第九章 効率の先にあった空虚


希は朝早くに目覚め、アイロンの効いた白いブラウスに袖を通した。


鏡の前で濃紺のジャケットを羽織る。


いつも通りの「完璧な自分」を演出するための、戦闘服だ。


あの畳の部屋で自分を苛め抜いた激しい胃痛や下痢は、今は嘘のように静まっている。


(仕事に戻れば、あの冷たい手の感触も、線香の匂いも、忘れられる。また、いつもの日常に戻れるはずだ)


そう自分に言い聞かせ、希はオフィスへと向かうエレベーターに乗り込んだ。


「結城さん、大変だったね。無理しなくていいんだよ」


出社した希を、部長や同僚たちは労わりの眼差しで迎えてくれた。


「ご心配をおかけしました。今日から遅れを取り戻します」


希はいつものように、隙のない微笑みを浮かべた。


何かに集中していなければ、母を失った実感が指先から全身に回ってしまう。


悲しみを麻痺させるには、無機質な数字を追うのが一番だと思っていた。


けれど、集中しようとすればするほど、思考の糸は無残に解れていった。


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翌日の43

希は、一番得意なはずのデータ集計で、信じられないような単純な入力ミスをした。


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さらに数字が一つ減った42になった朝。


彼女はついに、重要な会議の資料の順序を間違え、取引先へのメールに重大な添付漏れを起こした。


「結城さん、少し休んだほうがいい。……君らしくないミスが続いている」


部長の言葉は、以前のような叱責ではなく、ただ静かな憐みに満ちていた。



私らしくない?



希は自席に戻り、ぼんやりとモニターを見つめた。


自分は効率の化身だったはずだ。

数字こそが正義で、時間は命よりも重い資源だと思ってきた。


けれど今、目の前のモニターに並ぶ数字が、ただの空虚な記号にしか見えない。


希はふと、左腕の腕時計を外した。


そこには42という数字が、鈍い光を放っている。


(私は……何のために、この数字を削っているんだろう。もしこの数字がゼロになった時、私の鼓動も一緒に止まってしまうのだとしたら。……いえ、死ぬと決まったわけじゃない。でも、明日も今までと同じように目覚められる保証なんて、どこにもない。そんな正体不明の『終わり』を目前にして、どうして私はまだ、このデスクで無機質なデータを並べているの?)



(誰に褒めてもらうため? 何を守るため? もう、よくやったねと笑ってくれるお母さんはいないのに。私自身の『』という数字が、こんなにも激しく削り取られているというのに……)



自分の口座にある、がむしゃらに貯めてきた八百万円という貯金額。

それだけあれば、残された時間をただ食いつなぐには十分すぎるほどだった。


この場所にしがみつく理由は、もう、どこにも残っていない。


希は、書き上げた退職願を、そっと部長のデスクに置いた。



「辞める……? 結城さん、今は冷静じゃない。休暇を取って考え直しては――」


「いいえ、今が一番冷静です」



希は、これまでにないほど穏やかな微笑みを浮かべた。

 


「私は、自分の時間を、自分のために使いたいんです。……今まで、ありがとうございました」



引き止める声を背に、希はオフィスを出た。


廊下に貼られた『プロジェクト・エクリプス 世界公開まであと42日!』のポスターが、自分の腕にある数字と一日の狂いもなく同期している。


それがもう自分を縛る鎖ではないことを確信しながら、希は一歩を踏み出した。



外に出ると、冬の冷たい風が希の頬を撫でた。


あてのない自由。

手に入れたはずの時間をどう使えばいいのか、その答えはまだどこにもなかった。


希はただ、冷たい風に吹かれながら、母の遺骨が待つ静まり返ったあの部屋へ帰ることだけを考えていた。


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続きは明日20時に更新します。