この小説の第一章からお読みになる場合は
からお読みください。
*** *** *** ***
第十一章 極北の冷気と愛の贅沢
羽田空港の国際線ターミナル。
かつての希なら、一円でも安い深夜便を探し、硬いベンチで搭乗を待っていただろう。
けれど今、彼女はANAビジネスクラス専用のラウンジにいた。
選んだのは『優雅でゆとりのオーロラ紀行八日間』。代金は、一人あたり百二十万円を超える「プレミアムステージ」のツアーだ。
機内に一歩足を踏み入れると、そこには別世界が広がっていた。
フルフラットになる座席、選び抜かれたワイン、白い布が敷かれたテーブルで供されるコース料理。
十八歳から二十四歳までの六年間、一分の狂いもなく「効率」と「貯蓄」に捧げてきた希にとって、それはあまりに眩しく、けれど少しだけ悲しい景色だった。
(お母さん、見てる? ビジネスって、こんなに広いのよ)
希は、機内食のシャンパングラスを、隣の空席にそっと向けた。そこには誰もいない。
けれど、バッグの奥に大切に仕舞った母の遺影と、ライブチケットが、彼女の旅の確かな同伴者だった。
バンクーバーを経由し、小型機に乗り換えてさらに北へ。
プロペラ機の窓から見える景色が、深い緑から一面の死の世界のような白銀へと変わっていく。
やがて、目的地であるカナダのイエローナイフに到着した。
タラップを降りた瞬間、希は息を呑んだ。
――いや、あまりの冷気に、肺が拒絶反応を起こした。
肺の奥まで直接凍りつくような冷気が、喉をナイフで切り裂くように襲いかかる。
鼻腔の粘膜が一瞬でパキパキと凍りつき、吸い込む空気が痛い。
日本で一番暖かいはずのウールのコートは、この地では紙切れ一枚ほどの役にも立たなかった。
吐き出した息はまつ毛に触れたそばから白い結晶となり、瞬きさえ重い。
命の危険を本能で察知するほどの、圧倒的な暴力としての寒さ。
希は震える肩を抱き、逃げるように空港ロビーへと駆け込んだ。
「結城希様ですね。お待ちしておりました」
ロビーでは、ツアーの専任ガイドが穏やかな微笑みで迎えてくれた。
十九名以下のプレミアムツアー。
参加者の多くは落ち着いた身なりの老夫婦で、場違いなほど若い希に驚きつつも、温かな眼差しを向けていた。
送迎車でホテルに到着し、部屋の重いドアを閉めた瞬間、ようやく静寂が訪れた。
部屋にはあらかじめツアー側で用意された「極地用防寒具」一式が届けられている。
希は、先ほどまで自分を凍えさせていた無力なコートを脱ぎ捨て、ベッドの端に腰を下ろした。
ふと、左腕の袖をまくり上げる。
そこには「38」という数字が静かに浮かんでいた。
日本を飛び立ってから、日付変更線を越える長い移動。
退職を決意したあの日から四日が過ぎていた。
分刻みのスケジュールに追われていたかつての日常が、すでに遠い前世の出来事のように感じられる。
窓の外には、街灯もまばらな雪原が広がっていた。
今日から四夜連続のオーロラ観賞が始まる。
希は母の遺影をチェストの上に置き、その隣に101日目のチケットを並べた。
彼女の人生で最も非効率で、最も贅沢な八日間が、今、静かに幕を開けようとしていた。
***
続きは明日20時に更新します。
