本気の趣味、適当な趣味をめぐる人生論 | 研のゲイ術的生活

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お茶の水女子大名誉教授の土屋賢二は、ジャズをやっていて、「趣味は苦しい」というエッセイを書いていた。


金を一生むしり取られ、常に練習し、自己嫌悪に陥るサイクルだと。


しかし辞めてしまえば、敗残者の人生なのだ、と大袈裟なことも言っている。やめるにやめられないのは、金をゆすられているようだと。


彼は、定年後、すぐ夫婦で神戸に転居し、今はジャズのジャの字も本に出てこない。たぶんやめたのだろう。ジャズ仲間は東京にいるはずだから。


こちらは趣味なのだが、先生の方はプロである。教えたり、演奏、演舞で収入を得ている。


また、先生は子どものころから始めているから、生徒であるわれわれは永遠に追いつけない。どのレヴェルまで行けばいいのか目標がむずかしい。


私の場合は太極拳だが、老師に勝てるはずがない。勝とうなど一瞬思うだけでも不遜で失礼だ。


大会に出るというのはモーティヴェーションを維持する方策の一つではあるだろうが、いまさら外の基準に合わせるのがどうも気にくわず、出たことはない。しかし、外の基準が面倒ということは、自己流になってしまう。


順位が視覚化されるのが嫌なのかもしれない。


なかなか論文を公刊しない学者に似ている。書かなければ優秀なのかも知れないと思ってもらえるが、出したら最後、どのくらいの実力なのか外にわかってしまう。


しかし、自己流に毛が生えた程度のまま一生を終わるのも口惜しい。


健康太極拳でいいのだと無理に納得している感もある。実に、悩ましい。


しかし、これまで身についたもの、私で言えば、語学や言語学は試験、検定などを受けて苦労したものだ。


試験、大会のような客観的に試されるものがないと、どうしても適当になってしまい、本気でやることが難しい。


趣味といっても、明確な境界線があり、大会で優勝するようなレヴェルの少数派と、私のようにちんたらやっているだけの多数派がいる。


優勝するとスポーツジムとかのインストラクターにさせられてしまうこともある。


もはや、趣味ではなく、低収入なプロになってしまうのだ。たとえアジア大会で優勝しても太極拳だけでは食べて行かれない(たぶん)。


ジャズやクラシックなどでは、アマチュア(月謝を払う方)から、プロ(月謝をもらう方)になることはないだろう。


土屋賢二氏の話でも、ジャズの埼玉県大会レヴェルでさえ、熾烈な戦いが展開されているという。高校野球と同じだ。


そんなところへ関わったら、本来、人生を楽しむための趣味が、苦行になってしまうのではないだろうか。


彼が定年後にジャズをやめた(ように見える)のも当然である。今、なにをして膨大な時間を潰しているのだろうか。


会社員もゴルフをしていて、スコアを上げることを考えてはいるだろうが、それは本業があってのことだ。


定年後、レッスンプロになろうとする人はまさかいないだろう。また、なれもしない。


教える先生の方も、この人は趣味、この人は本気だと分けている感じがある。本気の人を見つけて大会へ送り込むのだろう。


私は完全に趣味のテキトー組扱いをされている。クラスに行ったときしか練習していないのだから当たり前だ。


台北にいたときの老師はとても厳しくて、趣味ではない扱いをされた気がする。


別亂動! (適当に動かない!)   


太慢! (遅すぎる!)  


太快! (早すぎる!)


平平的! (まっすぐ!)


扣腳!(つま先を入れる!)


你的毛病!(あなたの病気!)


と、毎回、5秒ごとに叱られた。


太極拳は、16年やってますというと、1、2年の経験にしか見えない、とはっきり言われてしまった。


たぶんそんなものだろう。家で練習などしたことがないのだから。


この時、たぶん初めて「本気組」レヴェルの指導を受けたのだと思われる。


大学でいえば、この学生は大学院に行く熱意があるのか、最低限、卒業できる程度に勉強しているのかを判断しているようなものだろう。


たかが趣味と言っても、本気でやっている人もいるから、それが横目で見えてしまい、本当に悩ましいことである。嗚呼。