⑧ 背景に巷間のマリモ栽培 |   マリモ博士の研究日記

  マリモ博士の研究日記

      - Research Notes of Dr. MARIMO -
  釧路国際ウェットランドセンターを拠点に、特別天然記念物「阿寒湖のマリモ」と周辺湖沼の調査研究に取り組んでいます

 前回まで、青木純二著「アイヌの伝説」の「悲しき蘆笛」が釧路・阿寒地方にどのようにしてもたらされ、普及・拡散していったのか見てきた。要は、「阿寒湖を舞台とした若いアイヌの悲恋物語がラジオや新聞で繰り返し取り上げられるうちに、広く知られるようになった」ということなのだが、この背景には、「アイヌの伝説」が1926年に発刊される以前から巷間でマリモが栽培され、相応の関心を持たれていた状況があるように思われる。

 

 例えば、植物学者の中野治房は、1917年に植物研究雑誌で発表した「日本ニ珍ラシキまりも」と題する報文の中で、「今や東京に於いても往々之を購い得べく、時々之を人家の水盆中に見ることを得るに至れり」と記している。

 

 また、天然記念物候補物件となったマリモの調査のため、1919年に阿寒湖入りした生態学者の吉井義次は、その報告書(史跡名勝天然紀念物調査報告第4号、1919年・内務省刊)で、「此の藻は形珍奇にして雅致に富む故に世人の観賞品として愛玩すべきを知り、先年此の湖より多く採集して帝都に送り販げる者あり。又現に北海道庁に今後十年間該藻採取の権を出願せるものあり」と述べている。

 

 マリモは何と、はるばる東京まで運ばれて観賞用に売買されていただけでなく、権利を得て採取・販売しようという動きまであったのだ。

 

アイスランドの友人宅の居間に飾られるミーヴァトン湖のマリモ(2001年7月).

日本でも1910年代から50年代まで同じような光景があちこちで見られた.

 

 

 状況は北海道でも同様で、マリモ研究の父たる西村真琴が1921年に札幌で投宿した旅館では、金魚鉢でマリモが栽培されていた。彼が1927年に大阪毎日新聞社から発刊した随筆集「水の湧くまで」には、「宿の主人は、マリモを天気の良い時には浮き上がり、雨天には沈んで湖底に帰る『天気予報藻』と呼んでいた」と記されており、こうした生態に関する情報も(真偽のほどは別として)広く行き渡っていた様子が分かる。

 

 このようなマリモに特有な情報は、前回取り上げた1931年6月28日の旧釧路新聞にも見受けられ、「毬藻が日陰でなければ育たないというのも許されない主従同士の恋なのだからでしょう」という記述の前半は、「マリモは陰性の成長生理を有している」という科学的な知識なしに出てくる話ではない。記者はどこからこのような知識を仕入れたのだろう。

 

 植物生理学分野における当時のマリモ研究の状況を振り返ってみると、上述した西村真琴が1922年に阿寒湖でマリモの浮沈現象に関する調査を行っている。その成果は、23年に「毬藻の葉状体が球形叢団を形成するの原理」として植物学雑誌に論文発表され、26年には、この概要とマリモの栽培方法を一般向けに解説した冊子が「毬藻研究の学術的価値-附毬藻の培養」と題して北海道庁から刊行された。

 

 その中で、「マリモは直射日光をきらうため、弱光下で栽培する必要がある」と述べられているだけでなく、栽培に適した水質や温度、マリモの取り扱い方法などについても詳しく説明されている。1921年の天然記念物指定を機に違法になったとは言え、50年ころまで、マリモの栽培は釧路圏でも普通に行われていた。これらの資料が栽培マニュアルとして利用されたであろうことは、想像に難くない。

 

マリモの違法採取や売買が絶えず,取り締まりの強化を報じる旧釧路新聞の記事

(上:1922年11月29日,下:1923年7月7日)

 

  (つづく

 

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【釧路新聞文化欄・日本マリモ紀行#469,2018年9月17日】