ゲイ映画がぼかしたり、観る人に想像させたりして省略した部分に、エロ動画をはめ込めば、ぴったりと、完全、自然な人間の姿になる。
つまり、エロ動画も、ゲイ映画も、それだけでは不自然ということだ。
もちろん、映画、動画に、人の全てを過不足なく描かなくてはならないという規則はない。
しかし、エロビと、ゲイ映画が、役割をきっちりと分けて分担しているという事実、この2つを合わせないというところが面白い。まるで、本音と建前のようだ。
だから、実験作になるだろうが、濡れ場をエロビのように丁寧に描いた、社会派のゲイ映画があればもっと面白い。
感動を与えたり、社会問題的に扱ったり、ロマンティックにしたいゲイ映画は、濡れ場を単なる「記号」にしてしまうのか? 2人がベットに入ってホワイトアウトならば、これからHします、という記号、符丁にすぎない。
なまなましいアナル拡張と、社会問題は、相容れないのか? 両方とも、同一のゲイがやっていることである。
リアリズムとは、なんでもかんでも描いてしまうことではないが、どうも、濡れ場だけ綺麗事のように外すことには、違和感を禁じ得ない。