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第十章 自由へのチケット
空っぽになった母のアパートの真ん中に、希は一人で座り込んでいた。
段ボール箱の山はすべて運び出され、残っているのは、母が最期まで手放さなかった小さな手提げ金庫だけだった。希はその中から数冊の通帳と、厚みのある保険証書の封筒を取り出した。
希は自身のスマートフォンを開き、使い慣れた家計簿アプリの数字と、目の前の書類を照らし合わせる。
商業高校で日商簿記一級を取得し、数字の精査には誰よりも長けている自負があった。
けれど今、彼女の指先は、かつてないほど激しく震えていた。
まず、希自身の貯蓄口座。そこには約八百万円という数字が刻まれていた。
十八歳で就職してから六年間、誰よりも必死に働いてきた。遊びも趣味も一切を断ち、即戦力として実績を積み上げ、手取りの多くを貯金に回してきた「努力の結晶」だ。二十四歳の若さでこれだけの資産を自力で築いたことは、彼女の唯一の誇りだった。
けれど、母の遺した金庫の中身は、その自負を静かに、そして圧倒的な重みで打ち砕いた。
一つは、母の隠し口座。約千二百万円。
女手一つで希を育てながら、自分はボロボロになるまで同じ服を着て、穴の開いた靴下を繕って履き続けてきた母。希にだけは苦労をさせまいと、毎月コツコツと、血を吐くような思いで貯め続けてきた「愛の結晶」がそこにあった。
そしてもう一つ、三千万円という巨額の死亡保険金。
「万が一、自分が早く死んでも、希が大学に行けるように。一人で生きていけるように」
母が重い病を隠しながら、高い保険料を払い続けていた証書。それは、母が自分の命と引き換えにしてでも守り抜こうとした、希の明日の値段だった。
合計、約五千万円。
効率と実績を追い求め、母を古い価値観の人だとどこかで見下していた自分。
そんな自分が積み上げた数字が、いかに小さく、いかに独りよがりなものであったか。
五千万という数字は、もはや単なる貨幣価値ではなかった。
それは、母が自分の手に無理やり握らせた、人生の自由そのものだった。
金庫の底には、一枚の小さな封筒が残されていた。
希が震える指でその封を解くと、中から出てきたのは二枚のライブチケットだった。
それは希の好きな音楽ではなく、母が昔からずっと大好きだったアーティストのものだった。
母がまだ入院するほど症状がひどくなる前、希に内緒で購入していたのだ。
添えられたメモには
「希へ。お母さんの我儘だけど、久しぶりに二人でデートしようね」
と、丸っこい文字で書かれていた。
チケットに印字された開催日は、希の左腕のカウントダウンがゼロになる日の、ちょうど翌日。
――つまり、101日目だった。
「お母さん……っ」
希の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
母は、希が死ぬかもしれないなど微塵も思っていなかった。
ただ当たり前に、娘と一緒に、この音楽を聴き、この光を浴びる未来を疑っていなかった。
100日で終わると思い込んでいた自分の絶望など、お母さんは最初から数に入れていなかったのだ。
このチケットは、終わりのその先にある「当たり前の続き」として、ただそこに用意されていた。
(お母さんは、この日も私と一緒にいるつもりだったんだ……。このチケットを持って、当然のように私の隣に座っているはずだったんだ)
希は泣きながら、そのチケットを母の遺影の隣にそっと置いた。
そして、傍らにあったカナダ・イエローナイフの古いパンフレットを手に取った。
母がいつか希と見たいと願っていた、空いっぱいの光。
希は左腕の腕時計を外した。
そこにある数字は、ついに40になっていた。
会社を辞め、肩書きを捨てた今の希に残されたのは、母の愛が生んだ五千万という盾と、当たり前に用意してくれていた101日目への招待状だけだった。
(お母さん。……私、行ってくるね)
希はスマートフォンを取り出し、一番早く北へ向かう航空券を予約した。
予約完了の通知が、暗い部屋の中で青白く光る。
それは、死へのカウントダウンを、未来へと繋げるための「挑戦」へと書き換えた瞬間だった。
部屋を出る際、希は一度だけ振り返り、誰もいない空間に向かって深く頭を下げた。
左手首の数字は、もう彼女を脅かす怪物ではなかった。
それは、母の遺影を抱いて101日目のライブ会場へ向かうための、長く、けれど確かなプロローグのように感じられた。
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続きは明日20時に投稿します。
