【特集:新春対談】 新春対談:グローバル・シチズンを育てる学塾へ | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【特集:新春対談】新春対談:グローバル・シチズンを育てる学塾へ

三田評論ONLINEより

  • グレン・S・フクシマ(GLEN S. FUKUSHIMA)

    1949年生まれ。米国投資者保護公社(SIPC)副理事長。1971~72年慶應義塾大学留学。2012年特選塾員。74~78年ハーバード大学大学院。85~90年米国大統領府通商代表部にて日本担当部長等を務める。日本AT&T副社長、エアバス本社上級副社長等を歴任。在日米国商工会議所会頭等も務める。2022年フルブライト─グレン・S・フクシマ基金を設立。

  • 伊藤 公平(いとう こうへい)

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部 Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。日本学術会議会員。2021年5月慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

慶應義塾留学の思い出

伊藤 明けましておめでとうございます。本日はグレン・S・フクシマさんにお越しいただきました。フクシマさんは1985年から1990年というバブル景気の時期に、米国大統領府通商代表部においてアメリカの対日・対中通商政策の立案、調整、実施を担当され、そのご経験をまとめた『日米経済摩擦の政治学』は第9回大平正芳記念賞を受賞されています。

その後、米国AT&Tに入社され、日本AT&T株式会社副社長、アーサー・D・リトル・ジャパン株式会社代表取締役社長、日本ケイデンス・デザイン・システムズ社社長・会長、日本NCR株式会社代表取締役共同社長、エアバス本社の上級副社長、さらに日本法人エアバス・ジャパン(株)の代表取締役社長兼CEOなどの要職を歴任されてきました。

この間、在日米国商工会議所会頭の他、日米友好基金副理事長、日米文化教育交流会議米国副委員長、日米協会副会長、米日カウンシル評議員、経済同友会幹事など、たくさんの日米関係、そして様々な文化団体の幹事などを歴任され、2012年から慶應義塾の特選塾員になっていただいています。

また最近では、2022年、フクシマさんからフルブライト奨学金への100万ドルの寄付によって「フルブライト―グレン・S・フクシマ基金」が設立され、日米フルブライト交流事業を支援されていらっしゃいます。このフルブライトへの寄付は、米国人による単独寄付としては過去最大規模とのことです。

ということで、本日はフクシマさんを三田キャンパスに「お帰りなさい」ということでお迎えし、お話をしていきたいと思います。フクシマさんは日系三世アメリカ人としてアメリカで育ち、スタンフォード大学で学ばれたわけですが、この間、2回にわたり日本に来られ、慶應義塾で学ばれました。1969年には短期交換留学生として夏休みを慶應で過ごされ、さらにその2年後には2年間交換留学生として神谷不二教授、石川忠雄教授らから学ばれました。まずはこの頃の思い出をお話しいただけますでしょうか。

フクシマ 今日はお招きいただき、有り難うございます。おっしゃったように私はスタンフォード大学の学部生の時、慶應義塾大学に二度来る機会がありました。1969年の夏は私がスタンフォード大学の2年生を修了した時でした。当時は毎年スタンフォードから慶應に夏の間、12名の学生が来て、慶應からスタンフォードヘは春休みに12名の学生が行っていました。

私が69年の7月に日本に来た時は、上大崎の花田さんというホストファミリーにお世話になりました。花田ファミリーはお父さんが大手企業の幹部の方で、戦前アメリカのUCLAとハーバード・ビジネススクールに留学されていて、非常に国際的な家庭でした。

息子さんが3人いまして、3人とも慶應です。下の2人は当時まだ慶應の学生でしたが、その一人は花田光世さんで、その後、湘南藤沢キャンパスで教授になられました(現名誉教授)。2カ月間、非常に温かく迎えてくださり、いい経験をしました。

伊藤 その時、日本語はどのぐらいできたのですか?

フクシマ スタンフォード大学に入って初めて日本語を正式に1年程度勉強してから来たので、聴くほうはある程度わかりました。私の父はアメリカ陸軍の仕事をしていて、日本の米軍基地に住む機会がありました。教育は全部英語でしたが、テレビから相撲や野球などスポーツ経由で日本語を聴く機会がありました。

伊藤 今はもうこんなに日本語がパーフェクトでいらっしゃる。

フクシマ いえいえ。最初に来た時は日本語はあまり話せなかったです。69年の夏、慶應で大変良い経験をしたので、71年~72年、また慶應に留学しました。当時は一年間の交換留学プログラムがありました。私がスタンフォードにいた時は北島信一さんという方が慶應からスタンフォードに留学していました。彼は後に外務省で外交官として活躍され、私も親しくさせていただきました。

私の前に慶應に留学したスタンフォードの学生は、卒業してから慶應に来たのですが、ベトナム戦争中だったのでキャンプ座間で徴兵のための身体検査を受けることになったのです。彼の慶應でのホストファミリーは医師で、血圧を上げる薬をもらって身体検査はパスしなかったそうですが(笑)。そういうことがあったので、卒業のための必須科目を残し、学部の学生として慶應に留学したほうがいいと言われ、4年生のまま71年4月から慶應で学びました。

