ネルー:義塾を訪れた外国人 | ねぇ、マロン!

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曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

ネルー:義塾を訪れた外国人

 

 

三田評論ONLINEより

 

  • 山本 信人(やまもと のぶと)

    慶應義塾大学法学部教授

1957年10月7日

1957(昭和32)年10月7日午後、三田の山は異様な興奮に包まれていた。旧図書館前の広場は塾生で埋め尽くされた。その数約6,000人。文字通り身動きできぬほどの人だかりであった。図書館2階のバルコニーにその人物が姿を見せると、歓呼の拍手の嵐がわき起こった。

そこにはアジアの盟主であり、インド首相ジャワーハルラール・ネルーの姿があった。178センチの体格に黒い衣装をまとい、ネルー・ハットと呼ばれていた円筒形で頭頂部が平らになっている白い帽子を着用していた。この演説の直前、演説館においてネルーは慶應義塾大学名誉博士号(法学)を授与されていた。

ネルー首相がマイクの前に立つと、熱気に溢れていた観衆は一気に静寂となった。「塾長、尊敬する教授諸氏、若い男女学生のみなさん」と語り始めたネルー首相の一語一句に、観衆は耳を傾けた。ネルー首相の演説は十分ほどの短いものであったが、彼の声だけが三田の山に響きわたった。ネルー首相は塾生に語りかけた。

皆さんこそ明日の日本であり、皆さんのなかにこそ、この国及び世界に対する大きな責任を双肩に担う人々がいる。(「ネルー印度首相の演説—青年こそ明日の日本」『三田評論』574号、昭和32年12月)

旧図書館バルコニーからの演説

独立の闘士から国家の建設へ

ジャワーハルラール・ネルーは、1889年11月14日イギリス領インド帝国北部イラーハーバードで、富裕なバラモン階級の家柄に生まれた。弁護士であった父モティラル・ネルーは、インド国民会議派に属し独立運動の志士として知られていた。幼いながらも、第2次ボーア戦争(1899年〜1902年)でのボーア人の反英闘争、日露戦争(1904年〜05年)での日本の勝利は、ネルー少年にインド独立の夢を強く抱かせる出来事であった。

1905年に渡英したネルーは、10年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで自然科学を修めたあと、インズ・オブ・コート・スクール・オブ・ローで法学を学び12年に弁護士資格を取得した。その年インドへ戻ったネルーは、父と同様に国民会議派の運動に身を投じた。

ネルーの民族主義的運動は国民会議派での活動といってもよい。なかでも1915年にインドに帰郷したマハトマ・ガンジーと共闘することで、インド独立の道筋を立てた功績は大きい。20年代にはサチャグラハ(非暴力・不服従運動)を展開し、29年12月の国民会議派ラホール大会で「プールナ・スワラジ(完全なる自治)」を宣言すると、30年代前半の民族主義的運動はいわゆる第2次非暴力・不服従運動の時期となった。この間、過激な運動を主導したとして、ネルーは数度にわたり投獄を経験した。30年代後半以降ネルーは、国民会議派議長を務め、戦乱に揺れるヨーロッパの情勢を見極めつつ、インドの独立への道筋を思い描いた。

1947年にインドが英国からの独立を果たすと、ネルーは初代首相に就任し、外務大臣を兼務した。ここからインドという国家建設に乗りだした。政治的には、パキスタンの分離独立という苦い経験をした。国内的には、民主主義的な政治制度を導入し、爾来インドは世界最大の民主主義国家となった。国民会議派が議会での過半数を確保することで、一党優位体制を樹立した。また51年からは経済5カ年計画による経済開発政策を打ちだした。これは公共部門が基幹産業を管理し、国内産業を保護する輸入代替工業化政策であった。

ネルーの外交は非同盟・中立であった。54年には、中国の周恩来首相とのあいだに平和5原則を樹立した。翌55年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議では、周恩来、インドネシアのスカルノ大統領、エジプトのナセル大統領と並び、ネルーは反帝国主義と反植民地主義を謳い、平和10原則を採択することに成功した。東西冷戦下、第3の道を歩まんとした新興アジア・アフリカ国家の姿勢を世界に誇示した瞬間であった。それは国益を重視しつつも、世界平和の実現に関与するという新しい外交姿勢であった。

ネルーは新興国家としてのインドの政治・経済基盤を固めた。こうした内政と外交面での実績をひっさげ、1957年10月ネルーは国賓として日本の地を踏んだのであった。

 

ネルー首相と日本

ネルー首相は、1957年10月4日に来日し、同月13日まで滞在した。同年5月には岸信介首相がインドを訪問しており、その際ネルー首相が日本訪問の意思を示したことを受けて、来日が実現した。日本滞在中ネルーは、岸首相や藤山愛一郎など、日本側の要人と会談したほか、広島や奈良、京都など日本各地を視察した。会談では、軍縮や核実験禁止問題など国際情勢に関する問題について意見交換がなされるとともに、日本・インド間の通商貿易や経済協力促進の必要性について話し合われた。10月13日には共同コミュニケが発表された(「外交史料Q&A昭和戦後期」)。

