第十二章 魔法の言葉


 期待は、音を立てずに削り取られていった。


 イエローナイフに到着してから三日間が過ぎた。


最新の気象予測と熟練のガイドを擁する百二十万円のプレミアムツアーをもってしても、空は厚い雲に閉ざされたままだった。


 参加者たちの間には、どこか諦めに似た静寂が漂い始めている。けれど希には、彼らのような余裕はなかった。


 ホテルの部屋で左腕をまくるたびに、数字は3736と、冷酷にその身を削っていく。


 母がいつか私と見たいと願っていた、あの空いっぱいの光。それを見つけ出すために、母の遺してくれた愛を携えてここへ来たはずなのに。


自分はただ、この極寒の地で何もできずに、貴重な時間を浪費しているのではないか。


 そんな焦燥が、氷点下の冷気よりも鋭く、希の胸を刺した。



 そして迎えた四日目の午後、ツアーは先住民族デネ(Dene)族の居住区を訪ねるプログラムを組んでいた。


 雪原の中に立つ伝統的な円錐形のテント「ティーピー」。その中に入ると、外の暴力的な寒さが嘘のような、乾いた薪の燃える香りと温もりに包まれた。


 中央の焚き火を囲み、デネ族の長老であるエライジャが、静かに語り始めた。


「オーロラは、我らににとって先祖の魂だ。空で踊る光は、生者と死者を繋ぐ架け橋なのだよ」


 彼の言葉に合わせて、力強いドラムの音が響き始める。ドーン、ドーンと、地響きのように腹に響くその振動は、効率や数字ばかりを求めてきた希の硬い心を、内側から少しずつ解していくようだった。


促されるままに手を取り合い、見よう見まねでダンスを踊る。

そこにはビジネスの駆け引きも、予算の進捗も、一切の評価も存在しなかった。


 宴が落ち着いた頃、希は焚き火の傍らでエライジャと一緒に「バノック」と呼ばれる伝統的なパンを焼いていた。



 希は、ふと自分の左腕に目を落とした。


厚い防寒着の下にある35という数字。

気づけば、彼女は誰にも言えなかった秘密を口にしていた。


「……私、自分の終わりが見えるんです。ここに、数字が刻まれていて。もう、あと35日しか残っていないんです」


 エライジャの手が止まった。彼は希の左手首を、まるで壊れ物を扱うような優しさでそっと撫でた。


「……見えるのか。お前さんにも」


 エライジャは自分の袖をまくり上げた。そこには、かつて数字が刻まれていたであろう場所に、白く光る古い「結び目」のような傷跡が残っていた。


 希は息を呑み、縋るような眼差しで彼を見つめた。


「エライジャさんも、同じだったんですか? どうやって……どうやって、その数字を消したんですか? どんな治療を、どんな効率的な方法を使ったんですか……!」


 希の切迫した問いに、エライジャは静かに顔を上げ、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。



「数字を追うのをやめなさい、小さな旅人よ。数字は、お前さんを縛る鎖ではなく、お前さんが今ここにいるという証なのだよ。0は終わりではない。まず、感謝をして生きなさい。『ありがとう』という魔法の言葉できっとお前さんのこの先の未来は明るくなる」



 希は戸惑い、わずかに眉を寄せた。



「感謝、ですか? そんな精神的なことで、この数字が消えるなんて……。具体的に、どうやってその『結び目』に変えたんですか?」


 エライジャは焚き火の炎を見つめ、穏やかに言葉を紡いだ。



「お前さんは人生を、残高が減り続ける『引き算』の帳簿だと思っているね。だが私は、数字を止めるのではなく、感謝で『無効化』したのだよ。誰かに『ありがとう』と伝える瞬間、意識は未来の死ではなく、目の前の相手に向けられる。その時、時間は計算を止め、測り得ない『今』に変わるのだ。そうして感謝を積み重ね、計算式の外側へ出なさい。そうすれば数字は役目を終え、自ずとこの結び目に変わるはずだ」



 計算式の外側へ。



 人生を正確に仕訳することに心血を注いできた希にとって、それは最も衝撃的な「解決策」だった。


 母が遺してくれた五千万円という資産も、自分を削って作った引き算の数字ではなく、希に笑ってほしいと願った「足し算の愛」だったのだ。

 

 希の中で、冷たく固まっていた思考の殻が、内側から熱を帯びてひび割れていく。


「ありがとうございます。エライジャさん。……私、ようやく自分の時間を、どう使えばいいかわかった気がします」


 初めて口にした、心からの感謝。


その瞬間、左腕に絶えずまとわりついていたあの冷たい重圧が、ふっと軽くなったような気がした。


 ティーピーを出て、宿泊先へ戻る送迎車の中でも、希はガイドやスタッフに対して「ありがとうございます」と言葉を添えるようになった。


これまで謝罪ばかりを選んできた彼女の唇が、感謝を奏で始める。

言葉にするたびに、胸の奥に溜まっていた冷たい鉛が、少しずつ消えていくような感覚があった。

 

 左腕の数字は、依然として止まることなく減り続けている。

 けれど、希の目に映る世界は、少しずつ彩りを取り戻していた。



 そして訪れた、イエローナイフでの最終夜。

 空は依然として重い雲に覆われていたが、希は母の遺影と101日目のチケットを抱きしめ、静かにその時を待っていた。


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続きは明日20時に投稿します。