その時は主に国際センターで日本語の勉強をしました。ちょうどコロンビア大学のジェラルド・カーティス先生が、慶應の法学部に客員教授として来られていました。先生は神谷先生と一緒に4年生のゼミで日米関係論を教えられていました。私は日本語を聴くことは大体わかったので、聴講生としてそのゼミに入れてもらい、そこでジェラルド・カーティス先生と神谷先生にお世話になったのです。

もう1つ、私はスタンフォードで近代中国史や中国の政治について勉強していたので、石川忠雄先生が法学部長で山田辰雄先生が助手でしたが、大学院の中国政治のゼミにも聴講生として入れていただきました。

また曽根泰教さんが当時、大学院生で、彼に誘われて週に1回東工大へ行って、永井陽之助先生の国際関係論のゼミにも出ることができました。基本的には日本語の勉強をしながら、神谷先生、石川先生、永井先生のクラスで、国際政治について中身の勉強もでき、とても充実した1年間を過ごしました。

慶應義塾を通じた交流

伊藤 神谷先生、石川先生とのエピソードや印象に残ったことはありますか。

フクシマ 神谷先生のゼミでは日本の占領期についての資料を結構読みました。その結果占領期について関心を持つようになりました。そして、そのゼミに参加していた二人の学生にその後随分たってから偶然会いました。一人は高久裕さんで、彼はその後、日本国際交流センターで国際人事交流の仕事をしていて、特に日本とオーストラリアとの関係に力を入れ、オーストラリア政府から叙勲されています。

もう一人は松田あぐりさんという女性ですが、彼女は、私が85年に通商代表部に入ってから、在日アメリカ大使館で報道官として共に働いていたヒュー・ハラという人の奥さんになっていました。そのように高久さんと松田さんは、社会人になってからお付き合いがあります。

伊藤 慶應は石川さんを始め、神谷さん、山田さんなど、地域研究、リージョナルスタディが盛んで、非常に世界の広い範囲の研究をしている研究者がたくさん出ました。その流れは今も続き、三田キャンパス、湘南藤沢キャンパスを中心に多くの教員が様々な地域研究の専門家として研究しています。そしてウクライナ危機のような時、盛んにテレビや新聞で解説をしてくれています。

国際情勢の転換期にこそ、全体像を俯瞰して政策提言や国際協調に寄与するのが慶應の伝統と誇りです。

フクシマ 慶應の先生方とはこの間亡くなってしまった中山俊宏さんの他、神保謙さん、渡辺靖さん、国分良成さん(名誉教授)といった人たちとお付き合いがあります。日米関係や中国との関係など、政策論議をする機会があり、慶應には優秀な学者が多く活躍され、大変素晴らしいことだと思っています。

伊藤 そういう人たちが皆、フクシマさんのような方とつながり、世界レベルの市民として貢献するのが慶應の強みになっているのだろうと思っています。

スタンフォードで慶應を選ばれたのはたまたま交換留学制度があったからですか。

フクシマ そうです。1960年代から慶應からスタンフォード、スタンフォードから慶應への一年間の交換留学プログラムがありました。確か第一期生が経済学者の霍見(つるみ)芳浩さんだったかと……。

伊藤 ニューヨーク市立大学教授として活躍された経済学者ですね。

フクシマ スタンフォードと慶應の関係は1960年代から大変良好な関係だったのだと思います。だから、慶應との交換留学プログラムがあるというので、応募しました。

一年間留学した際は慶應の紹介で、三田から歩いて15分ぐらいのところに下宿しました。片桐さんという70代の外務省関係の方の奥様のかなり大きい家で、仙台坂下、韓国大使館の裏でした。4畳半の下宿に暮らし、毎日二之橋からオーストラリア大使館の脇を通って慶應に来て勉強していました。

伊藤 それから50年たち、慶應を選んでよかったと思いますか。今では日本にいろいろな大学があることはよくご存じだと思いますが。

フクシマ よかったと思っています。1990年代の終わり頃には湘南藤沢キャンパスの外部評価委員会の仕事で椎名武雄さん、茂木友三郎さん、福原義春さんとご一緒する機会があり、特選塾員にも選んでいただきました。個人的には先ほどお話しした先生方の他に、法学部の田村次朗さんの勉強会で講演もしています。

また、柏木茂雄さんは73年ごろに慶應を卒業して大蔵省に入り、IMFでワシントンに2回ほど勤務していますが、彼ともついこの間会いました。個人的な慶應の卒業生との付き合いは50年以上あり、大変貴重です。

電通でのインターンの経験

伊藤 スタンフォード大学卒業後はハーバードの大学院に進学されて、ハーバード・ビジネススクール、ロースクールも修了されたスーパーマンですが、1979年夏にはJapan Business Fellow Programで再度来日され、電通でインターンをされたのですね。

フクシマ 1977~95年まで、ニューヨークのジャパン・ソサエティと東京の国際文化会館がJapan Business Fellow Programというプログラムを運営していました。日本経済が70年代に急成長し、79年、私がハーバードの大学院生の時、指導教官のエズラ・F・ヴォーゲル教授がJapan as Number Oneという本を出版した頃です。

当時はハーバード・ビジネススクールでも国際ビジネスのクラスのケースの半分は日本の産業政策と日本的経営の2つが大きなテーマで、アメリカが日本から学ぶという雰囲気がありました。このプログラムは、アメリカのビジネススクールの学生を5人選んで、1年生と2年生の間の夏の2カ月間、日本企業に入れてインターンシップをさせ、日本のことを勉強しようというものでした。

