第十一章 極北の冷気と愛の贅沢



羽田空港の国際線ターミナル。 


かつての希なら、一円でも安い深夜便を探し、硬いベンチで搭乗を待っていただろう。

けれど今、彼女はANAビジネスクラス専用のラウンジにいた。


選んだのは『優雅でゆとりのオーロラ紀行八日間』。代金は、一人あたり百二十万円を超える「プレミアムステージ」のツアーだ。


機内に一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。


フルフラットになる座席、選び抜かれたワイン、白い布が敷かれたテーブルで供されるコース料理。


十八歳から二十四歳までの六年間、一分の狂いもなく「効率」と「貯蓄」に捧げてきた希にとって、それはあまりに眩しく、けれど少しだけ悲しい景色だった。 


(お母さん、見てる? ビジネスって、こんなに広いのよ)


希は、機内食のシャンパングラスを、隣の空席にそっと向けた。そこには誰もいない。

けれど、バッグの奥に大切に仕舞った母の遺影と、ライブチケットが、彼女の旅の確かな同伴者だった。  


バンクーバーを経由し、小型機に乗り換えてさらに北へ。


プロペラ機の窓から見える景色が、深い緑から一面の死の世界のような白銀へと変わっていく。

やがて、目的地であるカナダのイエローナイフに到着した。


タラップを降りた瞬間、希は息を呑んだ。

――いや、あまりの冷気に、肺が拒絶反応を起こした。


肺の奥まで直接凍りつくような冷気が、喉をナイフで切り裂くように襲いかかる。

鼻腔の粘膜が一瞬でパキパキと凍りつき、吸い込む空気が痛い。


日本で一番暖かいはずのウールのコートは、この地では紙切れ一枚ほどの役にも立たなかった。


吐き出した息はまつ毛に触れたそばから白い結晶となり、瞬きさえ重い。


命の危険を本能で察知するほどの、圧倒的な暴力としての寒さ。


希は震える肩を抱き、逃げるように空港ロビーへと駆け込んだ。


「結城希様ですね。お待ちしておりました」


ロビーでは、ツアーの専任ガイドが穏やかな微笑みで迎えてくれた。

十九名以下のプレミアムツアー。

参加者の多くは落ち着いた身なりの老夫婦で、場違いなほど若い希に驚きつつも、温かな眼差しを向けていた。


送迎車でホテルに到着し、部屋の重いドアを閉めた瞬間、ようやく静寂が訪れた。


部屋にはあらかじめツアー側で用意された「極地用防寒具」一式が届けられている。


希は、先ほどまで自分を凍えさせていた無力なコートを脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろした。


ふと、左腕の袖をまくり上げる。


そこには「38」という数字が静かに浮かんでいた。


日本を飛び立ってから、日付変更線を越える長い移動。

退職を決意したあの日から四日が過ぎていた。


分刻みのスケジュールに追われていたかつての日常が、すでに遠い前世の出来事のように感じられる。


窓の外には、街灯もまばらな雪原が広がっていた。


今日から四夜連続のオーロラ観賞が始まる。


希は母の遺影をチェストの上に置き、その隣に101日目のチケットを並べた。


彼女の人生で最も非効率で、最も贅沢な八日間が、今、静かに幕を開けようとしていた。


***

続きは明日20時に更新します。