福澤諭吉をめぐる人々; 和田義郎夫妻 | ねぇ、マロン!

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曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

【福澤諭吉をめぐる人々】

和田義郎夫妻

 

 

三田論評ONLINEより

 

  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

慶應義塾幼稚舎は、2024年に創立150年を迎えることになるが、この幼稚舎の原点は和田塾である。和田塾を開いたのが和田義郎(わだよしろう)で、妻喜佐(きさ)と共に、慶應義塾の中で最も幼い子供達を預かり、教育をした人物である。

和田義郎は、天保11(1840)年に和歌山藩の下級士族の家に長男として誕生した。文久3(1863)年に義郎が数えで24歳の時に、同藩の江川氏の娘である喜佐と結婚した。

慶応2(1866)年、和田は27歳で小泉信吉(のぶきち)らと共に、紀州藩の留学生として鉄砲洲の福澤塾に入り、約1年2カ月学んだ。しかし、大政奉還、明治維新へと続く騒然とした状況の中、諸藩の士族の塾生は、塾を離れる者が多かった。和田も同様に和歌山に帰省したが、明治2年に再び上京し、慶應義塾に学び4年には修業を終えて英語教師となった。6年には、エドワルスの著作『英吉利史略(イギリスしりゃく)』を翻訳し上下2巻として出版した。

和田塾―幼稚舎―のはじまり

維新の動乱も落ち着くと、塾生数は増大、慶應義塾は明治4年には三田に移転し、更なる発展の基盤を固めた。

当時の塾生の大半は寄宿していたが、福澤は、子供と大人の塾生が雑居する環境が良いとは考えていなかった。そこで、義塾では、三田に移転する前から既に童子局(童子寮)を別に一室設けていたが、明治4年の「慶應義塾社中之約束」では、童子局の規則も設けている。すなわち、童子寮に入ることのできる年齢を12歳以上16歳以下と定めたのをはじめ、その生活についても、部屋の出入りや門限などを定めている。実際には、7歳や8歳というように12歳に満たない入塾者も相当数いた。明治5年の「私学明細表」によれば、全塾生の1割弱が13歳以下である。

一方、国内では、明治5年に学制が敷かれ、東京府内にも新しい小学校ができ始めた。しかし、この新しい小学校は、未だ旧来の寺子屋と大差なく、福澤にとって必ずしも自身の理想とは合致していなかった。加えて、福澤は、自分の子供達がちょうど学齢期に達する中で、その教育についても切実に考えるようになっていた。

福澤は、自らの子女や年少の塾生の教育、つまり初等教育の分野を安心して任せることができる人物はいないか、と考えていたことであろう。そして託したのが和田義郎であった。

和田義郎夫妻は明治5年頃から自宅(現在の正門脇消防署辺り)で、年少の塾生を何人か預かり世話をしていたと言われているが、正式には、明治7年1月に数名を自宅に寄宿させて、夫婦で教育を行い始めた。場所は三田山上に移り、図書館旧館の辺り、これが和田の私塾「和田塾」のスタートであり、幼稚舎の創始である。和田が没するまで、経済的には慶應義塾から独立した寄宿学校で、和田は、妻の喜佐、実妹の秀(ひで)と共に家族ぐるみで子供達の面倒を見たのである。和田夫妻には実子がいなかったが子供好きで、もってこいの役割であった。ちなみに、和田塾に「幼稚舎」の名がついたのは12年ないし13年頃と言われている。

 

「性質きわめて温和」

福澤が初等教育を和田に託したのはなぜなのであろうか。『福翁自伝』で和田について語っている。

「明治四年新銭座からいまの三田に移転した当分のことと思う。ある日和田義郎(いまは故人になりました)という人が、思い切った戯れをして壮士を驚かしたことがある。この人はのちに慶應義塾幼稚舎の舎長として、性質きわめて温和、大ぜいの幼稚生を実子のように優しく取り扱い、生徒もまた舎長夫婦を実の父母のように思うというほどの人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年のときから武芸に志して体格も屈強、ことに柔術は最も得意で、いわゆるこわいものなしという武士である」

福澤は、「先ず獣身を成して後に人心を養え」と言い、子供の段階では、「身体の発育」から「精神の教育」、そして知育へと徐々に移行していくことが良いと考えていた。そして「精神の教育」についても、春の風のように和やかで、清らかな雰囲気を大切にしていた。その点で、柔術に長け、温和な人柄の和田は最適であった。