79年の夏、私はハーバード・ビジネススクールの1年生が終わってからそのプログラムに応募しました。他のアメリカの大学の学生と5人で日本に来て、それぞれ日本企業に配置されました。私が選んだわけではなく、国際文化会館のほうで私を電通に入れることにして、2カ月、電通で研修生として過ごしました。

ちょうどその頃、『Fortune』に電通についてかなり大きい記事が出ました。その年、電通はジェイ・ウォルター・トンプソンを追い抜いて、売り上げレベルとしては世界で一番大きい広告代理店として注目を浴びていたのです。この記事を読み、これだけ大きいグローバル企業に研修生として行けるんだと期待しました。しかし、入ってみたら電通のビジネスの99%は国内で、決してグローバルな企業ではないと気がつきました。

この時に印象深かったのは、私が参加した電通のプロジェクトの中に、日本の人口動態について、これからG7の国の中で最も早く高齢化が進むという予測の下で、日本企業は65歳以上の年齢層に対してどういう製品、サービスを提供できるか、というものがあったことです。

伊藤 その頃からすでに予測されていたのですね。

フクシマ そうです。79年の時点で日本はこれだけ高齢社会になることを知っていたのですね。それに対する政策はほとんどなかったのですが、そのプロジェクトは大変勉強になりました。

日米貿易摩擦下での交渉

伊藤 その後、米国大統領府通商代表部でアメリカ側の担当者としてご活躍される。まさにバブル期の、半導体、自動車の交渉に、アメリカの一員として厳しく臨まれたのですね。日本の貿易黒字が大きくなりすぎて、アメリカでは日本製品が壊されたりする、といった状況だったわけですが、どのようなご経験でしたか。

フクシマ たくさん興味深い経験をしました。『日米経済摩擦の政治学』という本にも書きましたが、あの本も実は慶應と関係があります。

私は5年間の通商代表部での仕事を終えた後、AT&Tに入ったのですが、1990年の夏に日本に赴任した時、下村満子さんという慶應の卒業生から声がかかりました。『朝日ジャーナル』の編集長になったので、私の通商代表部での経験について週に1回連載記事を書いてくれないかという依頼でした。結局、週に1回の記事を『朝日ジャーナル』に三十数回出しました。その結果、これを一冊の本としてまとめましょうとなり、いくつか章を追加して、岡本行夫さんや猪口孝さんと座談会も行って、下村さんのお蔭で本になり、大平正芳記念賞を受賞しました。

日米は貿易摩擦でかなり緊張関係が高い時でした。おっしゃった通り半導体、スーパーコンピュータ、牛肉、柑橘類、電気通信など、日米の貿易委員会の会合を年に2回ほどしました。30ぐらいの項目が日米の案件として出て、解決しなければいけない問題が多く、非常に忙しい仕事でした。アメリカにいる時も朝から晩まで仕事をして、月に1回、日本に来ても、朝から夕方まで協議し、夜もアメリカ大使館関係者や企業関係者に会っていました。ホテルの部屋に戻ってからは電話でワシントンとやり取りし、毎日睡眠時間が4時間ぐらいでした。日本の交渉担当者の皆さんのようにaround-the-clock で協議をしました。

当時日系アメリカ人でアメリカ政府の高官として日本と接触した経験のある人は他にいませんでした。そういう意味ではいろいろ興味深い扱いを受けて勉強になりました。

伊藤 その時、日系人でもあられ、慶應でも学んで日本の友人がたくさんいらっしゃるというコネクションは役に立ちましたか。

フクシマ 慶應に留学したこと、そして82年~83年、東京大学にも1年間留学した経験がとても役立ちました。またハーバードでは8年ほど大学院生活をしましたが、日本から留学生がたくさん来ました。役人としてハーバードの大学院に留学し、その後政治家になった人が結構います。塩崎恭久さん、茂木敏充さん、林芳正さん、宮澤洋一さんなどです。今の熊本県知事の蒲島郁夫さんも当時ハーバードに留学していました。そのようにハーバードでも日本のいろいろな分野の方と知り合いになることができました。

ハーバードではエズラ・F・ヴォーゲル先生、エドウィン・O・ライシャワー先生、そして『孤独な群衆』を書いた有名な社会学者のデイヴィッド・リースマン先生の3人の著名な教授の助手をする機会があり、大変幸運でした。また、The Japan Institute というハーバードの日本研究所でジャパン・フォーラムという講演シリーズをやり、そのディレクターを75~80年までの5年間やっていました。

伊藤 大学院生としてジャパン・フォーラムのディレクターをやられたのですか。

フクシマ はい。例えば緒方貞子さんをニューヨークの国連本部からお招きしてスピーチをしていただいたり、当時ワシントンの日本大使館で働いていて、その後クリントン政権の時に駐米大使になられた栗山尚一さんなどにスピーカーとしてご講演いただきました。このようにハーバードの8年間は日本との関係をさらに強化する機会でした。

「日本をよく知るアメリカ人」という立場

フクシマ 通商代表部にいる時、仕事としての相手は主に日本の官僚でしたが、私が慶應や東大、ハーバードで知り合った官僚などとの付き合いもあり、その意味ではほかのアメリカの政府担当者と比べて日本のことを理解していると感じました。

