⑨ 高まるアイヌ伝説への関心 |   マリモ博士の研究日記

  マリモ博士の研究日記

      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 前回、1926年に青木純二の「アイヌの伝説」が発刊される10年ほど前には、既に阿寒湖からマリモが持ち出され、遠く東京や札幌で愛玩用として栽培されていた状況を説明した。事情は地元の釧路・阿寒地方でも同様で、私がこれまで折にふれて聞き取ってきたところでは、家庭や事業所などで水槽や金魚鉢に入ったマリモが普通に見られたという。

 

 マリモは今日では考えられないほど身近な存在であり、それが忽然と出現したセトナとマニペを主人公とする「恋マリモ伝説」がすんなり受け入れられる素地になったと考えてよいだろう。

 

 そして、おそらく同じ理由で、「恋マリモ伝説」は地域における芸術活動のモチーフともなっていた。例えば、1933年に釧路で開かれた全国特産品共進会では、余興として「阿寒伝/玉藻の由来」と題する舞台が上演されており、同年6月21日の旧釧路新聞には、「阿寒湖の名物たる毬藻の伝説を脚色化せるもので、酋長宅、阿寒湖畔、阿寒湖水中の三場よりなる」と報じられている。

 

 さらにまた、1931年6月6日の旧釧路新聞には、「アイヌ伝説蒐集/鉄道当局の新しい試み/駅長に依頼して」といった記事も散見され、当時、アイヌ民族の伝説に対する関心が高まりを見せ、体系的に収集・保存しようという動きがあった様子が分かる。その成果は、石附舟江の「伝説蝦夷哀話集」(1936年・私家版)、山本多助の「阿寒国立公園とアイヌの伝説」(1940年・日本旅行協会)、更科源蔵の「コタン生物記」(1942年・北方出版社刊)などとして著された。「恋マリモ伝説」が収録されたこれらの図書が、物語の普及・拡散に一役買ったのは疑いない。

 

山本多助著「阿寒国立公園とアイヌの伝説」の表紙

(1940年・日本旅行協会刊)

 

 

 こうした動きに対して、「恋マリモ伝説」がアイヌ民族の言い伝えでないのを最初に指摘したのは、釧路・阿寒地方におけるアイヌ文化の復興と発展に尽くした山本多助であった。彼は上述した「阿寒国立公園とアイヌの伝説」において、「セトナと毬藻の話」と題して「恋マリモ伝説」を紹介する一方、その最後で「私はこの本を書くため阿寒地帯を三年も調べましたが、此の有名な伝説を阿寒アイヌも知りませんでした。然し地元で不明な事も遠い地方へは伝はり日高や渡島アイヌが知っております」と述べている。「恋マリモ伝説」の発信源が、新聞・ラジオ・書籍といったマスメディアであった経緯を考えれば、北海道内の各地で同時発生的に知られるようになったのは当然であったと言えるだろう。

 

山本多助エカシは1950年に始まった“まりも祭”の創始者の一人でもあった

<特別天然記念物マリモ四十年のあゆみ,「阿寒湖のマリモ」保護会刊>から許可を得て転載

 

 これに対して、本当の原作であった永田耕作の「阿寒颪に悲しき蘆笛」が収録された「山の伝説と情話」は、北海道から遠い大阪で出版されたのに加えて、全国から集まった種々雑多な物語から構成されていた。そのため、アイヌ文化を取り扱う研究者や文筆家の目にとまる機会がなく、結果として青木純二の「アイヌの伝説」に収録された「悲しき蘆笛」が「恋マリモ伝説」の原作としての地位を占めることにつながったものと考えられる。

 

  (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#470,2018年9月24日】