福澤諭吉をめぐる人々; 岡本周吉 | ねぇ、マロン!

ねぇ、マロン!

おーい、天国にいる愛犬マロン!聞いてよ。
今日、こんなことがあったよ。
今も、うつ病と闘っているから見守ってね。
私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【福澤諭吉をめぐる人々】岡本周吉(古川正雄)

 

 

三田評論ONLINEより

 

  • 馬場 国博(ばば くにひろ)

    慶應義塾湘南藤沢中・高等部教諭、福澤研究センター所員

福澤諭吉は5人きょうだいの末っ子で、兄が1人いるが弟はいない。その福澤が『福翁自伝』の中で、唯一人、「弟のよう」と表現する人物がいた。それが岡本周吉である。岡本は兄のように福澤を慕い、福澤は弟のようにこの岡本の面倒をみて、生前だけではなく、死後にはその遺族の世話もした。

本稿では、岡本の短くも波乱に満ちた40年の生涯を、福澤との関わりを中心に紹介する。

福澤塾の最初の門下生であり塾長

岡本は天保8(1837)年、安芸国(現広島県山県郡北広島町)の庄屋に生まれた。16、7歳の頃、医学を志し、まず広島で漢学を学んだ後、安政3(1856)年8月に適塾に入門した。福澤の約1年半後の入門になるので、後輩として福澤からも指導を受けたものと考えられる。

安政5(1858)年、福澤は中津藩の命により、江戸藩邸での蘭学教授に行くことになった。この時は藩の公用での江戸勤番であるから、家来を1人連れて行くことが許された。その時の様子が『福翁自伝』(『福澤諭吉著作集第12巻』)には次のように描かれている。

「塾中に誰か江戸に行きたいと云う者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何(どう)だ」というと「即席にどうぞ連れて行(いっ)て呉(く)れと云(いっ)たが岡本周吉」であった。そこで「連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宜しいか」と尋ねると、「『飯を炊く位のことは何でもない、飯を炊こう。』『それじゃ一緒に来い』」。

こうして、道中はもう一人原田磊蔵(らいぞう)という備中出身の塾生が加わって、3人で江戸に向かった。江戸に着くと原田は医師の大槻俊斎の処に入り込んだので、築地鉄砲洲の中屋敷の長屋では岡本が福澤と同居して、蘭学塾を開くのを手伝ったのである。この頃岡本は名を節蔵と改めた。

岡本は福澤塾の最初の門下生であるとともに、初代の塾長(頭)として新しく入門してくる塾生の面倒も見ていた。中津藩から手当も受けていた。そのため暫くすると、岡本は国許の兄から学資の仕送りを止めるという連絡を受けてしまう。しかし、中津藩からの手当は少額であったため兄に仕送りの継続を頼む手紙を出した。その際には、福澤は岡本にとってここ1年の修行の大切なことや、後に福澤の岳父となる中津藩の用人土岐太郎八に岡本への手当の増額を願い出て、その見通しが立ったことを認めた添書きを渡しており、親身になって援助している。

『万国政表』の翻訳

岡本は万延元(1860)年に『万国政表』という書物を出版している。これは1854年にオランダで刊行された『国名、地積、政体、首長、その他を含む、地球上の全土に関する統計表』という、縦100cm、横60cmほどの一枚紙に書かれた、世界各国の国勢を表す一覧表を訳したもので、日本で最古の翻訳統計書に位置付けられている。

この『万国政表』の表紙には、「福澤子囲閲 岡本約博卿譯」と書かれている。「子囲(しい)」は福澤の字(あざな)であり、「約」は岡本の実名、「博卿」は字である。すなわち、この本は岡本が翻訳をし、福澤が監修した本ということになる。その経緯については、『万国政表』の凡例の中で岡本が次のように述べている。

「福澤先生之を訳して世に公にせんと欲して此に従事せられるなり。而して訳稿未だ半に及ばずして忽ち米利堅の行あり、因て約に命じて続訳せしむ」

福澤は築地鉄砲洲の蘭学塾で塾生に教える傍ら、『万国政表』の翻訳に着手し、自らの最初の出版物として世に出す準備していた。ところが、木村摂津守に従って咸臨丸でアメリカに行くチャンスを得たために、翻訳作業は約(岡本)に任せて出発し、帰国後、校閲して岡本の名前で出版したのである。

では、何故福澤は自らの最初の出版事業に『万国政表』の翻訳を選んだのか。これについては、やはり『万国政表』の凡例に次のように記載されている。

「近今刊行の地理誌類大に備り、万国の形勢を察するに遺憾なしと雖も、皆巻帙浩瀚にして未だ此表の如き一覧領会し易き者あらず。故に福澤先生之を訳して世に公にせんと欲して此に従事せられるなり」

つまり、当時の日本人に、様々な国の現状と存在を知ってもらうためには、まずは数値(統計データ)を、しかもコンパクトな表の形で示すことが一番であると考えたのである。福澤は統計の雄弁性にいち早く気付いていた。

この『万国政表』の翻訳に当たっては、訳例の工夫以外にも福澤の苦心の跡が見て取れる。それは数値の表記法である。原本では、数値は算用数字で横書きで書かれている。これを『万国政表』では縦書きの漢数字で表記するのであるが、例えば「5054」を「五千〇五十四」のように空位に〇を置いて表記している。