伊藤 日本通のアメリカ人ということですね。

フクシマ 1つ例を申し上げます。日米の政府間の協議を1週間行うためにアメリカから代表団が来ます。1日目の夕方、外務省の会議室での交渉が終わった時、日本側の代表団のリーダーから「これから日本の記者団にどのように説明しましょうか?」と言われます。われわれとしてはまだ交渉が続くので、今の段階で日本のマスコミに言う用意は何もないと言いますが、日本側はマスコミが外で待っているから何か言わなければ駄目だと言う。そこで再び交渉して、マスコミにどのように伝えるかを合意します。

でも、次の朝、朝刊を見ると全く合意したことではないことが書いてある。日本側に有利な形になっているのです。それを見て同僚のアメリカ政府の人たちは、「裏切られた。日本の役人はまた嘘を言った。約束を守っていない」と、非常に批判的に受け取ります。

しかし、私は日米ではジャーナリストの取材方法が異なることを知っていたので、必ずしも「役人が裏切った」とは解釈しませんでした。例えば、日本では、交渉終了後、日本政府が公式な会見をする場合もありますが、それ以外に、懇談、夜回り等の多様な取材手段があり、そういう機会に多くの情報を集めて記事を書きます。また、アメリカでは、取材した人が署名入りで記事を書くのが通例ですが、日本の場合、書いた人が必ずしも取材をした人ではないし、見出しを書く人も取材した人ではないこともあり、記事が出来上がるまでにいろいろな段階を経ています。だから必ずしも役人が嘘をついたわけではないと考えていました。

伊藤 それは結果的には日本にとって非常に有り難いことですね。

フクシマ 本来はそうなのですが、日本の役人の中には日本のことをよく知っている人間が交渉相手にいるのは都合が悪いと考える人もいました。だから私だけミーティングから外されたことが何回かありました。そういう役人の人たちは私がいなければ日本語を知っている人がいないので、日本語で話せばわからないと思っていたようです。

こんなこともありました。1958年、私がロサンゼルスの法律事務所で働いている時に通商代表部日本部長の仕事の声がかかり、それを引き受けた時、日本の大手新聞社2社のロサンゼルス支局の記者が是非インタビューをしたいというので、それぞれインタビューを受けましたが、最終的に出た記事は決してポジティブではなかった。「この人は日本のことを勉強して、慶應にも東大にも留学していて日本語もできる。日本にとっては非常に危険な人物、手ごわい相手だ」という扱いを受けました。

対照的なのは、その次の年、日本の早藤(はやふじ)昌浩さんというブラウン大学を卒業した人が当時の通産省に入り、通産省としては初めて日本の大学を卒業していない人がエリートの役人になったのですが、その報道はワシントンから歓迎されました。「アメリカの大学を卒業し、英語ができ、アメリカを理解する人が日本政府に入ったことは大歓迎」という論調でした。しかし、日本のことを知っている人間がアメリカ政府に入ることは日本政府から歓迎されず、警戒されたのです。

伊藤 なるほど、そんなことがあったのですね。その後、AT&T、アーサー・D・リトル、日本ケイデンス・デザイン・システムズなどテクノロジーに関わる会社の日本のトップを務めてこられました。結構会社を移られていますね。

フクシマ 私は大学1、2年ぐらいまでは理科系の科目を勉強しました。その後はずっと社会科学、法律、ビジネスが専門でしたが、先端技術には非常に関心を持っていました。

通商代表部では半導体やスーパーコンピュータ、通信関係の仕事をする機会がありました。ですから通商代表部を辞める時、AT&T、インテル、モトローラの3社からオファーがありました。インテルでは当時の伝説的社長アンディ・グローヴから直接オファーがありました。89年の終わりから90年の初めですが、当時はシリコン・バレーの半導体の専門家たちからは「日本の大手企業が競争力があるので、インテルなんかに行っても将来性はないよ」と言われたのです(笑)。

伊藤 それから5年後には世界を席巻しますね(笑)。

フクシマ そういう人たちが私に言ったことは、「国際ビジネスでは、資産も技術もある大企業のほうが有利だ。インテルのような小さな企業は危ない」ということでした。それもあって巨大企業でノーベル賞受賞者を7人も出したベル研を持っているAT&Tに入りました。

しかし、8年後にAT&T退社時には、インテルの株価は39倍に急上昇していた。ですからその時インテルに行っていたら、株だけで何百万ドルも儲けて、早くリタイアしたと思います(笑)。まさにあの経験から専門家の話は注意深く聴こうと思いました。

伊藤 そして、在日米国商工会議所会頭やその他数多くの日米の架け橋となるような取り組みを行われ、日本でもアメリカでも交流関係を広げられて、今ではサンフランシスコ、日本、ワシントンD.C.この3つを拠点として日々生活されているわけですね。

日系アメリカ人というアイデンティティ

伊藤 今日、特に私が伺いたいと思っていたことが、Japanese-Americanというアイデンティティについてです。フクシマさんは日系三世アメリカ人としてアメリカで成長された。大きな意味でアジア系アメリカンのコミュニティにいたと思います。

フクシマさんが小さかった頃はアジア系アメリカ人の中では日系アメリカ人が一番人口が多く、大きなコミュニティがあったと思います。ところが1965年頃から台湾、香港、中国、ベトナムを含む東南アジアからアメリカへの移民が増えて、今は日系アメリカ人コミュニティはアジア系アメリカ人の中でも6番目ぐらいの大きさだということですね。アジア系アメリカ人の中の日系アメリカ人というコミュニティの中で育った経験、そして日系人として慶應で学んだ時の経験、日系人としてアメリカや日本で働いた経験を踏まえ、日系三世というお立場でどのようにお考えになってきましたか。