ネルー首相の日本滞在中、国賓としては異例の出来事が2つあった。1つは、上野動物園のインド象にまつわる逸話である49年に東京の小学生の要望に応えて、ネルー首相はインド象を上野動物園に贈っていた。しかもその象は令嬢の名「インディラ」と名づけられた。多忙なスケジュールを空けて、10月8日にネルー首相はインディラとの初対面を果たした。もう1つは、陸上自衛隊内で特別儀仗隊が遂行する栄誉礼である。最初の栄誉礼を遂行したのはネルー首相に対してであった。

『父が子に語る世界歴史』

ネルーは政治活動家であると同時に著述家でもあった。日本語に翻訳されている著作だけでも、戦時中から戦後にかけて14冊にものぼる。そのなかでも彼の世界観を最も顕著に表しているのは、『父が子に語る世界歴史(全8巻)』である(みすず書房、2002年新版刊)。

本書は、ネルーが英領時代の政治活動の咎で周期的に投獄されていた1930年11月から33年8月のあいだに認められた。当時10代前半であった一人娘インディラに宛てた書簡をまとめたものである。

第1巻「文明の誕生と起伏」に収められている「おとしだま」(1931年元旦)には、 ネルーの歴史認識が見事に凝縮されている。

わたしは、少年少女諸君がよく一国だけの歴史をまなび、それもいくつかの日付や、わずかばかりの事件を、そらで暗誦しながらやっているのをみて、たいへんつまらないことをするものだと思う。歴史というものは、まとまりのあるひとつの全体なのだから、もしおまえがよそで起こったできごとを知らないならば、おまえはどこの国の歴史をも理解することはできないだろう。わたしは、おまえが1国か、2国かに局限するような、せまくるしい歴史の学び方をせずに、世界じゅうのことを研究するようにねがう。いろいろな民族のあいだには、われわれが想像しているほどの大きなちがいはないものだ、ということを、いつも心にとどめておきなさい(21頁)。

ここには、歴史を学ぶというのは、一国の歴史ではなく世界の足跡を理解することであり、世界の動向に目を配ることであるという主張が込められている。しかしネルーは歴史を学ぶだけでは物足りない、とインディラに語りかける。

歴史を読むのはたのしみだ。だが、それよりももっとこころをひき、興味があるのは、歴史を創ることに参加することだ。そしておまえも知っているように、歴史はいま、わたしたちのこの国で創られつつある(19頁)。

これこそが独立の闘士であったネルーの歴史観の真髄である。彼はまさに歴史を創る主体であった。64年に志し半ばで病に倒れたネルー首相の遺志を継ぎ、娘のインディラ・ガンディーは第5代首相(66年〜77年)、第8代首相 (80年〜84年)、孫息子のラジーヴ・ガンディーは第9代首相(84〜89年)となった。インドの発展に尽くした一族は「ネルー・ガンディー王朝」と呼ばれている。

演説の力

ネルー首相の演説には人を動かす力があった。実際に、演説から30年あまり、あの時三田の山に集っていた塾生が日本のゆくえに責任を負っていた。

1人は橋本龍太郎である。橋本は1996年から2年半にわたり内閣総理大臣を務めた。55年体制が崩壊し不安定であった日本の政治経済の状況のなか、橋本は果敢に政権運営の舵取りをした。橋本はあの演説時、法学部政治学科の学生で体育会剣道部員であった。2000年2月、外務省の外交最高顧問としてインドに招聘された橋本は、ナショナリズムと世界のヒューマニズムとの調和を訴える、先見の明のある内容であったネルー首相の演説に感動した、と回顧している(「20世紀の教訓と21世紀のビジョン」)。

もう1人は松本三郎である。当時松本は大学院博士課程1年生で、英修道法学部教授の下、アジア国際関係の研究を志していた。ネルー首相の演説は松本の研究者人生を決定づけた。それまでは中東アラブの国際関係を研究していたが、この演説を契機にインドの周辺近隣外交の研究にのめり込み、それがのちの東南アジア研究へと発展していった。松本は1962年から義塾法学部教員となり、石川忠雄塾長時代に常任理事を歴任し、93年から2000年まで第6代防衛大学校長を務めた。松本は、冷戦後の日本の国防への備えを任されたのである。

私は松本の後を継ぎ、法学部で東南アジア論を担当している。ネルー首相の演説の光景は、生前の松本先生から幾度となく伺っていた。ネルー首相の演説は、アジアの時代の到来を強く印象づけるものであった。

あれから60年が経ち、アジアは世界を牽引している。同時に21世紀は不透明な時代であることも確かである。この時代に生きる塾生から「歴史を創ることに参加する」若者はどれほど巣立つであろうか。

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。