写真に見る戦後の義塾 「大学紛争の時代」50年前の一体育会部員の懊悩 | ねぇ、マロン!

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私がどんな人生を送ったか、伊知郎、紀理子、優理子が、いつか見てくれる良いな。

曽田歩美様に頼んでマロンの絵を描いていただきました。

写真に見る戦後の義塾

「大学紛争の時代」50年前の一体育会部員の懊悩

 
 
  • 奈藏 稔久(なぐら としひさ)

    三田体育会会長、慶應義塾評議員・1969経

我が国が先の大戦で壊滅的打撃を受け、敗戦を迎えたのが昭和20(1945)年であった。それから70有余年、先人のたゆまざる努力と英知により我が国の平和と繁栄がもたらされた。その間、様々な政治的、社会的事象が現出、道は決して平坦ではなかった。

戦後四半世紀を過ぎたころ、「学の独立」を根本から揺るがす「学園紛争」という驚くべき事象が起こった。手許に当時の「三田評論」(昭和44(1969)年3月号)に筆者が寄稿した一文がある。渦中で翻弄され、懊悩を続けた一塾生、そして体育会部員としての「青く」、激情に任せた、そして関係者の皆様に極めて礼を失した表現の多い6千字である。さらにこれに対し次号では生田正輝体育会理事、大正12年(1923年)卒の田辺武雄先輩の懐深く、若者を諭し抱きしめるような投稿が続く。今回筆者はどのようにこの想い出を綴ることができるだろうか。
 

50年前、日本国中を学園紛争の嵐が吹き荒れた。ほとんど全ての大学で校舎封鎖、授業中止、入学式、卒業式などの基幹行事中止という日々が続いた。理由は様々であった。明確な左翼革命思想、既成秩序に対する反抗、真摯な改革思想など、そしてこれに肯んじず、安寧な学園生活を希求する学生の反発。徹夜の学生大会、連日の集会、怒号が飛び交い、乱闘、集会解散……。まさに熱病としか形容のしようがない。

やがて全学連過激派と言われる集団が突出する。鉄パイプ、ゲバ棒(角材に釘を多数打ち付けた武器)、ヘルメット、覆面で武装し、学内中枢建物を占拠してゆく。教職員、学生はこの乱暴狼藉に対抗する術を持たない。学長、教授陣は拉致され、首に札をぶら下げられ「自己批判」を強要された。学園の荒廃無残。

慶應義塾もその例外ではなかった。昭和40(1965)年、学費値上げ反対闘争を皮切りに43年の「米軍資金導入反対」で頂点に達した運動はやがて止まるところを知らず、ついに塾監局も全学連過激派に占拠されてしまう。彼らが塾生なのか、他大学生なのか、そもそも学生か否かさえ判別できない。先生方は軟禁され自己批判を強要される。

学内の反応は様々であった。異常事態に猛反発する塾生、教授陣の存在は当然として、過激派を擁護、支持する教授陣、塾生まで、それぞれがそれぞれの立場で議論し合い、反発し合い、憎み合い、そしてそれぞれが連帯感を高め合った。もちろん絶好のチャンスとばかりに遊び呆ける「ノンポリ」もいた。誰も乱暴狼藉を止め、排除する物理的力を持たなかった。熱病に冒されたものには塾生の良識ある説得は無力であり通用しなかった。しかし機動隊を導入して不法占拠者を即刻排除すべし、という強い主張はなぜかあまり耳にした記憶がない。独立自尊の学塾であるべし、との暗黙の自負と了解が短絡的に最終手段に訴えることを良しとしなかったのであろうか。

 

塾生の中に体育会部員がいた。当時33部1,400名前後であったろうか。厳しい練習に耐え慶應義塾を代表して試合に臨む諸君である。塾を愛し、スポーツを愛し、塾体育会部員であることを何よりも誇りにしている若者達。筆者もその一員であり、空手部主将、体育会本部兼任常任委員という立場であった。空手部はもとより体育会全体を束ねる責任があった。そんな中いくつかの大学では過激派との武力衝突に至った体育会があった。自らが拠って立つ大学の存立を脅かす武力集団に武力で立ち向かったのである。この体育会の動きを看過、助長したいくつかの大学もあった。そして体育会は敗れた。無謀であった。武装し、武闘経験のある過激派にとって体育会学生は敵ではなかった。修復しがたい学生同士の亀裂と憎悪。

塾体育会各部は多様であった。ある部は淡々と練習を続け、ある部は練習もそこそこに学生大会、各種集会に駆け付け思うところを主張する。しかし最も強い主張はなぜ良識ある体育会が三田山上に展開する異常事態を看過するのか、というものであった。空手部はたびたび稽古を中止し部内討論会を開く。そして部員同士の意見の対立。筆者は翻弄され懊悩した。個と全体、左右過激思想と常識論、16年間学び続けた塾への愛着、有り余る体力と情熱。

結局体育会は一切の全体行動を控えた。文字通り紙一重の決断の場面を何度か乗り越えた結果であった。

義塾における紛争は粘り強く話し合いを守り通した良識派塾生の力の結集によって過激派の塾監局退去を実現し、事実上終息することとなる。義塾は官憲の導入なくこのことを実現した日本で唯一の大学となった。

義塾は、塾生、塾員はこの歴史的体験を通じて何を失い、何を得たのであろうか。「義塾における学園紛争」、このことが持つ意味を若き塾生、塾員はどう受け止めどう理解し、誰が検証し後世に伝えるのだろうか。筆者の胸に去来する思いは今なお複雑なものがある。ただ自らが愛するもの、自らが属する組織のために自らを捧げ、これを誇らず淡然と立つ人物を選良(Elite)と呼ぶなら、筆者はこの苦しくも鮮烈な経験を通じて多くの真のElite と出会うことができた。後にそれは実社会ではまれにしか体験できないことを知った。「青い」投稿当時、このことに気づく術も語る術も持ち合わせなかった。50年の歳月がこれを可能にしてくれた。

日吉ラグビー場で佐藤朔塾長の前に陣取る体育会学生

 

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。