フクシマ おっしゃる通り、1960年代は日系アメリカ人がアジア系アメリカ人の中で最も人口が多かったのですが、1965年の移民法の改正によって、日本以外のアジア各国からアメリカに移民する人がかなり増えました。主に中国と、それからベトナム戦争の結果、ベトナムからの移民、そして韓国からの移民が増えました。最近は特にインド系が増えています。今はアジア系の中では中国系アメリカ人が一番多くて、二番目はフィリピンだと思います。その後にインド、ベトナム、韓国、そして日系は六番目です。ですから日系アメリカ人は相対的に人口の割合はアジア系アメリカ人の中で少なくなっている。

もう1つ、30年ぐらい前は日系アメリカ人は政治参加をする人が多かったのです。一時はハワイ出身では上院議員にダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガ、下院議員ではパッツイー・ミンクという議員がいました。アメリカ本土ではノーマン・ミネタ、それからボブ・マツイという下院議員。一時は5人の日系アメリカ人が議会の仕事をしていましたが、今は3人に減っています。それと比べて韓国系アメリカ人は4人、インド系アメリカ人も4人、下院議員がいます。ですから人口でも政治参加のことを考えても、相対的に日系アメリカ人は影響力が小さくなっている。

私がカリフォルニアで育った当時はアジア系アメリカ人という認識はあまりありませんでした。スタンフォード大学に通っていた60年代の終わりに学生運動があり、ベトナム戦争反対の運動、あるいは女性解放運動、黒人あるいはヒスパニックの学生の運動があった中で、60年代後半にアジア系アメリカ人という1つのカテゴリーができました。アジアから移民した人たちが国別にバラバラだと政治的に発言力がないので、アジア系アメリカ人を1つのグループとして考えて1つのカテゴリーを作ったのです。

伊藤 ロビー活動が進まないということですね。

フクシマ そうですね。そのような背景もあり、中国系アメリカ人、韓国系アメリカ人が政治参加するようになり、特に最近はインド系のアメリカ人が積極的に政治に参加し、ワシントンでも発言力が高まっています。そして私が見ている限り、日本以外のアジアの国からアメリカに移民する人たちと、その祖国との関係は皆、かなり密のように思います。特に台湾系アメリカ人と台湾の関係などがそうです。

それに比べて日系アメリカ人と日本の関係はかなり薄いです。私は同世代の日系三世と比べると日本との関係が密にあり、日本語もある程度できますが、でもこれは例外的です。

私が高校生の時に2年間通っていたガーディーナ・ハイスクールは、当時は卒業生の25%近くが日系アメリカ人でした。しかし、ガーディーナというのは戦前から日系アメリカ人のコミュニティがありましたが、その25%近くの日系アメリカ人の中で日本に来たことがある人はたぶん5%以下だったと思います。皆、アメリカで生まれ育ち、日本と関係がない日系アメリカ人がほとんどでした。

伊藤 私も1982年に父親の転勤で慶應高校を休学してカリフォルニアのロスアルトス・ハイスクールに行った時、ケビン・イケダという日系人に会いました。英語しか話さず、日本語は話す気もないと言う。そもそも日本人は自分たちを日本人の仲間と見ていない。だからなぜ日本語を話さないといけないのかと言うんですね。彼は日系三世か四世だったと思いますが、自分はアメリカ人としてアメリカで生きるのだと。たまたま名前は日本人っぽいけれどアメリカ人なんだと言ったのを聞いて、私はショックを受けました。

というのは、先ほどおっしゃったように韓国人は韓国系アメリカ人を仲間として考えるし、台湾の人もそう考える中で、日本の場合は出ていった人を、自分たちのコミュニティから離れていった人と考える傾向があるのだな、とその時初めて気づいたからです。

例えば、随分前のアルベールビルオリンピックのフィギュアスケートでも、伊藤みどりさんとクリスティー・ヤマグチさんがトップを争った時、日本人でクリスティー・ヤマグチさんを日本の仲間として応援した人はほとんどいなかったと思います。だから、日本人というのは本当は冷たいのだなとすごく思いました。つまり、島国の中で自分たちの世間にいる人たちだけが仲間であって、そうでない人は仲間ではないという意識が強いのではないかと思ったのです。自分たちの世間とそうでない世間との間にボーダーを引いていて、これは日本にとってすごく損だなと思ってきました。

多様な日系アメリカ人社会

伊藤 フクシマさんは以前、日系人には4種類のパターンがあると言われていたと思うのですが。

フクシマ 私の経験から言うと少なくとも4種類の日系アメリカ人がいます。

1つ目ですが、日本の米軍基地には、アメリカ軍で働いていた日系アメリカ人が子供の父親で、母親は日系人あるいは日本人という人が結構いました。そういう人たちは学校では英語を習っても、住んでいる環境は日本なので日本語はある程度できる。日本とある程度なじみがある。私が小さい時に付き合った日系人にはそういう人が多かったです。

