出汁をデジルと読んでも問題ない。
漢字は音も訓もすべて当て字だ。
音読みは歴史もあって密接に感じるが、その音に必然性がないことに変わりはない。
中国語の拼音も同じこと。
雞雞 (チ◯チ◯)をjījī と読むのは慣用に過ぎない。
北京政府が明日から、これを pàopào と読めといえばそうなるだろう。
変えてもいいのである。
同性愛も病気と言われてきた。電気ショック療法とか、ふざけたこともやってきた。痛ましい。
いまは病気扱いはしない。しているのは一部の独裁国家だけだ。
まだ、「治療」しているのかもしれない。人権侵害だ。人権という概念がないのだろう。
病気でないものが病気になり、病気だったものが、病気でなくなる。
自然界にそんな境界はない。人間が、これは正常、これは異常などと勝手に引いた線だ。
同性愛と異性愛に線を引くのも人間。
いまは、その線が太く、というか、あいまいになってきている。
誰を好きになろうと自然界には関係ない。性愛で十分。
当たり前だ。愛する対象を区別する、元来そんな線は存在しない。あるものはある。
一方、円周率とかは変えられない。
自然科学は必然性の支配する世界だ。
実に冷たく美しい。