福澤は明治6、7年に日本初の西洋式簿記書である『帳合之法』を出版するが、その中では、千や百のような位取文字を省いて、例えば「五〇五四」のように表記する新機軸を取り入れるが、この『万国政表』ではそれに移行する前段階としての試みを行っている。

福澤は『全集緒言』の中で、自分が「初めて出版したる」ものは、万延元年に出版した『増訂華英通語』だと述べており、『万国政表』は著訳書に含めていない。オランダからの統計表を『万国政表』として世に出そうと着想し、翻訳を始め、また手直しをして完成させ、さらには儒学者大槻磐渓に序文の執筆を依頼するなどして、出版の体裁を整えたのは福澤であった。それにも拘わらず、岡本の名前で出版したのは、岡本の立身の道を開こうとする福澤の兄心からだったのではないだろうか。

『万国政表』表紙

 

幕府海軍の艦長となる

元治元(1864)年、福澤が小幡篤次郎など6人の中津の子弟を入塾させる頃まで、岡本は塾長として塾生のまとめ役に当たった。

福澤は岡本に立身の道を開いてやりたいと考え、広島藩を訪ねて岡本を取り立てるよう推薦する。しかし、岡本の出自が庄屋の子であり藩士ではなかったことから起用を断られる。すると、岡本の身柄をどのようにしようとも広島藩において後で文句は言わないな、と釘を刺した上で、下谷辺にいた旗本古川家に相続する男子がいなかったので、岡本をその婿養子に周旋した。こうして岡本は名を古川節蔵と改めた。文久元(1861)年の頃のことである。福澤や福澤塾、学問への愛着は人一倍であったようで、その後も塾には出入りをしていた。

旗本の1人となったこともあり、数学が得意で測量の心得もあったことなどから、古川は幕府の海軍に入り、士官となって、次第に進んで軍艦長崎丸の艦長にまで出世した。

さて、慶応4(1866)年、江戸城開け渡しの後も幕府海軍は軍艦を品川沖に集結して、抵抗を続けていた。そして、古川は榎本艦隊よりも先に品川湾を脱走することになるが、その直前、新銭座の福澤に暇乞いに来た。そのときの様子を『福翁自伝』では次のように回想している。

「『ソリャ止(よ)すが宜(い)い、迚(とて)も叶わない、(中略)モウ船に乗(のっ)て脱走したからと て勝てそうにもしないから、ソレは思い止まるが宜いと云た所が、節蔵はマダなかなか強気で、『ナアに屹度(きっと)勝つ(中略)と云て、なかなか私の云うことを聞かないから、『爾(そ)うか、ソレならば勝手にするが宜い、乃公(おれ)はモウ負けても勝ても知らないぞ。(中略)唯可哀そうなのはお政(まさ)さんだ(節蔵氏の内君)、ソレ丈(だ)けは生きて居られるように世話をして遣(や)る、足下(ソクカ)は何としても云う事を聞かないから仕方がない、ドウでもしなさいと云て別れたことがあります」。

強情な古川の先行きを案じる一方、その家族を思いやっており、福澤がいかに古川を可愛がっていたかが窺える。

古川はその後、軍艦高雄丸の艦長となり宮古港の海戦に臨む。この海戦の中で、高雄丸ら旧幕府海軍は官軍の旗艦、東艦を襲うのだが、作戦は失敗に終わる。なお、その東艦については因縁がある。慶應3年、福澤は幕府の軍艦受取委員の随員として2回目の渡米を果たす。この時、米国政府から受け取った軍艦が、他でもないこの東艦だったのである。福澤が米国へ行って受け取ってきた軍艦を、弟分の古川が敵にまわして奪おうとしたというのは、不思議な歴史の巡り合わせである。

さて、敗れた古川らは上陸して南部藩に降伏を申し出て、東京に護送されて広島藩の屋敷に監禁された。それを知った福澤は、

「ソコで私は前には馬鹿をするなと云て止めたのであるけれども、監禁されて居ると云えば可哀想だ」ということで、広島藩の屋敷にいる懇意な医者に取り計らいを依頼して、古川に会いに行った。福澤は、

「ザマア見ろ、何だ、仕様がないじゃないか。止めまいことか、あれ程乃公が止めたじゃないか。今更ら云たって仕方はないが、何しろ喰物が不自由だろう、着物が足りなかろうと云て、夫れから宅に帰て毛布(ケット)を持て行て遣たり、牛肉の煮たのを持て行て遣たり、戦争中の様子や監禁の苦しさ加減を聞たりした」(『福翁自伝』)。と、真の弟のように見舞っている。

その後の古川

明治3年、放免を許された後、古川は福澤の推挙を受けて海軍に出仕し、海軍兵学校の教官になり、名前を正雄と改めた。

また、明治3~5年にかけて、古川は『絵入智恵の環』『ちゑのいとぐち』などの小学読本を慶應義塾出版社から出版した。これらは新時代の初等教育に対応する適切な教科書として評価されている。

古川は明治5年、工部省に転じて、翌6年にはオーストリア万国博覧会に派遣されている。明治7年には明六社に加入して学識者と交流した。その後も、著訳に従事して義塾出版の雑誌などに時折寄稿した。また、キリスト教に入信し、訓盲院の設立に参画したり、錦喬塾、弘道学舎等の学校経営に当たったが、明治10年に志半ばで病死した。福澤はその後永らく、古川の妻子を親戚同然に面倒を見た。嗣子岩吉は立派に慶應義塾を卒業した。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。