しかし、ロサンゼルスのガーディーナ・ハイスクールの大多数のように、日系アメリカ人だけど日本には行ったこともなく日本と接触がなく日本語ができない人がいる。ケビン・イケダさんのようにアメリカ人としてアイデンティティを持っている人が2つ目です。

3つ目ですが、私がスタンフォード大学に行った時、初めてハワイの日系人との付き合いができました。当時、スタンフォード大学の学部ではイオラニとかプナホウとか、ハワイの名門私立高を卒業した日系アメリカ人が結構いました。彼らのアイデンティティは相当日本に近い。小さい時から日本のテレビ番組を観たり、日本出身の祖父、祖母が一緒に住んでいる。彼らは本土の日系アメリカ人には「コトンク(空っぽの頭)」というハワイ語を使います。これは本土の日系アメリカ人をけなす言葉です。

伊藤 違う世間なのですね。

フクシマ そうです。あまりにも白人化してしまっていることを揶揄している。われわれは日本文化、伝統を維持しているという意識の人が結構ハワイにいます。

4つ目が、私がハーバードに行った時に付き合ったフランシス・フクヤマやケネス・オオエのように、東海岸で育った日系アメリカ人です。彼らはほとんど他の日系人との付き合いがない。主に白人、中でもユダヤ系アメリカ人との付き合いがかなり強い。日系社会とも日本とも関係ない。そのように少なくとも4種類ぐらいの日系アメリカ人がいると思います。

このように日系アメリカ人のことを一般化して考えるのは非常に難しいです。特に日本に関してどう考えているかは本当に個々で違います。日系アメリカ人の中には全く日本に関心がない、あるいは日本のことを嫌いだと考えている人がいる。それと正反対で日本が大好きと言う人もいます。多様性があることを日本の皆さんに理解していただきたい。

日系コミュニティとどうつながっていくか

伊藤 フクシマさんは、今、日本に住む日本人コミュニティから仲間として受け入れられていると感じていますか?

フクシマ それは相手によると思います。私のことを完全にアメリカ人だと考える人とアメリカ人だけれども日本語もでき、日本のことをある程度理解していると考えている人もいる。「仲間」の定義にもよりますが、日本の人たちの5割から6割ぐらいの人たちは私を積極的に受け入れてくれていて、1割から2割ぐらいは何か抵抗と言いますか警戒と言いますか、本当の理由はよくわかりませんが、距離をおいている人もいることは事実だと思います。

伊藤 よく日本の新聞でも、例えば海外に渡った日本生まれの人がノーベル賞を取ると、「頭脳流出」という言葉を使ってポジティブに捉えない。またすぐオールジャパンという言葉を使いますし、世界とつながる以前に日本単位で考えたいという、この2つの世間のせめぎ合いを今でも感じることがあります。

私は慶應義塾がこれからより国際化する時には、いかに世界の人たち、また日系コミュニティともどうやってつながっていくかはとても大切だと思います。

フクシマ 先ほど言いましたように、日系アメリカ人と日本との関係は他のアジアから移民してきた人たちとアジアの国との関係とはかなり違う。その理由は2つあると思います。

1つは、日系アメリカ人側から見ると、第二次世界大戦の際、12万人ほどが強制収容された。だから、日系二世の親たちから、これから日本と付き合っても何のためにもならないと言われてきた三世の友人もいる。とにかくアメリカ人として生活するのが一番賢明なことであって、日本とはむしろ関係を持たないほうがいいと見ている日系二世は結構いたと思います。

私はいとこが3人サクラメント周辺にいます。皆、白人と結婚し、日本に一度も来たことがないし、日本に全く関心がない。だから日系アメリカ人の中で、少なくとも三世ぐらいまでの世代は、日本とあまり関係を持ちたくないという人が結構いました。

もう1つ、日本側は明治維新の頃からアジアではなくアメリカ、ヨーロッパと付き合うことが優先されてきた。そして欧米との付き合いというのは白人の男性だ、という感覚が結構強いです。

アメリカに戻ってから私は慶應・スタンフォードプログラムのスタンフォード大学の議長になりました。過去の書類に慶應の国際関係会(IIR)の代表からの手紙があって、「毎年12名、夏にスタンフォードから慶應に来ているけれど、最近日系アメリカ人の数が多過ぎる。われわれとしては日系アメリカ人を本当のアメリカ人として見ていない。だから金髪の白人、本当のアメリカ人を送ってくれ」と書いてありました。

また当時、日本は英語教育に熱心で、英語の先生のアルバイトの仕事がたくさんありました。しかし当時は白人の金髪の人が本当のアメリカ人という認識でしたので、学校でも日系アメリカ人を雇わないということがあり、一時、日系アメリカ人の中で話題になりました。教育レベルが非常に高く、アメリカの名門大学を卒業し、SATの英語の成績がよい日系人よりも、教育レベルが高くなくても白人で金髪で青い目をしている人のほうがちゃんとした英語を話せるはず、という誤った感覚だったのでしょう。

私も通商代表部に入って一カ月後にワシントンの日本大使館でパーティーがあった時、当時の日本政府高官から「あなたはアメリカ側の代表としては一番ふさわしくない人だ。なぜかというと、日本人はあなたのことをアメリカ人とは思わないからだ」と言われたことがあります。そう言われて、周りにいたアメリカ人たちは皆、ショックを受けました。

