしたが、逆に正々堂々として面白いところがあった。そのようにいい意味で生々しい、早慶戦みたいなものも見せてあげたいなと思う時がありますね。

磯田 実は私は大学1年の時、宇宙の本を山積みにして読んでいたんです。ダークマターの話を知った時は衝撃的でした。人間の脳だって神経の電位で動いている。光とか電子といったものでわれわれは認知や思考をしている。ダークマターのようなものが、宇宙の質量のかなりの部分を占めるとなると、絶対知り得ない不可知の闇が宇宙にはあるのか。そう思って、無性に怖くなったことがありました。

伊藤 そうなんですか。ダークマターは仮想粒子なので、物理的にエキサイティングで、一番エレガントな数式の導出を示した人の主張が受け入れられる傾向があります。アインシュタインのE=mc2も美しいですよね。このE=mc2をもっと複雑にする人はいつも大ブーイングでつぶされる。世の中はシンプルにできているということを皆、願っているのです。

神の世界というか自然の世界、福澤諭吉たちが言った天の世界というものが、私は少なくともあると思っていますが、でも、その天の世界に近づいていった時に、人間が自分たちで破滅しないように気を付けなければいけないなと思いますね。

磯田 「神はサイコロを振らない」。アインシュタインがそう言ったニュートンなどの古典力学的な確定性の時代はわかりやすかった。初期条件と制約式がわかれば未来の解が確定的に予測可能とみられた。しかし量子力学の時代になって、この世界は確率的で不確定だとわかってきた。現在、それこそ伊藤さんがご研究の量子コンピュータが登場。かなりのことが確率論的に予測できるのでは、と期待されはじめ、実際、いろいろな発見がなされつつありますね。

伊藤 そうなんです。神がサイコロを振るようなものも使いこなせるのか、というのがわれわれの興味だったのですが、それが使いこなせる可能性が高くなってきた。でもそれを使いこなしたと思っているうちに、微妙な不具合が出てきて、実はわれわれの量子力学の理解が完全ではなかったとわかったりすればしめたものです。よって、完璧な量子コンピュータをつくるという作業は、われわれの量子力学の理解を試す大実験なのです。まさに科学的な好奇心です。

私は、磯田さんのいろいろな本や番組を見て、今の私たちの理解に辿り着いた道程を振り返り、それを系統付けてまとめるのが歴史学で、その経験とも言える歴史をもとに判断するのがわれわれの実学だと思いました。そのように考えた時、ふと、自分も歴史学者なんだと思ったんです。例えば科学の研究でも、私たちは今までの研究を、論文やいろいろな人の話を聞きながら整理して次の研究をするわけで、実は多かれ少なかれ皆が歴史学者なのですね。

磯田 そうです。全ての人は歴史学者です。すると、僕も物理学者にならなければいけないですね(笑)。

「義塾」という意味

磯田 伊藤さんが先ほど慶應義塾の「義」という話をされたのですが、この場合の義という言葉は「パブリック」のことですが、これは絶妙な訳だと思うのです。義とは何かと言えば、私は「なすべきことがあった時、それをすべき勇気」と捉えています。

これは自発的な力で、誰に命令されたわけでもなく、学校が必要だと思った人が勇気を振り絞ってつくる学校が「義塾」ですよね。この自発的に起きる力が大事だと思うのです。

伊藤 そうですね。そのためには、やはりそれぞれがそこに存在していることに意義を感じないといけないのでしょうね。それぞれ「独立しろ」と言われても、自分の存在意義を感じ、周りからも認められる環境をつくっていかないと孤立を感じてしまう。その存在意義を感じさせる教育が大事で、それは誰かがこっちだと言った時にもう一人が違う意見を言っても、お互いが尊敬しあっていれば全然構わないわけです。

多事争論で侃々諤々の議論をする。でも、皆が国を世界をよくしようとしている。その結果、自分がよくなって、家庭がよくなって、地域がよくなるという積み重ねなのだと思います。それぞれが基礎工事をした上で侃々諤々の議論をしてよい社会ができていく。そのように皆で力を合わせてよい方向に進んでいく、そういう場を慶應義塾につくっていくべきだと私は思っています。

磯田 個人の基礎工事は学問です。福澤先生の言う「一身独立」の学問には2つあると思っています。生活スキルの獲得と自己哲学の確立です。資格を得たり偏差値の高い大学に入ったりして職にありつき、生活の安定を求める学び方もある。それを私は「身過ぎ世過ぎの学問」と呼んでいます。これまではそれだけでもやってこられた。しかし、21世紀半ばの現在は不確定な世の中で、やっていけなくなっています。

個人の基礎工事としての学問の目的は、生活スキルの獲得と同時に、自分の哲学、価値観・判断基準をきちんと持っていなければならなくなっています。他人から与えられたものではなく、時空を超えていろいろな物事を見聞きすることで、それは形成される。私の好きな言葉に、中国の画家の董其昌(とうきしょう)が唱えて、富岡鉄斎が受け継いだ「万巻の書を読み、万里の道を行く」という言葉があるのですが、いろいろな事物や発想に楽しみながら触れる中で、自分なりの世界観、世の中の見方、価値観をしっかり持つのが本当の学問だと私は思っています。

本物の学問を人々がやって、世の中に役に立つように、いい世の中になるように、と自発的に行動し始めるのが義ですね。慶應義塾は慶應塾でも慶應私塾でもない。義塾です。「一身独立する」とは、たくさん物事を知って、自分で判断できる、自分の物差しを体の中にもって、社会を良くするよう自発的に行動する人物になるということです。福澤先生はそういった人々を育成する塾を義塾としました。

伊藤 それをやらなければいけないのが慶應義塾だと私は思います。そういう意味では、やはり学問と社会の間にギャップがあってはいけない。そして公益の義ということで、先導といっても一人が引っ張っていくのではなく、皆そのグループにいて、場合によっては「しんがり」を務めることもとても大切だと思っています。取り残されないで皆のことを考え、大きな社会の中で、しんがりも務めながら正しい方向に進んでいくのが真の先導なのだろうと感じています。

今日は、長い間、有り難うございました。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2023年1月号