その和田の風貌や雰囲気について、後に和田義郎の養子になった和田貞之進の「覚書」には次のようにある。

「先生は体格肥満偉大にして五尺五、六寸もあるように見え、豊頬に薄赤き美髯を蓄え、一寸西洋人かと見まがう容貌をして学者型より寧ろ武士的典型であった」
「先生の存世中に只の一度も生徒同士のケンカ、握(つか)み合いなどを見た事がなかったし、又闘争的の仲裁制裁必要もなかった。若(も)し生徒の一人が見苦しい処作でもあったら、其生徒を先生の前に連れ出して、何の小言もいわず、微笑、偉大なる人差指を平手に出して『サアお手をお出しなさい。シッペを一つ上げましょう。』とシッペの仕草をしたらどんな腕白生徒も一時に縮み上がって仕舞い、それから誠に温和な生徒になって仕舞った処など誠に奇妙な懲罰であった。併(しかし)唯一人此先生のシッペの御見舞を受けたものはなかった」

当時の幼稚舎の教育の特色によく挙げられるものに柔術と共に演説の練習がある。第1及び第3土曜日の夜、夕食後に寄宿生を全員大広間に集めて演説会を開き、演説の練習をしたという。幼稚舎生であった中山和吉は次のように回想している。

「十二歳位から以下の子供は『汽車の効用を申します』とか『水の効用を申します』と言った様な極めて簡単なものであったが 漸時上級となり、又年齢も長ずるに従て可なり聴き耐えのある名演説もあった。又各生徒共次の演説会には如何なる演題で如何に述べようかと常に注意をしていたので、生徒の観察力と批評眼を養成した効果もあった」

慈父慈母の如く

では、幼稚舎生には和田はどのように映っていたのであろうか。和田夫妻を「慈父慈母の如く」と記し、「家庭的」と記しているものが多い。

例えば、森村市左衛門は、和田のことを「慈父の如き伯父さん」と題してこう記している。

「私の記憶する和田先生は、先生というような感じを少しも生徒に与えない慈父の如き実に優しいおじさんという感じを未だに持っているのであります。恐らく誰でもそういう感じを持っているだろうと思います」

その日常は中山和吉が詳しく回想している。例えば、年少の者は、和田の居間の斜め前にある第一食堂で食事をしたが、「幼い者や新入生には奥様やお秀さんが手づから御飯のお給仕をして下さった」という。また、就寝は午後9時であったが、「それから1時間も経つと、和田先生は提灯を持たれて各室を巡視され、又夜半の2時頃にも今一度巡視され、もし寝具を剥いでいる生徒があると丁寧に寝具を掛けて下すった」という。また、おねしょをして、お秀さんの世話になったという人も多い。

武藤山治は著書『私の身の上話』において、和田塾の家庭的な雰囲気を「この和田塾では上級生下級生という差別観念はなく、全く家族同様に取扱われました」と語っている。そして次のようにも記した。

「幼稚舎における和田先生と生徒との間柄は全く家庭的であって、一同は和田先生と言わず、『和田さん』と呼んでいました。(略)又和田先生が一同の出席簿をおつけになる時にも決して『何某(なにがし)』と呼び捨てにはしないで必ず『何々さん』と呼ばれておりました。つまり師弟間に階級的な観念を作らず親密な温情が溢れていたのでした」

なお、武藤は、「頃日(けいじつ)になって考えますと福澤先生が幼稚舎を御創設になったのは、英国では人格の高い先生が限られたる生徒を預って家庭的に世話をし人格を練る、小さな塾舎のようなもののあるのをお聞きになって、特に人格の高い温厚なる和田先生にその仕事を託されたのではなかろうとも想像されます」とも語っている。

 

「親友福澤諭吉涙を揮て之を記す」

明治25年1月、和田は突然病に伏し、脳炎で没した。臨時休業の後、授業の再開に当たって福澤自らが幼稚舎生に行った演説の内容が残っている。福澤の愁傷、落胆がよくわかると共に、まるで父を亡くした子に接する祖父のような心情が伝わるような演説である。

また、福澤は、和田の墓誌を自ら記した。そこには、

「課程の業を授るのみならず、朝夕眠食の事までも内君と共に力を協(あわ)せて注意至らざる所なし。君の天賦温良剛毅にして争を好まず、純然たる日本武家風の礼儀を存す。在舎の学生曾(かつ)て叱咤の声を聞かずして能(よ)く訓を守り、之を慕うこと父母の如くにして、休業の日尚且(なおかつ)家に帰るを悦ばざる者あるに至る」とあり、最後を「親友福澤諭吉、涙を揮(ふるい)て之を記す」と結んだ。

和田は上大崎の白金本願寺(現在の常光寺)に埋葬され、その9年後福澤はその和田の墓のすぐ向かいに埋葬された。今日では、和田も福澤もお墓は移転したが、常光寺には、福澤の記念碑と共に和田の記念碑があり、この墓誌も見ることが出来る。

和田義郎の記念碑(常光寺内)

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。