内向き傾向にある日本人

伊藤 フクシマさんは『2001年、日本は必ずよみがえる』という著作を発表されています。刊行から23年たちましたが、今のお考えはいかがでしょうか。

フクシマ 1999年に本を書いた時は、日本が経済的に回復するのではないかと期待していました。実際、この二十数年間を振り返ってみると私が期待していたほど復活はしていないですね。

その理由は、1つには私から見ると日本の内向き傾向にあります。1997年、日本からアメリカへの留学生は4万7千人以上で、アメリカの大学へ最低1年間留学している学生の数は、当時、どの国よりも日本が多かった。それが2012年には8番目まで落ち、今は11番目です。現在、アメリカに留学している日本の学生は約1万2千人足らずです。中国は35万人ぐらい。インド、台湾、韓国、サウジアラビア、ベトナムも多い。最近、日本はナイジェリアに追い越されました。韓国の人口は日本の人口の半分以下ですが、アメリカへの留学生の数は3倍以上です。

日本は、ある意味では非常に居心地がいいのですね。以前、私はロンドンにあるイタリアレストランで、銀行で働いている日本人の友人と食事をしました。彼は日本大使館から日本の政府高官を三人招いて、一緒に夕食をとりました。その時、私が「日本の留学生が激減しており、日本の将来にとってよくないのではないか」という話をしたところ、一人の人は「われわれは日本で完璧な社会を作り上げている。日本は安全だし、安心できる。電車も正確に動く。清潔だ。東京はミシュランの三つ星レストランがどの都市より多い。非常に居心地がいい。海外へ行くと危険だし、汚いし、病気もある。外国語を話さなければならない。人種偏見もある。だから日本の若者は海外へ行く理由は何もない」と言っていました。

伊藤 それは、日本の人口は1億人近くいて、そのマーケットの中だけでやっていけるという前提で考えているのだと思います。韓国やスウェーデン、オランダなど、国内の人口規模を考えるとグローバルマーケットで勝負せざるをえない国があります。日本とドイツぐらいがまだかろうじて自分の国のマーケットだけでやっていけるという前提なのでしょう。

でも、それもグローバル化が進んだ中では難しい。自分のマーケットだけで物事は解決しないですからね。半導体も食べ物も全部外からやってきて、日本からも出ていく。世界のマーケットという見方をすると、もうグローバルにやっていかないといけない。

日本が縮こまっていく一番の原因は、やはり内向き思考で、その1つは教育だとお考えになっているということですね。そのようなポイントから「フルブライト―グレン・S・フクシマ基金」を、100万ドル寄付されて作られたと思うのです。

フクシマ やはり日本から海外に留学する学生があまりにも激減していることを危惧しています。ドルー・ファウストというハーバードの学長が2010年の来日時にこう言っていました。「ハーバードに留学している学生の出身上位10カ国を見ると、9カ国は2009年のほうが1999年より学生の数が増えている。1カ国だけ減っていて、それが日本」だと。日本の学生の数、存在感は非常に低下していると。

私は1982~83年、ハーバード大学を出てからフルブライトの奨学金で東京大学で1年間勉強する機会がありました。フルブライトの奨学金は2022年に70周年を迎え、戦後アメリカから日本への留学生や研究者と日本からアメリカへの留学生や研究者の支援をしていますが、その中の6人がノーベル賞を受賞しています。その基金に寄付することによって、本当にわずかで数人しかサポートできない規模ですが、学生の留学を支援できるのではないかと思っています。

伊藤 わずかと言っても、フルブライトでは一番大きな規模です。本当に素晴らしいことだと思います。

先導者を育てることによる国際化の道

伊藤 最後に慶應義塾に期待する、慶應義塾が進むべき国際化の方向性についてお聞きしたいと思います。日本経済の失われた20年、30年の中で、教育が1つの重要なファクターだとすると、慶應義塾としてはもっとやれることがあったのだろうと私も反省しているところがあります。慶應義塾の進むべき国際化の道について、どのようなお考えをお持ちですか。

フクシマ 非常に大きいテーマです。私は教育学の専門家ではないですが、海外留学経験は慶應が初めてで、慶應の友人もたくさんいますので、個人的には慶應に非常に期待しています。もちろん研究機関として優秀な研究者を育成し、その研究者の成果は世界的に最先端なものを期待しています。

アメリカの大学の感覚から考えると、基本的に大学というのは、リーダーを育成する機関だと考えています。特にスタンフォード、ハーバードなどは将来リーダーになり得る人、そういう素質を持った人たちに来てもらい、育成したいと考えています。

だから日本も、特に慶應は将来、社会に貢献して、社会をリードできるような学生を育てる大学に、今まで以上になってほしいと思います。そのためには国際化、グローバル化は非常に大きい課題です。教育だけでなく、ビジネスでも、政治でも、技術でも、どの分野を見ても他の国との協力関係、共同作業が大変重要です。

基本的には日本だけでは生きていけないと思います。どの国もそうですが、国際連携、国際協力も含めてリーダーシップを取れる人たちをぜひ慶應義塾大学は育成していただきたいと思います。

伊藤 慶應義塾の場合は大学だけでなく、小学校から大学院まであります。その大きな慶應義塾を括って、福澤諭吉の慶應義塾の目的に「全社会の先導者たらんことを欲するものなり」という言葉があります。先導者は直訳すると「リーダー」になるわけです。だから、今、フクシマさんがおっしゃったように、研究を充実させるとともに、気概を持って、よい社会を作っていくために貢献する人を育てていく先導者を育成することは慶應義塾の重要な目的になるわけです。

今おっしゃったようにグローバル社会の中で生きていくためには国際化、また世界に直接触れ合うことが何よりも大切です。おそらく日本人は口では皆、そう言いながら、自分のところはそれほど進めなくても何とかなると思っていたのがこの20年、30年だったのだと思います。英語で“not in my back yard.” という言葉がありますが、自分のところではやらないけれど、皆はやるべきだ、という考えがあるような気がします。

タイミングとして、いよいよ日本が本気で国際化を進めるべきだとフクシマさんは感じていらっしゃいますか。国際化が大切だと言い、一番必要でありながら、なかなかできていないのが教育機関なのかもしれないと思うのですが。

両極の中間を目指すグローバル化

フクシマ 本格的に変わらなければ駄目だと考えている人が増えていることは事実だと思います。ただ、私はもう10年前に日本からアメリカに戻りました。1990~2012年の22年間、私が日本で仕事をした経験から言いますと、日本社会というのは安定性、継続性、予測可能性、前例を非常に重要とします。それはそれでいいのですが、アメリカは真逆で、そういうことをむしろ軽視する傾向があって、私はどちらも極端だと思います。もう少し中間を好みます。

ユニクロの柳井さんが数年前からアメリカとイギリスの大学に合格した高校生のために全額奨学金を出すプログラムを作ったと聞きました。また、今年から笹川平和財団が似たプログラムで、限られたアメリカとイギリスの大学に受かった日本の高校生のために全額奨学金を出していると聞いています。日本の大学では必ずしも満足しない、アメリカやイギリスのいわゆるセレクティブ・ユニバーシティに留学させる用意のある親がだんだん出てきているのかなと感じています。その意味では日本の大学も本格的にグローバル化をしなければ、そういったプログラムで日本の優秀な高校生が行ってしまうのではないかと思います。

伊藤塾長は高校の時にアメリカへ留学した経験があります。またカリフォルニア大学バークレーという、アメリカの大学の中では非常にハイレベルの大学院のプログラムも体験されている。そういう海外留学経験も活用されて、慶應のこれからのグローバル化をぜひリードしていただきたいと思います。

伊藤 有り難うございます。アメリカも極端だし、日本も極端だと言われました。アメリカ人で日本のことをよく知っていらっしゃる方であればあるほど、両極の間がいいと言ってくださる。その一人がフクシマさんです。いろいろな国を知っている方はいろいろな国のやり方のいいところをどこに落とし込んでいくかをよくお考えになるのだと思います。

またフクシマさんもそうですが、スタンフォード大学名誉教授のダン・オキモト先生など、日系人の優秀な方々は非常に正確で美しい英語を話されます。アメリカ的な一見格好いい勢いのある英語を話す方に対して、理路整然と順序立てて正確な英語を話す日系人の方が多い。その意味ではわれわれもちょうどいい、真ん中のところから学ぶことが多いのだなと最近特に感じます。

フクシマさんほどアメリカと日本の橋渡しに貢献されてきた方はそう多くはいらっしゃいません。そのようなフクシマさんが、日本や慶應義塾にどこまで進めばいいかを指南してくださることはとても有り難いことで、これからもいろいろと教えていただければと思っています。

フクシマ 私も期待していますので、頑張ってください。実は、私の妻咲江は慶應の卒業生ではありませんが、外部評価委員を務めさせていただきました。慶應義塾にお世話になった者として、お役に立てればと思います。

伊藤 慶應義塾としてはグローバル・シチズンを育てることがこれからの一番重要な目標になると思います。日本の様々な課題は顕在化しています。少子化によって子供が減っていく一方で、60歳以上が国民の数の3分の1近くになっている。このままどんどん人口に占める割合に高年齢の方が増えていくと、どうしても政策がその人たち中心になっていく。

それがいけないとは言いませんが、教育機関をあずかる私としては、若者の将来に対する責任を第一に感じます。どうやって若者を日本に増やしていくか。世界から来てもらって増やしていくのか。若者たちが20年、30年、50年、どうやって平和で豊かで、この国で、また世界で活躍してよかったと思える国や地球を作っていけるか。それはわれわれの大切な課題です。それを待ったなしの状況で考えていかなければいけないのだなと思っています。

環境問題など、世界的なレベルで解決しなければいけない問題が増えています。そこへ参加していかなければいけないということを考えてもグローバル・シチズンシップがとても大切になってくる。

また日本特有の問題もあります。例えば働く人の給料が上がらない。住みやすい一方で、皆が相当我慢している。相当な貧困層もいるという状況を解決していかなければいけない。

世界の中で日本を位置づけ、日本を主権国家として強くし、その日本が世界の発展に寄与する。一人一人は日本にいようとも、世界のどこに住もうとも、日本人以外の誰と結婚しようとも、グローバル・シチズンとして活躍できる人になれるような慶應義塾という教育機関を作っていかなければいけない。

こういったことを塾長に就任して以来、ずっと責任として感じています。そのあたりのことを慶應義塾の仲間たちと一緒に話し合いながら、1つ1つやれることをやっていくのではもう手遅れなのかもしれないので、大きなチャレンジに挑戦したいと思っています。

本日は有り難うございました。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。2022年1月号